550年後、目覚めた英国王=41=

❢❢❢ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ❢❢❢

○◎ =“薔薇戦争”の最後を飾る英国王・ヨーク朝の終焉= ◎○ 

丘陵地帯

◇◆ 残された謎/ 捏造された極悪人説_ ◆◇

“歴史は勝者によって書き綴られ、定着して行く”と言う。 リチャード3世は、英国史で、なぜもっとも邪悪で冷酷非情の王とされてしまったのか。 それは、結論からいえば、トマス・モアやテューダー王朝時代の御用学者が、王権を奪取したヘンリー7世を正当化し、美化するためだった。 彼がリチャード3世をことさら貶しめ、極悪人に仕立てあげて記録したからである。 その捏造者・ヘンリー7世は1499年に、クラレンス公ジョージの息子でヨーク家の最後で唯一の正統な王子ウォーリック伯エドワードを反乱に加わったとして処刑し、テューダー王家の体制をゆるぎないものとした。 そして1503年ごろ、ポリドール・ヴァージルというイタリア人の御用学者に、ラテン語での年代記『英国史』を書かせはじめたとされている。

この年代記は、ヘンリー6世の時代からはじまり、ヘンリー7世が1509年に他界したあともつづけられ、ヘンリー8世の時代の1513年で終わっている。 これがこの時代の最初のまとまった年代記で、この時代の正史ということになっている。 しかし、この年代記が公表されたのは、1534年のことである。 一方、トマス・モアが『リチャード3世史』を執筆したのは、1513年から翌年にかけてである。 したがって、ヴァージルの年代記が公表される前のことである。 トマス・モアは『リチャード3世史』のなかで、リチャードが王位を簒奪するまでの彼のまわりで起きた数々のできごとや事件を、ことごとくかれの陰謀、犯罪だったと非難した。 「リチャード3世極悪人説」は、ここからはじまったのである。

トマス・モア

  トマス・モアは、ヘンリー8世の時代に法律家から政治家となり、官僚の最高位である大法官にまで登りつめたが、当代随一の文化人でもあった。 その彼が、なぜこれほどまでに偏見と悪意にみちたリチャード3世史を書いたのか。 また、かれはこれを執筆するとき、その情報をどこから得たのか・・・・・。 トマス・モアは、1477年ないし78年に生まれ、リチャード3世が即位したときは、まだ5、6歳だった。 社会で起きていることが理解できる年齢でもないし、ましてそのころの記憶をもとに、のちにリチャード3世の伝記を書くことは不可能である。 しかし、モアは1490年、12、3歳のころから、ヘンリー7世の大法官でのちにカンタベリー大司教となったジョン・モートンの小姓となり、見習い奉公をしながら教育をうけた。 そして36、7歳のときに『リチャード3世史』を執筆したとされている。 それは、リチャードの死後28年もたったころである。 そのとき彼は、いったい何を参考にしたのか。

じつは、モアが『リチャード3世史』を執筆するにあたって使った資料は、彼の恩師ともいうべきジョン・モートンが用意したものだったという。 ところが、このジョン・モートンなる人物は――イーリー司教の時代に――1483年6月13日の摂政リチャードにたいするヘイスティングズ卿(前節参照)の陰謀に加わったとして退けられた者なのである。 ジョン・モートンは、法律家から聖職者に転向した人物であるが、世渡りがうまいばかりでなく、権力志向と金銭欲が非常に強かったようである。

薔薇戦争では、最初はランカスター家についたが、形勢が逆転するとヨーク家に鞍替えし、エドワード4世にとりたてられてイーリー司教に任命されていた。 そしてエドワード4世の時代には、フランスのルイ11世との交渉にかかわったりして、裏で多額の賄賂を受け取るようなこともしていたという。 彼は金集めがうまかったので、いくらでも金をかき集めることのできる「モートンの熊手」と呼ばれるものを持っていた、と陰口もたたかれていた。

