550年後、目覚めた英国王=26=

❢❢❢ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ❢❢❢

○◎ =“薔薇戦争”の最後を飾る英国王・ヨーク朝の終焉= ◎○

エジンバラ

 ◆ 皇太子と王妃の死 ◆◇

  1483年の秋の反乱を鎮圧したことで、リチャード3世はイングランド史上前例のないほどの強力な王となった。国内の反対勢力は一掃され、かれは全イングランドを掌握したのである。 しかし、このときのリチャードの体制は軍事力を背景にしたもので、人心はかれから離反していた。 かれに残された仕事は、正統な国王として、一日も早く議会と国民の支持をとりつけることだった。 

 ところがリチャードは、これまでいつもかれのそばにいてもっとも頼りにしていた参謀のバッキンガム公を失っていた。 バッキンガム公は邪心からではあったが、リチャードに王冠をもたらしたことは確かだった。 王権の安定と維持には、ときには策略も悪も必要だった。 リチャードのためにそれをなしてきたのがバッキンガム公だった。 はたしてこれからは、彼に代わってそれができる者はいるだろうか。 

 ノーフォーク公ジョン・ハワードは頼りになるが、リチャードと同じ軍人肌だった。 戦場にこそふさわしいが、政治向きの人間ではなかった。 4代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーとは同盟関係にあったが、かれはいまひとつ動きが悪く、頼りにならなかった。 スタンリー卿トマスは埒外だった。 かれは本心を顔に出さない人間で、何を考えているかわからないからである。 つまりこのときリチャードには、参謀となるべき腹心がいなかったのである。

ハットン城

  1484年、年が明けると、リチャードはかれの統治となって最初の議会をひらいた。 リチャード3世にとってもっとも重要な議題は、彼の王位継承がローマ・カトリックの教会法に照らしても正当なものであることを、正式に決議することだった。 これを受けて2月、リチャード3世は諸侯にあらためて息子で皇太子のエドワードへの忠誠の誓いをもとめた。 31日、エドワード5世の母親エリザベス・ウッドヴィルもリチャード3世の王権を認め、娘たちとともに聖域であるウェストミンスター寺院からでてきた。 そしてリチャード3世は、彼女たちを庇護することを公に誓ったのである。 リチャード3世は、このあとも各地をまわっては、王権の正当性を強調していった。

 リチャードの国王としての統治期間は、2年余りである。 その最初と最後は、反乱との戦いで、平穏なときはそのあいだのわずかな期間だけだった。 彼が政治的能力や手腕を発揮するには、あまりにも短かった。 彼・リチャード3世の王としての能力を評価するにも短すぎた。 それでもリチャードの政治的能力の片鱗は、かれがグロスター公だった時代にうかがえる。 リチャードはこの時代に、英国行政史に大きな功績を残していた。

 リチャードはヨークシャーのミドゥラム城を本拠地としていた時代に、地方領主の遺産相続や土地の権利をめぐる争いを調停するために、私的な評議機関を創設していた。 そして、地方での領主同士の争いに、公平な判断が下されるようにしたのである。 これによってリチャードは、統治をまかされた北部において、大きな信頼をえたという。 このリチャードの評議機関は、のちにヘンリー8世(在位1509-47)が1537年に設置した北部地方院やウェールズ地方院――すなわち地方において国王の裁決と同等の効力をもつ最高の行政裁判所――のモデルとなったものである。

アン・ネヴィル

 エドワード4世時代の最後の2年間は、イングランド北部は完全にリチャードにまかされていた。 彼は、北部においては誠実で信頼される名君だった。 リチャードにとって、兄エドワード4世の副官だった時代が、いちばん輝いていたかもしれない。 それが兄の急死によって、かれの運命は大きく変わってしまったのである。 

 14844月、リチャードに突然、不幸がおとずれた。 彼のただひとりの嫡出の息子だった皇太子エドワードが、ヨークシャーで急死したのである。 11歳の少年皇太子である。 その場所は、シェリフ・ハットン城(ミドゥラム城だったという説がある)だった。 リチャードと王妃アンがこの知らせをきいたのは、ノティンガム城に滞在しているときだった。 リチャードはその後、この城を「悲しみの城」と呼んだという。 皇太子エドワードは、シェリフ・ハットンの教会に埋葬され、かれの彫像付き石棺は、いまでもそこに安置されている。

 リチャードの運命がここにきて、ふたたび大きく変わろうと軋みはじめていた。 王妃アン・ネヴィルは、皇太子の死のショックから立ち直れず、そのまま寝ついてしまった。 リチャードと彼女とのあいだには子供はひとりしかおらず、アンの健康状態からは、その後も子供が望める状態ではなかった。 アンは結核を患っていたのだろうと言われている。 彼女の衰弱のようすと、「アンのベッドには近づかないように」とリチャードが忠告されていた記録があるのである。 しかし、リチャードがアンに近づけなかったことが、「リチャードは王妃アンを嫌っている。そして、姪のエリザベス(エドワード4世の長女エリザベス・オヴ・ヨーク)と結婚したがっている」という邪悪なうわさを呼ぶことになった。 

シェリフ・ハットン

 翌年の1485316日、王妃アンは、回復することもなく他界した。 ウェストミンスターで病気療養中の死去し、そこに埋葬された。 すると、反リチャード勢力の敵意が、ふたたび頭をもたげ、かれの王権をゆさぶりはじめた。 彼らは「アンはリチャードに毒殺された」とか、「リチャードは姪のエリザベスと結婚する気だ」というような噂をながし、リチャードを不道徳な王だと攻撃したのである。 これらの噂に悩まされたリチャードは、イースターの前に、それらを公に否定しなければならなかった。

 ところで、「リチャードがエリザベスと結婚したがっている」という噂は、じつは、リチャードとの結婚を望んでいた姪のエリザベスが故意に流したものであると言う。 その根拠となっているのは、アンが他界する直前に、エリザベスがノーフォーク公ジョン・ハワードに書き送ったという手紙の中で、エリザベスは、リチャードとの結婚を望んでいることを暗示していた、というのである。 それはべつとして、リチャードにしてみれば、エリザベスは姪であるばかりか庶子だった。 さらにその母親エリザベス・ウッドヴィルは、貴族ではない階級の出身だった。 成り上がりのその一族は、兄国王の権力を笠にして、やりたい放題だった。 個人的にも国王としての立場からも、姪のエリザベスは、けっしてリチャードが引かれる相手ではなかったと考えられているのだが。

ノッテンガム

それにしても、リチャードが噂どおりにエリザベスの弟たち(エドワード5世とリチャード)を殺害したとすると、彼女はその犯人となぜ結婚したかったのか。 たとえ弟たちの仇であっても、リチャードとの結婚で王妃になりたかった、というのだろうか。 野心的な母親の性格を受け継いでいたとすれば、それもあったかもしれないが・・・・・。
 リチャードが噂を公に否定したことで、恥をかかされたと思ったエリザベスはその後、かれへの思いを憎悪へと変えていった。 そして彼女は、リチャードの宿敵ヘンリー・テューダーへと接近していったのである。 そこには、ヘンリーの母親
マーガレット・ボーフォートからの誘いがあったとされている。 しかしリチャード極悪人説では、「エリザベスが最初からヘンリーと結婚しようとしていたのを、リチャードが妨害していた」と曲解するのである。

ブルターニュー

===== 続く =====

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