王妃メアリーとエリザベス1世 =03=

❢❢ 王妃メアリーの挫折と苦悩が大英帝国の礎に ❢❢

○◎ 華麗なる二人の女王が一つの国土に戴冠、敵対しつつ時代を築く ◎○

リース城

◇◆ 生後1週間足らずで女王に、そして亡命 ◆◇

メアリーが父の王位を継いで女王となったのは、生後1週間になるかならないかのときだった。 そして、彼女の摂政となってスコットランドの実権をにぎったのは、2代アラン伯ジェイムズ・ハミルトンだった。 彼はジェイムズ2世の曾孫にあたる王族のひとりだったが、親イングランド派だった。 すると、ジェイムズが心配していたとおり、幼い女王の誕生に、イングランドのヘンリー8世がさっそく触手をのばしてきた。 彼はイングランドの皇太子エドワードとメアリーを結婚させることで、武力にたよらずともスコットランドを併合できると目論んだのである。

1543年7月、ヘンリー8世はアラン伯ら親イングランド派の主導する政府とのあいだで、この年6歳になるエドワードと1歳のメアリーの婚約を「グリニッジの条約」として強引に成立させた。 しかしこの婚約に、フランスとスコットランドの親フランス派の貴族たちが猛反発した。 その結果、摂政のアラン伯は失脚し、代わってメアリーの母メアリー・オヴ・ギーズが摂政となり、スコットランドの実権をにぎるようになった。 親フランス派による巻き返しである。 そして、メアリーとエドワードとの婚約は、この年の12月に破棄されたのである。 ところが、イングランドのヘンリー8世も簡単にはあきらめなかった。

エドワード6世

 1544年、ヘンリー8世は皇太子エドワードの伯父になるハートフォード伯エドワード・シーモアに命じて、イングランド軍をスコットランドに侵攻させた。 そして婚約の復活をせまって、ハートフォード伯にスコットランド領内を掠奪してまわらせた。 このイングランドの掠奪は、一時は首都エディンバラにまでおよぶという荒っぽいものだった。 これが、ヘンリー8世の「手荒な求婚」といわれるものである。 ヘンリー8世は、1547年1月、56歳で他界した。 そして、皇太子エドワードが9歳9カ月でエドワード6世として即位した。

エドワード6世-2

 少年王の摂政には、伯父のエドワード・シーモアがなった。 シーモアはそれと同時に、初代サマーセット公に叙爵した。 そして彼は、この年の秋にもスコットランドに侵攻し、掠奪してまわったのである。 たびかさなるイングランドの侵略行為に、女王メアリーの身を案じた母親のメアリー・オヴ・ギーズは、母国フランスに支援をもとめた。 すると今度は、フランス国王アンリー2世(在位1547-59、前節イラスト)が女王メアリーに目をつけてきた。 アンリー2世はスコットランドへの軍事的肩入れと、女王メアリーとフランスの皇太子フランソワとの婚約を交換条件にしてきたのである。 いずれフランソワが即位すれば、王妃の国スコットランドはフランスと連合され、実質的にはフランスのものとなる。 アンリ2世のはそう考えたのである。

またアンリ2世は、ヘンリー8世のあとを継いだイングランドのエドワード6世は病弱で、たとえ結婚したとしても、世継ぎが望める状態ではない――ということを聞いていた。 ヘンリー8世のふたりの娘、メアリーとエリザベスの王位継承権は、父親の離婚と再婚のくりかえしで、不動のものとは言えなかった。 そして、スコットランド女王であるメアリーにも、テューダー王家の血が流れていた。 事と次第によっては、女王メアリーはイングランド王位を主張することもできる。 そうなれば、フランスはスコットランドに加えてイングランドも手に入れることができる。 アンリ2世はこのような、じつに遠大な野望をいだいていたのである。

エドワード・シーモア

 イングランドに脅かされつづけていたスコットランドに、女王メアリーとフランス皇太子との婚約に反対する声はなかった。 そしてその婚約は、「ハディントンの条約」としてすぐに成立するのだった。 1548年8月7日、5歳の女王メアリーは、フランスの宮廷へと送られ、そこで育てられることになった。 亡きジェイムズ5世の心配は、ここでも的中してしまった。 結局、女王メアリーのスコットランドは、イングランドとフランスの両方から狙われたのである。

このあとスコットランドは、女王不在のまま、メアリーの母メアリー・オヴ・ギーズの支配するところとなった。 スコットランドは、これまでも大国フランスの干渉をうけてきたが、このあとは実質的にフランスの属国となったのである。 そして、エディンバラにはフランス軍が守備隊として常駐し、宮廷の要職はフランス人によって占められるようになった。 これでフランスは、スコットランドの乗っ取りに成功し、北から直接、イングランドを牽制できるようになったのである。 まずは、フランスとメアリー・オヴ・ギーズの勝利だった。

フランソワ2世

===== 続く =====

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