550年後、目覚めた英国王=44=

❢❢❢ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ❢❢❢

ノッテンガム城

◇◆ 残された謎/ 消えたふたりの王子  ◆◇

リチャード擁護派は、リチャード3世がヘンリーの王子たちのことに触れていないのは、その必要もなければ意味もなかったからだとする。 なぜなら、王子たちは何の問題もなく生存していたのだから、言及する必要がなかったのであると。 さらに王子生存説の根拠には、1485年の王室の出納書類にある「庶子卿への支払い」という記録に置かれているものがある。 この「庶子卿」こそ、廃位されたエドワード5世ではないか、というのである。 しかし、これは推論するだけで、根拠はない。 そして、この「庶子卿」という言い方は、ほかではまったく出てこないという。

この「庶子卿」については、リチャードの庶子として生まれたジョン・オヴ・グロスターと呼ばれていた息子のことである、とみることもできる。 ジョンは庶子だったが、リチャードに残された唯一の息子で、1485年3月11日に、フランスにあったイングランド領カレーの長官に任命されていた。 ジョンは後日、カレーに赴任したが、「庶子卿への支払い」は、そのときの費用のことだとみることもできる、とされている。

しかし、日頃からジョンが「庶子卿」と呼ばれていたかどうかはわからない。 ジョンは爵位をもっていなかったというが、庶子とはいえ国王の息子でありカレーの長官でもあった。 儀礼的に「ロード(卿)」の敬称で呼ばれたとしても不思議はない。 したがって、「庶子卿」とはジョン・オヴ・グロスターのことだった可能性もあり、エドワード5世のことであるとし、彼が1485年まで生きていたとする根拠にするには弱いのである。

カレー港

 王子生存説にたいしては、では、なぜかれらの1483年以降の記録が残っていないのか、と疑問がだされる。
これにたいしてリチャード擁護派のなかには、ふたりはロンドン塔からべつの場所――たとえばリチャードの城の一つだった、ヨークシャーのシェリフ・ハットン城――に移された、とする見方もある。 そのために、彼らについての記録がないのであると。

王族や貴族の子供が親元から離されて育てられることは、当時はよくあることだった。 リチャードも、子供のころは年の離れた従兄でキングメーカーだったウォーリック伯リチャード・ネヴィルのもと育てられたことがあるので、そういうこともありうる。 まして庶子となったふたりの王子にしてみれば、地方の田舎に送られて、そこでひっそりと暮らすほかなかったのかもしれない。

ここまでは、リチャードには甥たちを殺す必要がなく、かれは、少なくともリチャード3世の時代は生きていたという議論である。

次は、リチャード犯人説が第2の論点とする「王子たちがリチャードに殺されたらしいという噂がたったとき、リチャードはかれらの姿をロンドン市民に見せ、なぜそれを否定しなかったのか」という点である。 リチャードがかれらを殺していないのなら、その疑惑を晴らすためには、それがもっとも簡単な方法だったはずである。

ハットン城

 これにたいしてリチャード擁護派は、「この噂はリチャード犯人説がいうほど広く流布していたものではなく、ごく一部に故意に流されていたものである」と反論する。 そしてその発信源は、例のジョン・モートン(前節参照)であるとしている。 かれは恨み骨髄だったリチャードを攻撃するために、「ロンドン塔の王子たちはリチャードに殺されたらしい」と嘘の噂を故意に流したというのである。

その根拠としているところは、その噂を記録した『クロイランド年代記』は、リンカンシャー最南部にあるクロウランド修道院で記録されたもので、そこはジョン・モートンが本拠地としていたフェンズ地方にあったことである。 彼が司教をしていたイーリーは、その地方の中心的な町であり、かれはバッキンガム公の城から脱出したあと、フランスに逃亡するまでのあいだ、そのフェンズ地方に隠れていたとされている。 したがって、そこで記録された噂というものは、ジョン・モートンが故意に流したものである可能性がある、というのである。

王子殺害の噂は、その後、フランスでもささやかれたというが、それも、モートンが逃亡先で故意に流したものだ、という。 つまり、「リチャードが王子たちを殺害した」という噂がたったところには、ジョン・モートンの影がちらついているのである。 彼は、行く先々でリチャードの甥殺しの嘘の噂を故意にばらまいていった。

したがって、噂はジョン・モートンが立ち寄ったごく一部の地域にかぎられたもので、大々的に広まっていたものではない、とリチャード擁護派は言う。 もし、噂が大々的に広まっていたものであれば、リチャードの耳にも届いていただろう。そしてそうだったならば、彼はかならず反論していたはずである、と言う。

ヘンリー・デューター

 その論拠となっているものは、リチャードの王妃アンが病死し、「かれは姪のエリザベスと結婚したがっている」という噂がたったときことである。 リチャードは、その噂をすぐに公式に否定したのである。「リチャードの甥殺し」の噂が大々的に広まっていたとしたら、かれが何の反論も釈明もしなかったのはおかしい、というのである。 そして、リチャード擁護派が最後の論拠とするところは、かれの親族にたいする処遇である。

リチャードの王位にとって脅威となる存在があったとしたら、それは、リチャードの兄クラレンス公ジョージの息子ウォーリック伯エドワードである。 彼の父クラレンス公は、兄のエドワード4世への嫉妬から、たびたび反乱を起こし、ついに処刑されてしまった。 父が国王にたいする反逆罪で処刑されたのだから、その子も当然のこと、相続権などの権利を奪われ、行動が制限されたとしても不思議ではなかった。 ところがリチャードは、エドワード4世の死後、この甥を王族の血をひく者として復権させ、それにふさわしく処遇して自由にさせていた。さらに1484年4月にリチャードの息子で皇太子のエドワードが急死すると、リチャードはウォーリック伯を王位継承者に指名したのである。

クラレンス公ジョーシ

 ウォーリック伯は、謀反人の息子として王位から遠ざけられた。エドワード4世の息子たちは、私生児ということで王位から退けられた。 しかし、甥たちがいつかリチャードの王位を脅かす存在になるとしたら、彼らは皆同じである。 しかも嫡出子という点でいえば、ウォーリック伯には正統な王位継承権があった。 そのかれを生かしておいて、先にエドワード4世の息子たちだけを殺すのはおかしいのである。

リチャードが王位についたとき、自分の息子に王位を継がせようと考え、潜在的な脅威となる者を葬り去ろうとしたならば、最初に狙われるのは、ウォーリック伯エドワードである。 それともリチャードは、息子が急死しなかったならば、いずれウォーリック伯も殺すつもりでいたのか。 しかし、いずれ殺そうとしていた者を、状況が変わったからといって、急に後継者に指名できるものだろうか。

そうではない。 リチャードが王位継承者にウォーリック伯を指名したのは、かれが極悪人でもなんでもなく、正統性を重んじ、筋をとおそうとした王だったからなのである。 リチャードのこうした面は、ほかの親族にたいする処遇にも表われているという。

リチャードは、性格的には兄エドワード4世とはちがって、清廉で実直だった。 戦場においては勇敢な戦士、そして国王の副官として統治をまかされた北部においては、すぐれた手腕を発揮した行政官だった。 そういうリチャードの性格と行状は、極悪非道の殺人者の姿とはかさならないのである。

リチャード・シール

===== 続く =====

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