550年後、目覚めた英国王=30=

❢❢❢ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ❢❢❢

○◎ =“薔薇戦争”の最後を飾る英国王・ヨーク朝の終焉= ◎○

カーディブ城

◇◆ 少数の将兵で祖国に戻ったヘンリー ◆◇

イングランド国内では、5月3日、スタンリー卿トマスとその弟サー・ウィリアム・スタンリー、それにサー・ギルバート・トールバットらが集まり、「リチャードにつくか、ヘンリーにつくか」で密談をかさねていた。 そしてかれらは、当面はリチャード支持の態度を示すが、最終的にはヘンリー支持にまわることを確認し合っていた。 そこには言うまでもなく、ヘンリー・デユーターの母親マーガレット・ボーフォートの精力的な働きかけがあったと考えられている。

彼女は、夫リッチモンド伯エドマンド・テューダーに先立たれたあと、ヘンリーがまだ子供のころに、エドワード3世の血を引くサー・ヘンリー・スタフォードと再婚をしていた。その後、マーガレットはふたたび未亡人となったが、1482年には、じつは大物貴族のひとりであるスタンリー卿トマスと再々婚をしていた。 彼女はそのころ39歳前後だったが、「いずれは息子を国王に」との野心から、すでにスタンリー卿を取り込んでいたのである。

6月始め初めごろ、ヘンリーのもとに、「イングランド国内の大物貴族がヘンリー支持にまわるだろう」という知らせが届いた。 これをうけてヘンリーと亡命者たちは、イングランド侵攻の最終決断を下すことができた。 あとは、いつフランスを出港するかだけだった。 その時期を左右したのは、イングランドの天候だった。 ヘンリーとかれの同盟者たちは、イングランドの地が夏の太陽で乾燥するのを待つことにした。

イングランドの初夏の天気は変わりやすく、よく雨が降る。 晴れていると思っていても、すぐににわか雨がやってくる。 雨があがって日が射したと思ったら、また通り雨がやってくる。 これのくりかえしである。 地面はいつも濡れている。 そんなところを騎乗して進軍したら、馬はぬかるみに足を取られてしまう。 天気が安定してくるのは、7月になってからである。 そして、地面が乾くのを待つのである。

オックスホード伯

 1471年のヂュークスベリィーの戦い(前節参照)の大敗北を受けてフランスに身を隠していたヘンリー・テューダーは、 81日、わずかな手勢と傭兵をひきいて、セーヌ川の河口を出港した。 船団は英仏海峡を静かに渡ると、イングランドの南岸に沿って西へとむかった。 ヘンリーとともに海を渡ったのは、オックスフォード伯ジョン・ドゥ・ヴィアとペンブルック伯ジャスパー・テューダーだった。  ヘンリー軍のイングランド兵は、亡命者を入れても5百に満たなかった。 あとは、シャルル8世の援助で雇った2千ほどの傭兵だった。 そのほとんどはフランス人で、そこに少数のスコットランド人が入っていた。 これがフランスを発ったときのヘンリー軍の全兵力で、合わせても25百足らずだった。 ヘンリーは、とにかくこの兵力でイングランドに上陸し、あとは、テューダー家ゆかりのウェールズと、イングランド北西部の支持者が駆けつけてくることに期待するだけだった。

 リチャード3世はそれまでにもランカスター派の軍と戦ってきたが、この戦いが最後の戦いになる。 対するヘンリーは軍事経験にこそ乏しかったが、味方として、共に経験豊かで才知にも長けた、叔父であるペンブルック伯ジャスパー・テューダーオックスフォード伯を伴っていた。 時に、このころ、イングランドにいたヘンリーの母親マーガレットは、ランカスター家に残された金をかき集め、それをばらまいては、懸命になって息子への支持をあつめていた。 ヘンリー軍の船団は、コーンウォール半島の先端のランズエンドをまわると、北上してウェールズをめざした。 そして87日、ウェールズ南西部、ペンブルックシャーのミルフォード・ヘイヴンの沖に、その姿を現わした。 

ウエールズ

 テューダー家のルーツは、ウェールズ最西端のセント・デイヴィッズにあった。 ヘンリーの体に流れているウェールズ人の血は4分の1だったが、かれはそれ以上にウェールズ人であることを意識し、誇りに思っていた。
 雄大なペンブルックシャーの海岸線が見えてきたとき、ヘンリーの血は激しく沸きかえった。 かれは14歳でフランスに亡命し、その後、10年間以上も屈辱的な亡命生活に耐えてきた。 そのあいだには、イングランドとフランスの政治的駆け引きに利用されることもあった。 そのヘンリーにとって、亡命時代の鬱屈した思いを一挙に晴らすときがきたのである。 しかしヘンリーには、不安もあった。 一時、ランカスター家が王権を奪還したときがあったとはいえ、この20年間以上のヨーク家の王権のもとで、ウェールズ南部の政治的状況がすっかり変わってしまったかもしれないからである。 はたして、どれだけの支持者が集まってくるか、ヘンリーには予測ができなかった。

 いま、目の前に広がるペンブルックシャーは、ウェールズの南西部の端っこに位置し、見捨てられたような、ひと気のないところである。 リチャードの強大な力も、ここまでは及んでいないだろう。 上陸して最初の拠点とする場所としては最適だった。 ヘンリー・デユーターは日没を待ってミルフォード・ヘイヴンの広い湾に入り、西側の最初の入り江に船を停めた。 それから、かれは興奮して上陸した。 そこでは、支持者のひとりであるリース・アプ・トマスが出迎えてくれることになっていた。 イングランド王になるために少数の兵、その多くはフランスの傭兵だが、とともに故郷のペンブルクシャーに上陸しだった。 しかし、そこには誰もいなかった。 そのころリースはというと、ヘンリーの力をまだ計りかねていた。 そしてリチャードを恐れて、態度を決めかねていたのである。

チューダー朝

 ヘンリーは、ミルフォード・へイヴン湾に突き出た岬にあるデイル城に入った。 そこでかれは、軍の士気を高めるために、かれにつき従ってきた者、数名に騎士の称号をあたえた。 その夜ヘンリーは、ウェールズの血縁者や知人、友人に手紙を書いた。 かれはそのなかで、ウェールズの栄光とその復活のために、ウェールズの旗「赤いドラゴン」のもとに結集するようにと訴えた。 その手紙は、古代ケルトの時代からつづいてきた誇り高いウェールズ人の、心のもっとも奥深いところに響くものだったという。 それからヘンリーは、これからの進路について側近たちと話し合った。 ロンドンをめざすには、ミルフォード・ヘイヴンからウェールズ南部を通り、まっすぐ東へ進むコースがもっとも近かった。 しかしこのコースは、リチャード3世がもっとも警戒している可能性があり、危険だった。

 更には、ヘンリーに届く情報も混乱していた。 ヘンリー支持にまわったはずのリース・アプ・トマスやサー・ウォルター・ハーバートらの動きも、どこかおかしかった。 かれらが「リチャードについた」とか、「ヘンリーを待ち伏せている」といった知らせも入ってきていた。 そこで、ヘンリーは軍を増強する必要もあったことから、北へ大きく迂回するコースをとることにした。 そして進軍しながら、ウェールズの中部と北部の、イングランドの北西部の支持者を呼び込むことにした。

進軍路_1_

===== 続く =====

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