550年後、目覚めた英国王=29=

❢❢❢ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ❢❢❢

○◎ =“薔薇戦争”の最後を飾る英国王・ヨーク朝の終焉= ◎○

ボスワース戦

◇◆ ボズワースへの道 ◆◇ 

 ヘンリー・テューダーは叔父のペンブルック伯に保護されて成長したが、子供のころからばら戦争に巻き込まれたことは、リチャード3世と同じだった。 1461年のタウトンの戦いでランカスター家が敗北すると、ペンブルック伯はフランスへ逃れ、領地を失うことになった。 そして4歳のヘンリーは、ヨーク派のハーバート家にあずけられ、そこで育てられるようになった。 

 1470年、ヘンリーの祖父であるペンブルック伯ジャスパー・テューダーはランカスター派の中心となり、フランスに亡命中のヘンリー6世の王妃であるマーガレット・オブ・アンジューと連絡を取り続けた。 彼女はヨーク派に奪われた自分の息子エドワードの王位継承権を取り戻そうと躍起になっており、ウォーリック伯リチャード・ネヴィル、エドワード4世の弟クラレンス公ジョージらと手をむすび、エドワード4世にたいする反乱を起こした。 そしてヘンリー6世の復位が実現すると、ヘンリー・テューダーも宮廷にもどることができた。 しかしそれもつかの間、1471年のバーネットの戦いテュークスベリーの戦いでランカスター家が相次いで敗北すると、ヘンリーはペンブルック伯とともに、フランスへと逃れていった。

ブルターニュー

 彼はブリタニー公フランシス2のもとに身を寄せたが、そのままブリタニー公の監視下におかれ、捕虜同然の生活をしいられるようになった。 そして、ヘンリーは父の爵位リッチモンド伯を名のっていたが、このあと10年間、ブリタニー公とイングランドとの駆け引きに利用されたのである。 ヘンリーの王位継承権は主に母方のボーフォート家に由来する。 母マーガレット・ボーフォートはエドワード3の三男のジョン・オブ・ゴーントの子であるジョン・ボーフォートの孫であった。 だが、ジョン・ボーフォートは両親が結婚する前に生まれた私生児であり、後に従兄に当たるリチャード2に嫡出子として認められた時、王位継承権を放棄させられていた。 さらに女系の血筋であることもあって、ヘンリーの王位継承権には疑問符が付いていた。 しかし1483年までには、ヘンリー6世と息子の王太子エドワード・オブ・ウェストミンスター、さらに他のボーフォート家の成員が死に絶え、ヘンリーがランカスター家一門の最年長の一員となっていた。

 1483年の秋、イングランド国内の反リチャード勢力が「ヘンリーを国王に!」とバッキンガム公と反乱を起こした。このとき、ヘンリーはブリタニー公から船と戦士を借りうけ、イングランドへとむかった。 しかし、この反乱は先に記したように失敗し、ヘンリーはイングランドの地を踏むことさえできなかった。 ヘンリーの野望は、1度は打ち砕かれたが、かれには「リチャードは諸侯の支持を失いつつある、いずれかれの体制は弱体化する」と感じるものがあった。 そしてこの年のクリスマス、ヘンリーはレンヌ大聖堂に亡命者をあつめると、イングランド王権の奪還とヨーク家のエリザベスとの結婚を誓約した。

ばら戦争ー1

 ヘンリーは、これまでは反乱に乗じて王座を得ようとしていたが、ついにイングランドの王冠を公然と要求し、これからは正面切ってリチャード3世に挑戦すると宣戦布告したのである。 しかし、ヘンリーが王位の要求をはっきりさせたことは、かれの立場も微妙に変化させることになった。 ブリタニー公は、リチャード3世からのヘンリー引き渡しの要求に応じる動きを見せはじめたのである。 こうなると、この亡命先も、ヘンリーにとっては安全ではなくなってきた。 「ヘンリーはいくらになるか」とブリタニー公が値踏みをしているとき、ヘンリーは取巻きとともにブリタニー公領を脱出し、フランス国王領へと逃れていった。 イングランドからの亡命者らも、そのあとを追った。

