550年後、目覚めた英国王=43=

❢❢❢ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ❢❢❢

○◎ =“薔薇戦争”の最後を飾る英国王・ヨーク朝の終焉= ◎○

王子二人

◇◆ 残された謎/ 消えたふたりの王子  ◆◇

===千葉 茂著『ヨークシャーの丘からイングランドを眺めれば』より===

 “ズワースの戦い”前からロンドン塔に幽閉されたいたふたりの王子は、いったいどこへ行ってしまったのだろうか。 エドワード4世の子供たちは私生児であるとされ、エドワード5世は戴冠式を迎えることなく廃位され、弟ヨーク公リチャードとともにロンドン塔に幽閉された。 ふたりは、1483年の夏ごろまでは、中庭で遊んでいるところを目撃されていたが、その後は、すっかり姿が見えなくなってしまった。 巷では、叔父のリチャード3世に殺されたらしいとささやかれていた。 しかし、証拠はまったくなかった。 いつのまにか消えてしまった、としか言いようがなかった。

ふたりは、やはり叔父のリチャードに殺されたのか。 それとも、犯人はべつにいるのか。 もしそうだとすると、いったい誰が、何のためにふたりを殺したのか。 リチャード3世にまつわる、最大の謎である。

テューダー時代になると、リチャード3世は王位を簒奪し、さらに甥ふたりを殺害した冷酷非道の極悪人とされた。 その遠因は前節で述べたが、さらに、ヘンリー6世の時代からあった王権をめぐる事件のすべてが、リチャードが権力を手に入れるために起こした邪悪な犯行だったと決めつけられた。 シェイクスピアの劇は、さらに歴史を混乱させ、誤解を植えつけてきた。 テューダー王朝の歴史家は、ヘンリー7世の王権を正当なものと強調するために、すべての罪をリチャードに着せて非難しているので、かれらの記したことを、そのまま信じるわけにはいかない と言う。

獄中の王子

 ふたりの王子については、トマス・モアの『リチャード3世』によると、リチャードの旧友で野心的な人物だったサー・ジェイムズ・ティレルが、「リチャードの命令で王子たちの殺害にかかわった」と告白したことになっている。 戴冠式を終えたリチャードが国内巡幸のためにロンドンを離れていたとき、かれの命を受けたティレルが、ジョン・ダイトンとマイルズ・フォレストというふたりの男に王子たちの殺害を指示し、ふたりは王子たちの顔に枕か布団を押しつけて窒息死させた――というのである。 そして王子たちの遺体は、一度はロンドン塔の階段の上り口の下に掘った穴に埋められた。 ところが、あとになってリチャードに、「もっと王にふさわしいところに」と指示された司祭が、どこか別のところに埋葬し直したという。 だがその場所は、まったくわかっていない。

また、リチャードに恨み骨髄だったジョン・モートンの資料にもとづくトマス・モアの記述は、論及したようにどこまで信用していいかわからない。  トマス・モアは、リチャードがふたりの甥を殺したと非難する。 しかし、その証拠は「ティレルの告白」以外には何もないのである。 それではリチャード犯人説にたいして、テイやリチャード擁護派の反論はどうなっているのだろうか。

まず、リチャード犯人説の第1の論点は、「エドワード5世らに王位継承権はないといっても、反リチャード勢力がかれらを利用して反乱をくわだてる恐れがあったので、リチャードは甥ふたりを殺したのだ」ということである。 それにたいしてリチャード擁護派は、「リチャードの王位継承は正統で正当なものであって、甥たちを殺す必要はなかった」という。

王と王妃

 エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルの結婚が重婚だったことは、高位聖職者のあいだでは以前から知られていたことで、事実だった可能性がたかい。 その子供たちは私生児つまり庶子であって、かれらに王位継承権はないということは、議会においても正式に認められたことだった。 ふたりが存在していても、リチャードの王権が脅かされるようなことはなかった。 したがって、リチャードがかれらを殺さなければならない必要性もまったくなかった。 反リチャード勢力に利用されないように、ただ幽閉しておけばよかったのである。

リチャードは、エドワード5世の王権を利用しようとしたウッドヴィル一族やグレイ一族を一掃した。 そして、北部の軍隊を見せつけて事態の安定化をはかった。 しかし、それに反発する諸侯もいた。 もし、そこで王子たちを殺しでもしたら、かれらの不満や怒りに火をつけることになり、リチャードは、それこそ非難の集中砲火を浴びただろう。 彼にそんな危険を冒す必要があっただろうか。 王子たちは殺さずとも、ただ外部の勢力に利用されないようにしておけばよかったのである。

さらに、ロンドン塔には多くの役人が勤めていたはずである。 はたして、誰にも気づかれずに王子たちを暗殺するといった重大事を起こすことができただろうか。 仮に、リチャードが王子たちを利用した反乱を防ぐためにふたりを殺害したとするならば、かれはその遺体を公開したはずだ、とリチャード擁護派は反論する。 そうしなければ、王子たちの生存を信じる勢力が、何度でも反乱をくわだてるからである。

そしてリチャード擁護派は、「ふたりの甥は、リチャード3世の時代には生きていた」と擁護論を展開する。 その根拠となっていることは、リチャードの宮廷で、王子たちの母親エリザベスとリチャードが対立したり、いさかいをしたりした雰囲気が記録されていない、ということである。 もっとも、エリザベスは、1483年4月末のリヴァーズ伯らの陰謀後にウェストミンスター寺院の聖域に4人の娘たちとともに入り、その後、彼女らがそこから出てきたのは、翌年の3月初めである。 そのあいだのことは、よくわからない。

ウッドヴィル

 しかし、聖域から出てきたあとエリザベスは、1483年秋のバッキンガム公の反乱に加担した、先夫とのあいだの息子ドーセット候に手紙を書き、リチャードと和解するように勧めている。 そして4人の娘たちとともに、リチャードの庇護を受けて暮らしていた。 娘たちは宮廷の宴にも参加したりして、宮廷生活を楽しんでいた。 そのことは、記録にも残っているという。

ふたりの王子がリチャードに殺害されたとしたら、その母親や姉妹たちが、その殺人者の宮廷で庇護をうけ、和気あいあいと楽しげに生活していたとは考えられない、とリチャード擁護派は主張する。 そしてリチャード擁護派は、ボズワースの戦いで勝利したヘンリー・テューダーがロンドンに凱旋したときのことに、リチャード犯人説に説明を求めている。

ヘンリーはロンドン塔に入ったとき、あれほど噂になっていたはずの王子たちの消息については、何もたずねていない。 その後ヘンリーは、議会において、これまでのリチャードの圧政や冷酷非道なやり方を告発し、攻撃しておきながら、そこでも王子たちのことについては触れていない。 もしリチャードが王子殺しの犯人であるとするならが、それこそ、これ以上の攻撃材料はなかったはずである。 ヘンリーはなぜ、これを利用してリチャードを非難しなかったのか、不自然である。

リチャード擁護派は、ヘンリーが王子たちのことに触れていないのは、その必要もなければ意味もなかったからだとする。 なぜなら、王子たちは何の問題もなく生存していたのだから、言及する必要がなかったのであると。

チューダー朝

 ===== 続く =====

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