デ・エラスムス

 ところが、生真面目なリチャードがエドワード5世の摂政となったことで、リチャードのもとでは特別な出世も望めず、賄賂や余録にもあずかれないとわかると、ジョン・モートンはヘイスティングズ卿の反リチャードの陰謀に加担したのである。 ジョン・モートンは、陰謀発覚後、処刑は免れたものの、バッキンガム公のもとで、ウェールズ東部のブレコン城に幽閉されていた。 しかし、かれはそこにいたとき、リチャードとバッキンガム公のいさかいを利用して、バッキンガム公にリチャード体制転覆とヘンリー・テューダー擁立の反乱に誘い込んだとみられている。そうしておいてジョン・モートンは、幽閉されていた城から脱出すると、フランスへと逃亡し、そこに亡命していたヘンリー・テューダーのもとに走っていった。

その後、テューダー王朝が誕生したとき、ジョン・モートンはヘンリー7世の右腕となり、大法官となった。 さらに1493年には、イングランドの聖職者の最高位であるカンタベリー大司教になるという大出世を果たしたのである。 そのジョン・モートンにとって、リチャード3世は不倶戴天の敵、恨み骨髄の存在だった。 その彼が記し、モアにあたえたという資料がどういうものであったかは推して知るべし、公平で事実に即したものであったはずがない。 しかし、ジョン・モートンのもとで教育を受けたトマス・モアは、彼から受け取った資料に記されていたことに疑いをもたなかった。 資料に書いてあることを、そのまま伝記のなかに取り入れていった。 その結果、ジョン・モートンのリチャード3世にたいする悪意にみちた非難と中傷は、事実として伝えられるようになったのである。

また、モートンのリチャードにたいする見方は、そのままモアのリチャード3世史観になった。 そこから、「モアはモートンの書いた資料をそのまま使った」とか、「モアの原稿といわれているもの自体が、じつはモートンの手になるものではないか」と疑う見方まで出てくるのである。 それにしても、すでにエラスムスとも親交があったという当代随一の文人トマス・モアが、悪意と偏見にみちたモートンの資料を、なぜ無批判に受け入れたのだろうか。恩師には勝てなかった、というのだろうか。なにしろ恩師は、その時代の生き証人であり、ヘンリー7世の新時代をもたらした功労者のひとりだったのだから。

ヨーク朝系譜

  しかし、それだけではなかったかもしれない。 モアがヘンリー7世の新時代に生きた人間であって、その時代の感覚、時代精神から逃れられなかっただろう。 ヘンリー7世の時代は、現実はどうあれ、秩序と倫理、人文主義の新時代、ルネッサンスのはじまりだった。 中世の血みどろの権力闘争を終わらせたのはヘンリー7世であり、かれは同時代の人間にとっては英雄であり、正当な王になるのである。

新時代の文人トマス・モアにとっては、旧時代は無秩序と混乱、不道徳の時代だった。 その時代の王は評価に値しない。 モアは、ジョン・モートンの用意した悪意にみちたリチャード3世についての資料を疑うことなく――というよりも積極的に肯定して――受け入れたのだろう。 そしてリチャード3世を、旧時代の不道徳なうえに冷酷で残忍な王位簒奪者、評価に値しない王として、斬って捨てたのである。 モアも時代の子であって、かれの批判精神をもってしても、その時代の精神から逃れることはできなかったのだろう。

ヴァージルやモアのあとには、エドワード・ホールやラファエル・ホリンシェッドといった、テューダー時代の御用歴史家がつづき、ヘンリー7世を賛美し、正当化していった。 かれらも、新時代をもたらしたヘンリー7世を、ランカスター王家の正統な継承者として美化するあまり、リチャード3世をことさら貶め、歪めたのである。 しかし、かれらの歴史書はテューダー王朝の正史となり、さらにかれらの歴史観は、シェイクスピアの一連の歴史劇にひきつがれて定着することになった。

ブレコン城

 ===== 続く =====

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