 フランス国王シャルル8(在位1483-98)は、ヘンリーを宮廷にこころよく迎え入れた。 しかし、かれも本気でヘンリーを支持しているわけではなかった。 対イングランド外交に利用しようという考えでは、ブリタニー公と同じだった。 本腰を入れてヘンリーを支えるか、それともリチャードをいらつかせる交渉の材料にするか、だったのである。 ヘンリーは、シャルル8世のあいまいな態度に焦燥感をつのらせながらも、亡命者をあつめた。 さらに、イングランド国内の同盟者と連絡を取り合い、侵攻の準備を進めていた。

 1485年の5月ごろから、イングランドでは「ヘンリー・テューダーが侵攻の機会をうかがっている」といった話が、しきりに交わされるようになった。 戦争がすぐそこまで迫ってきたのである。 リチャード3世もヘンリーの侵攻を迎え撃つべく、準備をはじめた。 かれは、今度の戦いは、おそらく最終決着をつける大きな戦いになるだろうと予感していた。 ヘンリーはいったいどこから来るか。 東か、南か、それとも西か。

シャルル8世

 5月、リチャード3世はロンドンを離れ、69日にイングランドのほぼ中央に位置する、ノッティンガム城に居を移した。 621日、かれはそこでヘンリー・テューダーの挑戦を受けて立つと宣言すると、各地の諸侯、騎士に兵の動員令を出した。 リチャードは、首都ロンドンの防衛をサー・ロバート・ブラッケンベリーにまかせ、かれにかなりの兵力をあたえることにした。 ノーフォーク公ジョン・ハワード(前節参照)には、かれの本拠地であるサフォークのフラリンガムで待機させ、東部からの侵入にそなえさせた。 スタンリー卿トマスはあまりあてにできなかったが、かれにはかれの本拠地であるランカシャーのレソムで、北西部での警戒にあたらせた。

 南部の海岸線の警戒には、リチャード3世の親しい友人であるラヴェル子爵フランシス・ラヴェルをあてることにした。 そして、かれには海軍の指揮権をあたえ、サウサンプトンに派遣した。 これで、まずはヘンリーがどこから侵入しようとも、迎え撃つ準備はできた。 リチャードが得ていた情報では、ヘンリーはウェールズの南西部のペンブルックシャーのミルフォード・ヘイヴンか、ウェールズ南部のセヴァーン川の河口あたりに上陸する可能性が高かった。 そこはテューダー家のふるさとに近く、ヘンリーが住人や郷士の支持を期待できたからである。 そこでリチャードは、ウェールズ南部の海岸線の監視を強めていった。 7月になると、イングランド中が開戦前夜のような異様な雰囲気に包まれ、雌雄を決する大きな戦いのうねりが鼓動しだした。

ジャスパー・ヂュ

 一方ヘンリー・テューダーは、この年の早いうちからシャルル8世の支持をとりつけ、支援を引き出すことに成功していた。 そしてノルマンディーのルーアンに移動すると、そこで船や戦士、武器の準備をはじめていた。
 イングランド侵攻の時期としては、英仏海峡の春の大しけが収まったころを狙っていた。 おそらくこのころには、リチャード3世の王妃アンが死亡したことや、「リチャードが姪のエリザベスと結婚しようとしている」といった噂も、ヘンリーの耳に入っていただろう。

 かれの1度目のイングランド侵攻計画は、あまりにも準備不足だった。 それと、反リチャード勢力の反乱をあてにしすぎていた。 しかし、今度は失敗するわけにはいかなかった。 これが最後のチャンスになるかもしれないからである。 ヘンリーには、金もなければ、人もいなかった。 あるのは、ランカスター家の血を引いているという誇りだけだった。

 それにたいしてリチャード3世は、諸侯の支持を失いつつあるとはいっても、かつてないほどの強大な力をもったイングランド王だった。 春の大しけの季節が終わるころになると、ヘンリーとイングランド国内の反リチャード勢力は、英仏海峡をはさんで、頻繁に情報のやりとりをするようになった。 一方リチャードも、フランスに潜り込ませたスパイを使って、ヘンリーの上陸作戦を探っていた。 

ジョン・ハワード

トーマス・スタンリー

 ===== 続く =====

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