550年後、目覚めた英国王=48=

❢❢❢ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ❢❢❢

○◎ =“薔薇戦争”の最後を飾る英国王・ヨーク朝の終焉= ◎○

王子二人

◇◆ ロンドン塔で発見された子供の骨 ◆◇ 

  ところで、トマス・モアの記述(『リチャード3世史』)によると、殺害された王子たちの遺体は、「最初はロンドン塔の階段の上り口の下に掘った穴に埋められたが、リチャードの指示で、ある司祭によって掘りだされ、べつのところに埋葬し直された」ことになっている。

 ところが191年経った1674年、チャールズ2世の時代に、ロンドン塔の改修工事中に、ホワイトタワーの階段の土台に下から子供のものとおぼしき骨が発見された。 その骨は、塔で消えた王子たちのものに違いないということになり、ウェストミンスター寺院の王室礼拝堂に埋葬されたという。
 さらに時がたった1933年、ウェストミンスター寺院の礼拝堂にあった壺を開けてみると、中から子供の骨が出てきたという。 ふたりの専門家によって骨の調査がおこなわれたところ、それはふたり分の子供の骨で、年齢はおよそ、10歳と12歳と推定された。そのことからその遺骨は、ほぼ王子たちのものに間違いないだろうということになった。

 だがしかし、これでは、「埋葬し直した」というモアの記述と矛盾してしまうことになる。 また、モアの記述では、埋めたところは「階段の上り口の下」となっているが、発見されたのは「階段の土台の下」で、ここにも食い違いがある。

「土台の下」に埋めたとしたら、「上り口の下」に埋めるよりもはるかに大仕事になる。 暗殺後の処理にそれが可能だったのか疑問である。 それとも、これは単なる表現の違いか記述の誤りで、同じ場所のことなのか。 もしそうだとなると、司祭はリチャードに「埋葬し直すように」と指示されたが、それをしなかったことになる。
 その後、壺に入っていた骨の再鑑定がおこなわれたところ、今度は年齢は9歳を超えていないだろうという結論がでた。 それが正しいとなると、階段の土台の下で発見された子供の骨は、ふたりの王子のものではない、ということになる。

エリザベス・ヨーク

  ところでモアの記述で、一つだけ真実を語っていると思われるところがある。 それは、「リチャードが王にふさわしい場所に埋葬し直すように指示した」というところである。 リチャードが極悪非道の王子殺しの犯人だとしたら、そのようなことは言わなかっただろう。 もし計画的に王子殺しを指示したとするならば、事後処理のことも前もって指図していただろう。そうでなかったとしても、一度、埋めてしまったものをわざわざ掘り返させるような危険は冒さなかっただろう。 そのままにしておけばよかったのである。 それよりも、埋葬場所を気にかけるくらいなら、最初から甥殺しなどは考えなかったと思えるのだが。

 やはり、王子たちを殺したのはバッキンガム公なのだろう。 彼が王子殺害をティレルに命じ、ティレルはふたりのならず者を使って、それを実行したのである。そのあと、ふたりの遺体を、まず掘り返される恐れのない階段の上り口の下に穴を掘って埋めた。 リチャードは、バッキンガム公を呼びつけたとき、彼からその場所を聞きだし、司祭に埋葬し直すように指示したのだろう。

 それにしても、ふたりの王子がどうなったのかは、いまもって謎のままである。

 さて、話を薔薇戦争に戻そう。 英国の王冠を誰が手中にしたかの話である。 1485822日に、ヨーク派の国王リチャード3世と、対抗して王位を争ったランカスター派のリッチモンド伯(後のイングランド王ヘンリー7世)の間で行われた“ボズワースの戦いBattle of Bosworth)”で、リチャード3世の戦死による敗北と、ヘンリーによるヂューダー朝樹立という結果で幕を閉じたのだが、 ランカスター派の中で王位争奪の内部闘争が始まる。 また、決着を見たはずの“ボズワースの戦い”の数年の後に、ヨーク派を自称して王位奪還を目論む勢力との戦闘が始まる。

 歴史的にはこの戦闘をもって「薔薇戦争の終結」とし、 ヘンリー・テューダー(リッチモンド伯/ヘンリー7世)は、これ以前の反逆罪によってリッチモンド伯の称号を剥奪される。 この結果、ランカスター派の内部抗争が始った。 

マーガレット・ヨーク

 ◇◆ ストーク・フィールドの戦い ◆◇ 

 ヘンリー7世はランカスター派の後継として王位を得て、リチャード3世の兄であるエドワード4世の娘エリザベス王女との結婚で旧ヨーク派の取り込みも進んでいた。 しかし、まだその支配は完全ではなかった。 生き残った中で最も有力なヨーク派の後継者は、エリザベスの従弟に当たるウォリック伯エドワード(クラレンス公ジョージの息子)だったが、この少年はロンドン塔に収監されていた。

 1485年にリチャード3世を倒してテューダー朝のヘンリー7世が即位した時点ではまだヘンリー7世の王権は確固たるものではなく、ヨーク派の後継者として王位継承権を持つウォリックは厳しくマークされていたのである。 特に、1487年にランバート・シムネルがウォリックの名を騙って反逆を企てると、より厳しく監禁されることとなった。 このウォリック伯エドワードの名前を騙るランバート・シムネルという少年が、リンカーン伯ジョンの目に留まった。 リンカーン伯としてはテューダー家のヘンリー7世と和解は可能だったが、彼は王位継承権を持っていた。 そこで、リンカーン伯はシムネルを利用することで、ヨーク派の復讐と王位継承という補償の機会を得たのである。

 リンカーン伯は1487319日にイングランドの宮廷を出て、叔母のブルゴーニュ公妃マーガレットのいるメヘレンの宮廷に行った。 マーガレットは資金の他に老練なドイツの指揮官、連隊長マルティン・シュヴァルツの下に1,500人の一流のドイツ人・スイス人傭兵を揃える形で軍事援助も行った。 メヘレンのリンカーン伯に、テューダー朝に反感を持つ、リチャード3世の忠実な支援者だったラベル子爵、ジャージー島の前知事リチャード・ハールストン卿、英仏海峡のフランス側の要塞都市・カレー駐屯軍の司令官トマス・デイヴィッド、といった貴族たちがヨーク家再興を旗印に合流した。

シムネル

===== 続く =====

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