550年後、目覚めた英国王=28=

❢❢❢ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ❢❢❢

○◎ =“薔薇戦争”の最後を飾る英国王・ヨーク朝の終焉= ◎○

ワークアース城

◆ ヘンリー・テューダーの挑戦 ◆◇

 気弱で性格の大人しかったヘンリー6は、義理の弟たちを冷遇することもなく、逆に貴族に取り立てて兄弟づきあいをした。 そして、兄のエドマンドにはリッチモンド伯爵位を、弟のジャスパーにはペンブルック伯爵位をあたえたのである。 ペンブルック伯となったジャスパー・テューダーは、その恩に報いるために、その後50年間以上もランカスター家につくしたという。 一方、リッチモンド伯となったエドマンド・テューダーは、初代サマーセット公ジョン・ボーフォートの娘マーガレット・ボーフォートと結婚したが、息子が生まれる数カ月前の1456年に、若くして亡くなってしまった。

 その息子は1457128日に生まれ、ヘンリー6世にあやかってヘンリーと名づけられた。 かれこそ、のちにランカスター家の仇を討つことになる、ヘンリー・テューダー(前節参照)である。 ヘンリーが生まれたとき、母親のマーガレットはまだ14歳だったという。 彼女は、エドワード3世の四男ランカスター公ジョン・オヴ・ゴーントとかれの3度目の妻キャサリン・スウィンフォードとのあいだに生れた息子サマーセット伯ジョン・ボーフォートの孫にあたった。 したがってマーガレットは、遠縁ではあったが、ランカスター公の血を引いていた。 即ち、母はランカスター家傍系ボーフォート家、父はリッチモンド伯エドマンド・テューダーであったが、誕生の3カ月前に死去していた。 =前節系図イラスト参照=

ボーホート妃

  家系を振り戻れば、祖父のサマーセット伯オウエン・テューダー(前節参照)は、母親がまだランカスター公の愛人だった時代に庶子として生まれていた。 オウエン・テューダーがイングランド王ヘンリー6の母后カトリーヌ(ヘンリー5の未亡人)の納戸係秘書官として仕えていたが、ヘンリー5世の死後に事実上の婚姻関係を結び、時の経過とともに黙認された経緯は前節に記した。 オウエンとキャサリンの間に生まれた男子がエドマンド及びジャスパーの兄弟であり、ヘンリー6はキャサリン妃とヘンリー5とが授かった唯一の正嗣である。  因みに、キャサリンはフランス王シャルル6の娘キャサリン・オブ・ヴァロア王女であった。

 14538月のボルドー失陥(フランス領内)の報を受け、ヘンリー6世は精神疾患に陥り、自身の周りで起こっている事を全く認識できなくなってしまった。 これはその後1年間続き、王妃マーガレット・オブ・アンジューが生んだエドワードと名づけられた自身の後嗣の誕生にも反応できなかった。 =ヘンリー6世のこの病は、おそらく母方の祖父で、その死の前の30年間にわたって断続的に精神錯乱を起こしたシャルル6世から遺伝していたと考えられる。=

 1454年のクリスマスの日、ヘンリー6世は正気を取り戻した。 彼の治世下で実力を増していた不平貴族達(最重要人物はソールズベリー伯・ウォリック伯父子であった)は、ヘンリーと対立するヨーク家の要求を支持することで積極的に事態に関与した。 これら諸侯の思惑が交錯する中で14555月に薔薇戦争は勃発した。 初戦の第一次セント・オールバンズの戦いでランカスター派は大敗、ヘンリー6世は捕らえられ、サマセット公とノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーは戦死した。

アンジュ王妃

この内乱の中でヘンリー6世はしばしばヨーク派に捕らえられた。 捕らわれの身の間にまたも彼の精神状態は悪化し、ヨーク派に捕らわれていた第二次セント・オールバンズの戦いでは戦闘の最中に笑い出したり歌ったりの錯乱の発作に襲われていた。 結局ヨーク公リチャードの息子エドワード146134日にエドワード4世としてイングランド王に即位し、ヘンリー6世は実質的に退位させられた。  新国王エドワード4世は続くタウトンの戦いでスコットランドに逃げた前国王夫妻を取り逃がした。 ランカスター派は、マーガレットといまだ彼女に忠誠を誓う貴族たちによる指導体制でイングランド北部とウエールズで抵抗運動を続けていたが、エドワード4世の誠実な弟リチャードの軍事的な才覚の前に沈黙する。 1465年にはヘンリー6世はランカシャーのクリズローで捕えられ、ロンドン塔に送られて監禁されてしまった。

 その頃、マーガレット王妃(シャルル7世の王妃の姪にあたるマーガレット・オブ・アンジュー)は逃亡先のスコットランドも追われ、フランスに逃亡せざるを得ない状況であった。フランスでの数年間は貧困生活が待っていたが、マーガレット王妃は夫と息子のために王位を奪還することを誓っていた。 彼女自身でなせることはほとんどなかったが、やがてエドワード4世は主要な支援者であるウォリック伯と弟のクラレンス公ジョージと相次いで仲違いした。 フランス王ルイ11の後押しで、彼らはマーガレットと秘密同盟を結んだ。

シャルル

ウォリック伯は自分の末娘アンをヘンリーとマーガレットの息子エドワードと結婚させた後イングランドに戻り、戦闘でヨーク派を破り、14701030日、ヘンリー6世を復位させた。 しかし潜伏とそれに続く幽閉の日々は彼の健康を蝕んでおり、ウォリック伯とクラレンス公がヘンリー6世の名の下で事実上の統治を行った。 ヘンリー6世の復位期間は6ヶ月も続かなかった。 間もなくウォリック伯はブルゴーニュ(フランス東部からドイツ西部にかけて存在)に宣戦を布告し、ブルゴーニュ公シャルルはエドワード4世に王位奪還に必要な軍事的支援を与えることで応じ、エドワード4世は147154日、テュークスベリーの戦いで決定的な勝利を収め、ヘンリー6世の息子エドワード皇太子は殺された。 ヘンリー6世もロンドン塔に幽閉され、1471521日あるいは22日にそこで亡くなった。 ランカスター本家の男子直系が断絶したとき、俄然この家系に、ランカスター家の王権奪還の最後の望みが託される人物が浮上した。

 1457128日に生まれ、ヘンリー6世にあやかってヘンリーと名づけられたヘンリー・テューダー(前節参照)である。 かれこそ、のちにランカスター家の仇を討つことになるヘンリー7。 ヨーク朝エドワード4の娘にしてリチャード3世の姪にあたるエリザベス・オブ・ヨークと結婚して王位を固め、薔薇戦争による混乱を解決する。 その後、テューダー朝を創立して24年間王位に座り、平和裏に息子ヘンリー8に王位を継承する。君主の権力を回復し、政治を安定させ、優れた統治、積極的な外交政策と経済運営を行うイングランド王として君臨、戦いで王座を得た最後のイングランド王となっていく。 その最後の戦いが、リチャード3世との決着である。

タウトンの戦い

===== 続く =====

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