王妃メアリーとエリザベス1世 =02=

❢❢ 王妃メアリーの挫折と苦悩が大英帝国の礎に ❢❢

○◎ 華麗なる二人の女王が一つの国土に戴冠、敵対しつつ時代を築く ◎○

ウォリック城

◇◆ 父・ジェイムズ5世、絶望の中で他界 ◆◇

メアリーが生まれたころのスコットランドは、フランスの影響下でイングランドと激しく対立していたときで、かならずしも平穏な時代ではなかった。 ジェイムズ5世と王妃メアリーとのあいだには、ふたりの息子がいた。 しかしかれらは、メアリーが生まれる前の年の4月に、ふたりともまだ幼児のときに、流行り病のようなもので亡くなってしまった。 そのときのジェイムズ5世の悲しみと落胆には、非常に大きいものがあったという。 王室とスコットランドの将来を案じたからである。 当時のスコットランドは、宗教的にも政治的にも多くの問題をかかえて混乱していた。

王室は宗教的にはカトリックで、王妃をおなじカトリックの大国フランスから迎えるなどして、フランスとは深い関係にあった。 しかし、国内にはカルヴァン派のプロテスタントが広がりはじめ、貴族たちのなかにも、プロテスタントに改宗する者がふえていた。 これにたいしてカトリックのフランスは、当然のこと警戒していた。 プロテスタント勢力が、おなじプロテスタントのイングランドから支援をうけていたからである。 そこでフランスは、スコットランドのカトリック勢力にてこ入れをし、イングランドの影響が強まるのを警戒していた。 一方イングランドはイングランドで、スコットランドがフランスやカトリック諸国との同盟関係を強化してイングランドを脅かすことを警戒していた。 そして、フランスもイングランドも、スコットランドを自分たちの陣営に引き込もうとしていた。

ジェイムズ5世

 1541年9月、ジェイムズ5世の叔父でもあるイングランド国王ヘンリー8世(在位1509-47)は、スコットランドをプロテスタント側に引き込もうと、ジェイムズをヨークに呼び出して直談判しようとした。 しかし、スコットランドの重臣や聖職者たちは、当然のことこの会談に警戒した。 そしてジェイムズ5世に、ヘンリー8世の呼び出しには応じないように説得し、出かけてゆくことを思いとどまらせたのだった。 ところが、これがヘンリー8世を激怒させることになった。 ヨークでジェイムズを待っていた彼に、肩すかしを食らわせることになったからである。

翌1542年の夏、ヘンリー8世は甥の無礼にたいして、スコットランドにイングランド軍を侵攻させた。 そして8月、イングランド軍は国境沿いの町ケルソとロックスバラを襲撃すると、掠奪してまわったあげく、家々に火をつけて焼き払ったのである。 このイングランド軍の暴挙にたいして、ジェイムズ5世も黙って見ているわけにもいかず、軍隊を召集して反撃にでようとした。 しかし貴族たちのなかには、おなじプロテスタントと戦うことに難色をしめす者が多く、ジェイムズは軍隊を編成することもままならなかった。 やむなくかれは、カトリックの聖職者の力をかりて反プロテスタント勢力だけで軍隊を編成し、ようやく出撃することができた。

BAL285705

BAL285705 King Henry VIII (oil on oak panel) (detail of 4583); by Holbein, Hans the Younger (1497/8-1543); 28×20 cm; Thyssen-Bornemisza Collection, Madrid, Spain; German, out of copyright

そのスコットランド軍は、11月24日、ソルウェイ湾の奥の国境付近でイングランド軍と対峙することになった。 ところが、スコットランド軍はイングランド軍の罠にかかり、エスク川とサーク川とのあいだの沼沢地ソルウェイ・モスに誘い込まれてしまった。 そしてぬかるみに足をとられたスコットランド軍は、ろくに戦うこともなく大敗を喫するのだった。これが「ソルウェイ・モスの戦い」とよばれているものである。 ジェイムズ5世は、やっとの思いで戦場から逃げのび、11月30日にエディンバラの北約30キロメートルにあるフォークランド宮殿に入ることができた。しかし彼は、スコットランド軍の大敗に大きな衝撃をうけ、精神的に立ち直ることができず、そのまま寝込んでしまった。

ステュアート王朝

 このように、スコットランドがイングランドと厳しく対立していた1542年の春、王妃が3度目の懐妊をした。 それを知ったジェイムズ5世は、とにかく世継ぎの王子が生まれ、王室の将来が安泰になることを願った。 それというのも、もし女子が生まれたとなると、その子は将来、女王となるが、ジェイムズは、女王では多くの問題をかかえたスコットランドを統治してゆくのは無理だろうと考えたからである。 そればかりか、王位継承者が女子となると、婚姻関係をむすぶことでスコットランドを手に入れようとする者がかならず出てくる。 結婚相手が外国の王族となれば、スコットランドはいずれその国に連合され、乗っ取られることになる。 ジェイム5世は、それだけはなんとしても避けたいと思っていた。 彼が男子の誕生をせつに願った理由は、こんなところにもあったのである。

ところが、この年の暮れに生まれてきた子は、ジェイムズの期待に反して女子だった。 それを知らされた彼は、「女か」とつぶやき、失望の色を隠そうともしなかったという。 国内のカトリックとプロテスタントの対立、そこへ外国の干渉、加えて貴族たちの権力争い。 ジェイムズ5世が女子の誕生を知ったときの落胆は、「これらの国難を女王ではとても乗り切れないだろう、これでステュアート王朝も終わりか」という、絶望的な悲しみだったのである。 ジェイムズ5世は、女子の誕生に希望を見いだすことができず、絶望したまま衰弱すると、12月14日、30歳で他界してしまった。

メアリー・ギース

 ===== 続く =====

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