550年後、目覚めた英国王=42=

❢❢❢ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ❢❢❢

○◎ =“薔薇戦争”の最後を飾る英国王・ヨーク朝の終焉= ◎○

ウォリック城

◇◆ 残された謎/ 捏造された極悪人説_ ◆◇

シェイクスピアは、エドワード・ホールが1540年ごろに書いた『二つの名門ランカスター家とヨーク家の合体』をもとに、一連の歴史劇を書いたといわれている。 その名著の『リチャード3世』は1592年から1593年にかけて書かれたとされているが、そこには、トマス・モアの悪意にみちたリチャード3世観が、そのまま反映されているという。 そしてシェイクスピアは、トマス・モアのリチャード3世に輪をかけて、さらに醜い怪物のような大悪人に仕立てあげた。 彼の『リチャード3世』は、因果応報を含んだ、文字通り劇的な傑作であったため、いつのまにか史実であったかのように混同され、リチャード3世の悪のイメージを定着させてしまったのである。

シェイクスピアは、リチャード3世の姿を醜い怪物のように描いているが、実際のかれはどうだったのだろうか。
リチャードは、子供のときは病弱だった。 背がたかくてハンサムだった兄たちにくらべると、小柄で痩せていたという。 左右の肩の高さが多少ちがっていたということは、当時の記録にも残されている。 しかし、それがどちらの肩が高くてどちらの肩が低かったかは、記録によっても食い違っていて、それほど大げさなものではなかっただろうとも言われている。

他方、リチャードの姿を描いた絵も、いくつか残っている。 一つは、15世紀にウォーリック伯爵家の家系図に描かれたペン画である。 プランタジネット王家の紋章の下、甲冑を身につけて王冠をかぶったリチャード3世が、右手に剣を、左手にウォーリック城の模型をもち、足もとには、かれの徽章だったイノシシを従えて立っている図である。 そこには、写実的な描き方で、リチャードはほっそりとした体つきの、ういういしい美少年に描かれている。そしてリチャードの姿に、身体的に異様なところはまったく見られない。 もう一つは、15世紀のソールズベリー伯爵家の家系図にあるもので、戴冠式のローブを身につけたリチャード3世と王妃アンの立ち姿を描いたものである。 こちらのほうは、絵としては稚拙であるが、リチャードはアンよりも背がたかく描かれていて、ここにも、体つきに不自然なところは何もない。

創作イメージ

 ところで、リチャード3世の生前に描かれた肖像画は、1枚もないという。 後年に描かれたものとしては、2枚が存在する。 パストン家に伝わっていた、1513年もしくは1516年ごろに描かれたという肖像画は、リチャード3世の姿をもっとも正確に伝えているとされている。 背景が黒の、左向きの上半身だけの肖像画で、そこには、細面の顔に口を真一文字にむすび、目をかっと見開いている表情が描かれている。左手の薬指に指輪をはめようとしているが、意思の強そうな顔つきで、精悍な感じがする。

もう一つは、ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーにある、背景が赤の、もっともよく知られている肖像画である。 1590年ごろに描かれたものであるが、顔を右向きになっていることをのぞけば、顔の輪郭などは、パストン家に伝わった肖像画によく似ている。 それを見て描いたのかもしれない。 しかし、顔の表情はまったくちがう。 こちらのほうが弱々しく、病的な印象をうける。 眉間にはしわを寄せ、神経質そうである。こちらの絵では、右手の小指に指輪をはめようとしているが、目はうつろで焦点が定まらず、意思の強さや精悍さは、まったく感じられない。 この肖像画は、リチャードの死後、百年以上たったころに、国王の肖像画シリーズの1枚として描かれたものである。 当時――エリザベス1世時代――の歴史的な評価が、かれの姿を弱々しく病的に描かせているのだろうが、ここにも、身体的な異様さを感じさせるものは何もない。

肖像画

 このように、リチャードの姿を描いたいくつかの絵には、「醜い怪物のような姿」とトマス・モアやシェイクスピアが誇張したようなものは、何も見られないのである。 いくら宮廷画家だったとしても、身体的に異様な特徴があったとしたら、それをまったく感じさせないように描くのは困難だっただろう。 別人のように描いてしまっては、肖像画にはならないからである。 肖像画家のもっとも苦労するところは、描かれる本人が気にしているところをそのまま描くわけにはいかないが、それをまったく無視して描くこともできないということである。 もし身体的に普通ではない特徴があったとしても、あえて肖像画のなかに描くほどのものでもなかった、ということは考えられるが。

リチャード3世がそれほど残虐非道な王ではなかったという見方は、テューダー王朝が終わってステュアート王朝になってから、少しずつ出てきたという。 それが現代になって、研究者だけでなく一般の人たちの関心をいっきに集めるようになったのは、1951年に作家のジェセフィン・テイが、謎解き小説『時の娘』を発表してからである。 テイは、入手しうるかぎりの資料をあつめると、そこから事実ととれる事柄を拾いあつめ、作家としての解釈を加えながら話をつなぎ、推理を展開していった。 そして、王子殺しの犯人は、リチャード3世ではなくてヘンリー・テューダーである、と結論づけた。

シェークスピア

 「リチャード=極悪人」のイメージを定着させたのがシェイクスピアであれば、それをくつがえしたのも同業の作家だったとは、皮肉でもあり面白いところである。 しかし、テイの推理はあくまでも作家としてのもので、研究者のものとはちがう。記録に残っていることをつなぎ合わせて解釈を加え、さらに推理しても、それが事実だったとは言えない。 謎は謎のままである。 しかし、議論を巻き起こし、リチャード3世の研究に大きな一石を投じたことには間違いない。

いまでは、エリザベス女王の従弟のグロスター公リチャードをパトロンとする “リチャード3世協会” があり、リチャード3世の熱烈な支持者がいる。  そして、彼はこれまで言われてきたほどの極悪非道の国王ではなかった、と知られるようになってきている。 それでも一般的には、まだ誤解されたままである。 教科書や歴史解説書では、リチャード3世はあいかわらず極悪非道の王のままである。 1985年はリチャード3世没後500年にあたり、これを機に、かれの実像をさぐり、再評価する機運が高まった。 そして、それまで一部の研究者にしか理解されなかったかれの実像が、ようやく一般にも受け入れられるようになってきたようである。

ウォーベック

 ===== 続く =====

前節へ移行 ; https://thubokou.wordpress.com/2016/05/11/

後節へ移動 ; https://thubokou.wordpress.com/2016/05/14/

※ 下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます ⇒ ウィキペディア=に移行
*当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】 http://bogoda.jugem.jp/

【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】 http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中