550年後、目覚めた英国王=40=

❢❢❢ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ❢❢❢

○◎ =“薔薇戦争”の最後を飾る英国王・ヨーク朝の終焉= ◎○

リチャードの葬儀

◇◆ ヘンリー・テューダーの凱歌  ◆◇

 敗残兵を追いはらったあと、ヘンリー・テューダーと司令官たちは、ストーク・ゴールディング近くの小さな丘の上にあつまった。兵士たちは「国王ヘンリー!」と歓喜の声でヘンリーを迎えた。
 リチャードが兜につけていた王冠は、かれの最期となった修羅場近くのイバラの藪の下から、レジナルド・ブレイという兵士によって発見された。 言い伝えでは、戦場で王冠を見つけた別の兵士が、それをあとで回収しようとして隠していたものだった、とされている。

 王冠は、司令官のひとりに手渡され、兵士たちの歓声のなか、ヘンリーの頭上に戴かれた。 ヘンリーが王冠を戴いたこの小さな丘は、のちに「王冠の丘」と呼ばれるようになった。

 国王は神に認められた神聖な存在だったが、伝承を記録したものは、リチャードの遺体に加えられた屈辱的な行為を証言している。 戦場で倒れた者は、甲冑や衣服を剥がれ、それらは、勝者の戦利品となった。つい先ほどまで国王であった者も、それを免れることはできなかった。 リチャードも甲冑と衣服を剥がれた。 泥と血にまみれ、裸同然となったリチャードの遺体は、かろうじて人間の形をしていたという。

 それからかれの遺体は、敬意を払われることもなく、駄馬の背中に放り上げられた。 そして、ヘンリー・テューダーがロンドンへ凱旋する途中に立ち寄ったレスターの町で、かいば桶のなかにうち捨てられてさらしものになった。 フランシスコ修道会の修道士が埋葬を申し出たが、それが許されたのは、2日後のことだった。
 イングランド国王リチャード3世は、死者にたいする最低限の儀式がおこなわれただけで、レスターのグレイ・フライアーズ修道院に埋葬された。

レスター.png

  ヘンリー7世(在位1485-1509)となったヘンリー・テューダーは、後年、リチャードの墓を国王の墓にふさわしいようにアラバスター(さざれ石)で作り直すように命じたという。

 しかし、ヘンリー8世の時代の修道院解散によって、修道院とともにかれの墓も破壊されてしまった。 いまも、リチャード3世の墓は失われたままとなっている。 修道院があった近くにソアー川が流れているが、そこにかかるボウ橋のたもとに、かつて近くにリチャード3世が埋葬されていたことを示す標示板がある。ただそれだけである。 また、かれの墓は埋葬された数年後にあばかれ、遺骨がこの橋から川のなかに捨てられたとも言われている。

 ヘンリー・テューダーが即位したあと、国王軍に加わっていた4代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーは、その後、捕らえられて数カ月間、監禁された。 しかし、積極的には動かなかったということで、その後、赦されたのだった。 結局かれは、消極的態度をとりつづけたことによって生きのびたのである。

 しかしノーサンバランド伯は、4年後にヨークシャーであった新税の取り立てをめぐる暴動に巻き込まれ、殺害されてしまった。 この暴動の背景には、ボズワースの戦いでリチャード3世を裏切ったノーサンバランド伯にたいする、ヨークシャー人の怒りがあったとも言われている。

 一方、ボズワースの戦いの功労者スタンリー卿トマスは、ランカスター家がもつ爵位の一つで、ヘンリー4世もかつて名乗っていたこともある、由緒あるダービー伯爵に叙された。 そして弟のサー・ウィリアム・スタンリーは、ヘンリー7世の侍従長に抜擢されたのである。

悲運の王

リチャード3世の「凄惨な死」、遺骨から明らかに

917 AFP15世紀のイングランド王リチャード3世(Richard III)は、ぬかるんだ地面にうつぶせにされ、かぶとを着用していない頭部への攻撃で、鋭利な武器が脳を貫通したために死亡した──。

17日の英医学専門誌ランセットに掲載された遺骨の検視に関する論文を通じて、これまで論争の的になってきたリチャード3世の凄惨(せいさん)な最期が明らかになった。 劇作家ウィリアム・シェークスピア)の戯曲には、リチャード3世が敵に襲われて落馬した後に殺害される描写がある。

リチャード3世は1485822日、イングランド中部レスターシャー州での「ボズワースの戦い(Battle of Bosworth Field)」で死亡した。32歳だった。 遺骨は、レスターの駐車場の下から2012年に発見され、以降レスター大学の考古学チームが分析を続けていた。 軟部組織が残っていないリチャード3世の場合、分析の対象となったのは遺骨のみで、チームは切り傷や擦り傷、刺し傷など遺骨に残された痕跡を当時の武器が人体に与える損傷と比較して、死亡した当時の状況を推測した。 

ランセットに掲載されたレスター大の論文によると、リチャード3世の頭部には致命傷となったもの以外に、絶命直前のものとみられる損傷が9か所みられる。致命傷となったと考えられる2か所については、その痕跡から鋭利な武器が頭蓋骨を貫通して脳にまで達していたことがうかがえる。その他、胴体部分にも傷が2か所あったが、これは死後によろいを引きはがされた後にできたとされる。 

レスター大考古学チームの病理学者ガイ・ルティ氏によると、リチャード3世が頭部に受けた損傷が示唆するものは、当時の戦いで「敗者はうつぶせにさせられた」との考察と一致するという。また同大のサラ・ヘインズワース氏は、遺骨の傷の状況から、複数の敵に襲撃されたと推測している。

シェークスピアの戯曲では背骨が湾曲し、権力に飢えた残忍な人物として描かれるリチャード3世だが、現代の研究ではリチャード3世を倒して台頭したテューダー朝によって本来の姿が歪曲(わいきょく)されていることが分かっている。(c)AFP/Richard INGHAM

ウェストミンスター

===== 続く =====

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