550年後、目覚めた英国王=51=

❢❢❢ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ❢❢❢

○◎ =“薔薇戦争”の最後を飾る英国王・ヨーク朝の終焉= ◎○

丘陵地帯

 ◇◆ その後のヨーク家の運命 ◆◇ 

 テューダー王朝にとって、ヨーク王家の人間がいるかぎり、枕を高くして寝ることはできなかった。 そこでヘンリー7世とその息子ヘンリー8世は、その後、ヨーク家の人間をどう処遇していったか。 このことが、ヘンリー7世の”牢獄の二人の王子殺害“犯人説や陰謀加担説の傍証となる。 ヘンリー・テューダー(ヘンリー7世)は、狡猾で野心的な母親マーガレット・ボーフォートを持ち、その性格をつよく受け継いでいた。 そして、抜け目がなく計算高いところは、祖父オウエン・テューダー譲りだった。

 エドワード5世とその弟ヨーク公リチャードが1483年に殺されていたとすると、テューダー王朝まで生きのびたヨーク家の有力な王位継承者となる子孫は、ふたりだけだった。 クラレンス公ジョージの息子ウォーリック伯エドワード=エドワード・プランタジネット (ウォリック伯)=そのウォーリック伯は、ヨーク家、唯一の男子だったが、ロンドン塔に幽閉されていた。 そしてウォーベック事件が起きたとき、それにかかわっていたとされ、1499年にヘンリー7世によって処刑されてしまった。 これで、ヨーク家の男子による再興の道は完全に断たれたのである。

 ウォーリック伯の姉マーガレットは、1541年に彼女の息子がヘンリー8世の離婚し反対して大陸へ逃亡したとき、言いがかりをつけられて処刑されてしまった。 彼女の処刑は悲惨だったという。 彼女は処刑台の上を泣き叫びながら逃げまわり、処刑人の斧を3度もかわしていた。 しかし最後は、投げ飛ばされて動けなくなったところを斬首されたという。 このとき彼女は、68歳だった。 そこまでして処刑する必要があったのだろうか。 それともこれが、権力を維持するために必要な非情さなのか。 

ポーフォート

 そのほかのヨーク家の人間は、どうなったのだろうか。 リチャード3世には、テューダー時代まで生きていた姉がふたりいた。 ひとりは2番目の姉エリザベスで、彼女はサフォーク公ジョン・ドゥ・ラ・ポールと結婚し、3人の息子をもうけていた。 父と同名の長男リンカン伯ジョン・ドゥ・ラ・ポールは、1487年のシムネルの反乱に加わって敗死した。 次男のサフォーク伯エドマンド・ドゥ・ラ・ポールは、1501年に大陸でヘンリー7世にたいする反乱をくわだてたが、これに失敗し、イングランドに引き渡されて投獄された。 そして1513年に、ヘンリー8世によって処刑されてしまった。 三男のリチャード・ドゥ・ラ・ポールも、1525年に、やはりヘンリー8世によって処刑されてしまった。

エリザベスの妹でリチャード3世のもうひとりの姉になるマーガレットは、フランスのブルゴーニュ公と結婚したが、その後、未亡人となっていた。 彼女は、ヨーク家のなかでは、テューダー家への復讐とヨーク王家の復活にもっとも執念を燃やした人間だった。 シムネルやウォーベックといった僭称者まで使って、ヘンリー7世を廃位に追い込もうとした。 しかし、彼女はそれも果たせぬまま、1503年に異国で他界した。

 リチャード3世にはジョン・オヴ・グロスターという庶子がひとりいたが、かれは、イングランドと敵対していたアイルランドの貴族とかかわった容疑で、ヘンリー7世に処刑されてしまった。 かれは庶子とはいえ、王の息子だった。 ヘンリー7世は、王の息子の庶子の、そのまた曾孫である。 血縁でいえば、ジョンはヘンリーよりはるかに王に近かったのである。

死者相関

= 1485年 ヘンリー7世から見たヨーク家の人間 =

 エドワード4世の子供についていえば、長男エドワード5世と次男ヨーク公リチャードは、おそらく1483年の夏にロンドン塔で暗殺されたのだろう。 長女のエリザベス・オヴ・ヨークは、ヘンリー7世の王妃となった。 エドワード4世には、ほかに3人―4人との説もある―の娘がいたが、ヘンリー7世が即位したころはまだ子供で、かれに脅威をあたえる存在ではなかった。 彼女らはその後、身分にふさわしいそこそこの結婚をし、テューダー時代も生きのびていた。

 上記のように、ヨーク家の子孫で王家復活につながるような行動をとった者と、ヘンリー7世やヘンリー8世に逆らった者は、ことごとく処刑されている。 つまりヘンリー親子は、ヨーク家の再興を願ったり、そうしたりする可能性のありそうなヨーク家の子孫を、根絶やしにしたのである。 それだけテューダー家は、ヨーク家の復活を恐れていたのだろう。

 さらに、ヘンリー7世の王妃エリザベスの母親エリザベス・ウッドヴィルは、リチャード3世の時代には領地もあたえられ、年金もあたえられて何不自由ない生活をおくっていた。 ところが、ボズワースの戦いの2年後の1487年に、ヘンリー7世によって領地を没収され、修道院に入れられて隠居生活をしいられていた。そして彼女は、そのままそこで他界したのである。

 ヘンリー7世、8世の親子は、用意周到に前王朝とつながりのある者を葬り去っていった。 テューダー王朝の冷徹で非情な一面が、ここに表われている。 このテューダー王家の祖ヘンリー7世が、エドワード5世とその弟の死を望み、その殺害計画にかかわっていたことは、十分に考えられるのである。 しかし、その証拠は、まったくない。

ウッドヴィル

ヘンリー3代

===== 続く =====

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