550年後、目覚めた英国王=37=

❢❢❢ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ❢❢❢

○◎ =“薔薇戦争”の最後を飾る英国王・ヨーク朝の終焉= ◎○

ミドゥラム

◇◆ アンビオンの丘の攻防 ◆◇

ヘンリー軍が湿地に沿って動きだしたころ、それに呼応するかのように、ボズワース原野の北西部、ニア・コットン近くに布陣していたスタンリー軍も南下しはじめた。 リチャードは、このかってな動きをスタンリー兄弟の寝返りととり、激怒した。 そして、人質にとっていたスタンリー卿の息子ストレインジ卿を処刑するように命じた。 しかしこの命令は、すぐに撤回された。 「決戦を前にして、いまはそれどころではない」と、側近にいさめられたからである。

ヘンリー軍は、丘を攻め登る前に、戦闘隊形をととのえる必要があった。 そこで、まずサー・ギルバート・トールバットのひきいる部隊が国王軍を右に見て湿地に沿って北西に進み、丘の南西部の登り口にとりついたところで、国王軍の前衛からの側面攻撃にそなえた防衛線をはる。次に、その背後をまわってオックスフォード軍がその先にでる。 さらにその先にヘンリーとサー・ジョン・サヴィジの軍がでて戦闘隊形をとる――ということにした。

トールバット軍が丘の南西部のとりつきに防衛線をはったとき、リチャードは前衛のノーフォーク公に攻撃を命令した。 まず、サーペンタイン砲が火を吹き、4ポンド(約1・8キログラム)の鉄球がトールバット軍を襲った。 砲撃につづき、長弓隊の攻撃がはじまった。空に向けていっせいに放たれた無数の矢は、大きな円弧を描いたあと、トールバット軍の上に雨のように降りそそいだ。 トールバット軍はこの攻撃を必死になって耐え、オックスフォード伯の主力部隊が戦闘態勢に入るのを待った。

ミドゥラム城

 長弓隊の攻撃が終わると、ノーフォーク公は歩兵部隊に攻撃を命じた。 すると、槍やポーラックス、ハルバードなどを構えた召集兵――メン・アット・アームズ――が、丘を駆けおり、ヘンリー軍めがけて突撃していった。  しかし、かれらはオックスフォード軍の前衛にたどり着く前に、ヘンリー軍から、至近距離からのすさまじい矢の攻撃をうけた。 リチャードとノーフォーク公は、緒戦から大攻勢をかけて、いっきにヘンリー軍を粉砕つもりだった。

ノーフォーク軍は、猛烈な矢の攻撃にもかかわらず、オックスフォード軍の前衛にたどり着くと、そこで激しい白兵戦を切り結んだ。 オックスフォード軍の前衛には、戦い慣れしたフランス人の傭兵部隊が入っていた。 かれらは、ノーフォーク公のメン・アット・アームズなど、ものともしなかった。 しかし、しだいに戦線がひろがってくると、数で劣るヘンリー軍は不利だった。 そして、前衛が分断されるようなことになれば、総崩れになる恐れがあった。

それを見てとったオックスフォード伯は、軍旗を地面に立て、そのまわりに兵をあつめて楔形の密集隊形をとらせた。 この作戦は成功だった。 槍やポーラックス、ハルバード、ビルでハリネズミのようになったオックスフォード軍には、数にものをいわせたノーフォーク軍の歩兵も歯が立たなかった。 さらに、この意表をついた作戦に、ノーフォーク軍の歩兵は何かの罠かと思い、ひるんでしまった。 そこを、密集隊形のオックスフォード軍が前進すると、ノーフォーク軍はばらばらになって退却しはじめたのである。

陣営配置

 オックスフォード軍はすんでのところで総崩れをまぬがれ、さらにノーフォーク軍を退却させることができた。 しかし、それを追撃することはしなかった。ヘンリー軍は数で劣っていたので、大胆な攻撃にはでられなかったのである。 戦いは、しばし膠着状態となった。 リチャードは、丘の南斜面をおりると、そこにあった湧き水の水を飲み、ひと息入れた。その湧き水は、のちに「リチャード王の泉」と呼ばれるようになった。

一度は退却したノーフォーク軍だったが、態勢を立て直すと、ふたたび攻撃にでてきた。 しかし、楔形密集隊形をとったオックスフォード軍の防衛線を崩すことはできなかった。 逆に、オックスフォード軍が前進すると、楔を打ち込まれた形になり、ノーフォーク軍は二分されてしまった。 そこに、右翼のトールバット軍と左翼のサヴィジ軍の騎士隊が、馬上から攻撃していった。 そのあとの戦闘は、両軍入り乱れての激しい白兵戦となった。  その戦闘中にノーフォーク公が討たれ、ノーフォーク軍に動揺が走った。 戦線を離脱して逃げだす者もでてきた。

一方、オックスフォード軍の戦いも苦しかった。 ノーフォーク軍を粉砕したとしても、まだ丘の上には、勇猛な戦士にして国王のリチャードが、強力な騎士隊とともに待ち構えていたからである。 オックスフォード軍には戦いに慣れた傭兵隊が入っていたが、いつまでも投入されず使われなかった。 そして、戦況は一進一退となり、ヘンリーにとってもリチャードにとっても、行き詰まりの状況となってきた。

リチャードはいらだっていた。 国王軍が圧倒的に優勢なはずだったが、オックスフォード軍の予想外の奮戦に、ノーフォーク軍は手こずっていた。 戦いぶりにも精彩がなかった。 ノーフォーク公の指揮下に入っていたのは、南部や東部の諸州から召集されたメン・アット・アームズが中心で、半ば強制的に駆りだされた兵だった。 かれらの、リチャードにたいする忠誠心は疑わしかった。 混乱のなかで、スキさえあれば武器を放り出し、逃げだす者もいた。

リチャードの死

掲風旗

 ノーサンバランド伯もスタンリー兄弟も、まだ動かなかった。 ノーフォーク軍の指揮は、公が討たれたあとは、その息子のサリー伯トマス・ハワードがとっていた。 しかし、かれも苦戦していた。  リチャードは、ノーサンバランド伯に、「サリー伯に加勢するように」と伝令をおくった。 しかし、ノーサンバランド軍が動きだすようすは、まったく見られなかった。

スタンリー卿も戦況を見つめるだけで、国王軍に加わってくるような動きを見せなかった。 ふたりとも公然と反旗をひるがえしたわけではなかったが、より大胆になってリチャードの命令を無視しはじめていた。 リチャードの側近や盟友たちは、心配になってきた。 風のなかに、謀反の臭いを嗅ぎとったからである。 スペイン人で司令官のひとりだったフアン・デ・サラザールは、リチャードに逃げるようにと進言した。 しかし、王の耳にかれの声は入らなかった。

リチャードは、この2年間以上も自らの王権の正当性を主張してきた。 それでも、反乱や離反が相次いだ。 ここまできたら、もはや武力で決着をつけ、正当性を示すほかなかった。  「国王として生きるか、死ぬか」それだけだった。

レビィ城

リチャード・シール

 ===== 続く =====

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