550年後、目覚めた英国王=49=

❢❢❢ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ❢❢❢

○◎ =“薔薇戦争”の最後を飾る英国王・ヨーク朝の終焉= ◎○

敗戦の王妃

 ◇◆ ヨーク派の反乱 ◆◇ 

  1486118日、ヘンリー7世は自らの地位を固めるために、エドワード4世の王女であり、当時最有力なヨーク家系の王位継承権を有していたエリザベス・オブ・ヨーク(前節イラスト参照)と結婚した。 これにより、ヘンリー7世は2つの王家を統合することになり、ライバルだった白と赤の両家の図案を組み合わせた新たなテューダー・ローズを用いるようになった。 ヘンリー7世は王位を固めるために、様々な口実をもうけて潜在的な王位継承権者を粛清し、この政策は次代のヘンリー8にも引き継がれて行く。

  多くの歴史家たちはヘンリー7世の即位をもって薔薇戦争の終了としているが、一部の者たちは、ヘンリー7世を打倒してヨーク王家を再興しようとする陰謀がなおも存在していたことから、この内戦は15世紀末まで続いたとしている。 ボズワースの戦いの翌1486年、リチャード3世の侍従だったラヴェル卿がヨークシャーで挙兵する事件が起こったが、烏合の衆であり戦う前に四散した。

  しかし、1487年にヨーク派のラヴェル卿はスイス人およびドイツ人傭兵を率いてアイルランドに上陸する。 ヨーク派の艦隊が1487524日にダブリンに到着したのである。 この反乱にはエドワード4世の妹でブルゴーニュ公の未亡人のマーガレット(前節イラスト参照)が関与しており、リンカーン伯ジョン・ドゥ・ラ・ポール(リチャード3世の甥で王位継承者に指名されていたが、ヘンリー7世に帰順していた)も加わっていた。 アイルランドの大法官であるトマス・フィッツジェラルド卿の助けを借りて、リンカーンは4,500人のアイルランドの傭兵を、主にカーン=軽武装だが高機動な中世アイルランドの歩兵=として雇った。

ヘンリー8世

  更に、アイルランドのキルデア伯と牧師の支援で、リンカーン伯は同日にランバート・シムネル(前節イラスト参照)という少年を、ヨーク系王族の生き残りで最も有力な王位継承権を持つウォリック伯エドワード(クラレンス公の遺児)の替え玉とし、ダブリンにおいて「エドワード6世」として戴冠させた。 そして、議会が新しい「国王」のために召集されたが、リンカーン伯はダブリンに留まらず、軍隊とシムネルを連れて北ランカシャーに向けて出航した。

  しかし、本物のウォリック伯エドワードの身柄は既にヘンリー7世に確保されており、その証明としてウォリック伯エドワードはロンドン市街を行進させられた。 リンカーン伯が率いる反乱軍はランカシャーに上陸してイングランド本土に侵攻するが、717日のストーク・フィールドの戦いでヘンリー7世率いる国王軍に撃破され、リンカーン伯は戦死し、ラヴェル卿は逃亡した。 捕らえられたシムネル少年は赦免され、宮廷の厨房の使用人とされる。

ストック・フィールド

  話を先走りしたが、やや戻した148764日 ランカシャーに上陸したリンカーンの反乱軍にトーマス・バウトン卿の指揮するジェントリ=ジェントリは中世における最下層の領主身分の総称=が合流してきた。 5日で300km以上を踏破する一連の強行軍で、ヨーク派陸軍は8,000人の兵に達していた。 そして610日の夜、タッドキャスターの外れにあるブラムハム・ムーアで、ラベル卿指揮下の2,000の兵がクリフォード卿率いるランカスター派の400の兵に夜間攻撃を仕掛けた。 結果は圧倒的なヨーク派の勝利であった。

  続いてリンカーンはノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー指揮下のヘンリー国王の北方軍の裏をかき、612日にジョン・スクロープ卿の軍に牽制のためにブーサム・バー及びヨークを攻撃させた。 スクロープ卿は、ノーサンバランドの軍を襲って、北方に退いた。 リンカーンと主力軍は南方攻略を継続した。 ドンカスターの外れで、リンカーンはスケール卿配下のランカスター軍の騎兵隊に遭遇。 シャーウッドの森を通って3日間の追撃が続き、リンカーンはスケール卿をノッテンガムに追い込んだ。 しかし、それまでの戦いでヨーク派の進軍速度は低下しており、614日にノッティンガムに着くやいなや、ヘンリー7世はストレンジ卿の指揮する増援部隊をスケール卿に合流させることができた。

ヘンリーの紋章

  話を先走りしたが、やや戻した148764日 ランカシャーに上陸したリンカーンの反乱軍にトーマス・バウトン卿の指揮するジェントリ=ジェントリは中世における最下層の領主身分の総称=が合流してきた。 5日で300km以上を踏破する一連の強行軍で、ヨーク派陸軍は8,000人の兵に達していた。 そして610日の夜、タッドキャスターの外れにあるブラムハム・ムーアで、ラベル卿指揮下の2,000の兵がクリフォード卿率いるランカスター派の400の兵に夜間攻撃を仕掛けた。 結果は圧倒的なヨーク派の勝利であった。

  続いてリンカーンはノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー指揮下のヘンリー国王の北方軍の裏をかき、612日にジョン・スクロープ卿の軍に牽制のためにブーサム・バー及びヨークを攻撃させた。 スクロープ卿は、ノーサンバランドの軍を襲って、北方に退いた。 リンカーンと主力軍は南方攻略を継続した。 ドンカスターの外れで、リンカーンはスケール卿配下のランカスター軍の騎兵隊に遭遇。 シャーウッドの森を通って3日間の追撃が続き、リンカーンはスケール卿をノッテンガムに追い込んだ。 しかし、それまでの戦いでヨーク派の進軍速度は低下しており、614日にノッティンガムに着くやいなや、ヘンリー7世はストレンジ卿の指揮する増援部隊をスケール卿に合流させることができた。

ヂューター・ローズ

===== 続く =====

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