550年後、目覚めた英国王=31=

❢❢❢ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ❢❢❢

○◎ =“薔薇戦争”の最後を飾る英国王・ヨーク朝の終焉= ◎○

ノッテンガム城

◇◆ ボズワースへの道 ◆◇

 上陸したヘンリー・デユーターは父の地元のウェールズを駆け巡って支持者を集め、中部地方に到着した時には推定5,000人の兵を集めていた。 それに対してリチャード3世は、約8,000人を動員していたのである。 戦いの勝敗を決したのは、ウィリアム・スタンリー卿Sir William Stanley)とトマス・スタンリー男爵(前節参照)のスタンリー兄弟の動向であった。 トマス・スタンリーはヘンリーの継父にあたるので、リチャード3世にしてみれば信用しすぎるのは危険ではあったが、リチャードはその配慮に欠き、兄弟の継続的な忠誠心に依存しきっていたといえる。 =以下、前節イラスト・“ボズワースへの進軍路(1)”参照

 88日、ヘンリーはミルフォード・ヘイヴンから北へむかった。 そして、ハーヴァーフォードウェスト、カーディガンと進んで海岸線にでた。 さらに、海岸線に沿ってランバーダーン、マチンリスへと進路をとると、そこからウェールズの屋根カンブリア山地を越えて、ウェルッシュプールをめざした。 ヘンリー側につくと約束していたリース・アプ・トマスはというと、手勢を引きつれて、ヘンリー軍に沿うようにして移動していた。 しかし、彼はすぐには合流してこなかった。 そうすることで、彼は自分の値段をつり上げていたのである。 リース・アプ・トマスは、ヘンリーが勝利したときのウェールズ総督代理の職を約束する取り付けを確認すると、ようやくヘンリー軍に合流してきた。 北ウェールズからは、ヘンリーの血縁者や部族長が、兵をひきいて駆けつけてきた。 ハーバートもようやく、ウェールズ南東部の一隊を引きつれてやってきた。 ウェルッシュプールに入ったころには、ヘンリー軍は当初の2倍、約5千にふくれあがっていた。

トーマス・スタンリー

 815日、ヘンリーはセヴァーン川に沿って下り、イングランドに入った。 そして最初の町シュルーズベリーに降伏を迫った。 ペンブルックからノッティンガムまでは約350キロメートルある。 ペンブルックの保安隊長リチャード・ウィリアムズからの「ヘンリー・テューダーが上陸した」との第1報は、早馬で4日目にノッティンガム城のリチャード3世のもとに届いた。 リチャードは6月に1度、ヘンリーの侵攻にそなえた動員令を出していた。 しかしこれはまだ、出動準備的なものだった。 だが、今度はちがった。 ヘンリーはすでにイングランドに上陸し、王権を要求して進軍中なのである。

 数日前の811日、リチャード3世は各州の長官や司令官と諸侯に、あらためて緊急動員令を出した。 そのあいだにも、「ヘンリー軍は小規模」、「上陸に呼応した蜂起はない」、「ヘンリー軍は北に向かっている。それを国王軍の捜索隊が追尾している」と、つぎつぎと伝令がもたらす知らせが入ってきた。 ヘンリー側についたリースやハーバートからは、「蜂起など馬鹿げている」と、リチャードをあざむく報告が入ってきた。 ところが、リチャードはこれを信じ、楽観的になってしまった。 緊急動員をかけたものの、ウェールズに配備した国王軍で十分だろうと思ったのである。

 歴戦の勇士として、リチャードはつねに果敢に行動してきた。 しかし、かれが「ヘンリー上陸」の知らせを受けてから動きだすまでには、時間をかけすぎているように思える。 これには、かれが2年近く前にあった反リチャード勢力とバッキンガム公の反乱を、簡単に鎮圧できたことが影響していた。 リチャードは、今回のヘンリー・テューダーの挑戦も、簡単に粉砕できると考えていたのであろう。 しかしながら、リチャードがリースとハーバートがヘンリー側に寝返ったことに気がついたのは、815日ごろだった。 それに激怒したリチャードは、今後 寝返りがつづくことを警戒した。

進軍路ー3

 ラヴェル子爵フランシス・ラヴェルとスクロウプ・オヴ・ボルトン卿ジョン・スクロウプらは、早いうちからのリチャードの支持者で、信頼ができた。 そして、リチャードがもっともあてにしていたのは、ノーフォーク公ジョン・ハワード(前節参照)だった。 そのノーフォーク公がフラリンガム城で出動命令を受けたのは、813日のことだった。 かれは3日で軍備をととのえると、レスターでリチャードの国王軍と合流するために出陣していった。 北部にいたふたりの実力者、すなわちノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーとスタンリー卿トマス・スタンリーの動きは鈍かった。

 ノーサンバランド伯は、北部諸州での兵の招集をまかされていたが、熱心ではなかった。 彼は、選択肢を広げておきたかったのである。 そのためかれは、国王軍に出す兵の数を意図的に少なくし、自軍の兵を温存していた。 さらに故意になのか、かれは時間をかせぐように、ゆっくりとノッティンガムへ向かっていた。 スタンリー卿トマスは、すでにヘンリーと通じていて、かなり以前からヘンリーのイングランド侵攻計画を知っていた。 彼はリチャードから、息子のストレインジ卿ジョージ・スタンリーをノッティンガムに残すという条件で、自領であるチェシャーへの一時帰郷の許可をもらっていた。 しかし、スタンリー卿はそのまま自領に居つき、リチャードのもとに戻ろうとしなかった。 そこで不承ながらもリチャード3世は、かれをイングランド北部での警戒にあたらせたのである。

進軍路ー4

 戦場は、レスターシャーのサットン・チェイニー(Sutton Cheney)とマーケット・ボズワース(Market Bosworth)の近くであった。 戦闘はリチャード3世の本隊とヘンリーのフランス傭兵隊との交戦から始まるおだが、ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーとスタンリー兄弟の軍は、両陣営の主力軍から少し離れた所に陣取っていた。 彼らは戦闘の決着が見えるまでどちらにも就かないという、詐欺的ともいえる慎重さを示すのである。 関ケ原の合戦での“小早川秀秋の裏切り”を実演して見せる。 リチャード3世としては、スタンリー兄弟が味方しないまでもせめて中立を保つように、人質を取っていたのだが・・・・・・・。

進軍路_1_

進軍路_2_

===== 続く =====

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