王妃メアリーとエリザベス1世 =06=

❢❢ 王妃メアリーの挫折と苦悩が大英帝国の礎に ❢❢

○◎ 華麗なる二人の女王が一つの国土に戴冠、敵対しつつ時代を築く ◎○

エディンバラ

◇◆ 失意の帰国、そして 一目ぼれの再婚 ◆◇

  フランスの宮廷で自由気ままに暮らしてきたメアリーにとって、混乱した国は、到底、統治できるものではなかった。 また、彼女にもその気がなかった。 メアリーは荒廃した国を思いやるよりも、フランスの宮廷での優雅な生活を懐かしんだ。それは、荒涼とした辺境の地スコットランドでは望むべくもなかったが、彼女はそれなりの贅沢が楽しめればいいと思っていた。 あとは、再婚相手を探すだけだった。

 1565年の春、22歳のメアリーの前に、ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートという3歳年下の青年が現われた。彼の父4代レノックス伯マシュー・ステュアートは、スコットランド王室の血をひいていた。 そして母方の祖母マーガレットは、イングランドのヘンリー8世の姉で、メアリーにとっても祖母にあたっていた。 この祖母は、スコットランド国王ジェイムズ4世(在位1488-1513)と一度結婚したが、夫と死別したあとに6代アンガス伯アーチボルト・ダグラスと再婚をしていた。 そしてダーンリー卿は、このアンガス伯の孫だった。 つまりメアリーとダーンリー卿は、祖父の異なる又従姉弟同士の関係にあった。

 1565218日、ウェミース城でメアリーとダーンリーは再会した。 メアリーは従弟ダーンリーに一目惚れした。 メアリーは彼の、自分より長身で均整のとれたすらっとした体つき、ロンドン宮廷仕込みの洗練された優雅な物腰が気に入った。 またダーンリーは陽気で、メアリーと同じく狩猟好きでリュートやダンスが得意であり、このような所も2人は共通しており、メアリーの好みに合っていた。 さらに、彼はステュアート家の血を引くカトリックであり、しかもヘンリー7の曾孫で強力なイングランド王位継承権を持っているのも好都合だった。 ダーンリー卿は背が高く、メアリーの目には初々しい好青年に映った。 彼女はすぐにダーンリー卿に夢中になり、ダーンリーとの結婚を考えるようになる。

メアリー相関図

 当時、メアリーの再婚相手について様々な相手が検討されていたが、いずれの結婚もエリザベス1カトリーヌ・ド・メディシス(前節イラスト参照)の妨害などにより実現していなかった。 このダーンリーとの結婚も、内外からの多くの反対にあった。 まず、カトリックの国王が誕生する事に、多くのプロテスタント貴族や国民達が反対した。 組合貴族達の宗教改革により、スコットランドの国教はプロテスタントになっていたためである。 また貴族達の中には、彼の父親・レノックス伯に宿怨を抱いている者が多かった。 更には、メアリーとダーンリーの結婚について先頭に立って反対したのは、マリ伯ジェームズ・ステュアートだった。 彼は、元々メアリーの異母兄というだけで、王位に対して何の正当な権利もない、ただの私生児に過ぎなかったが、メアリーがスコットランドに帰国して以来、信頼できる肉親として修道院長から伯爵にまで出世し、絶大な権力をふるっていた。

ヘンリー7世系図

 マリ伯は自分の権力が失墜するのを恐れ、イングランドのエリザベス1世に結婚の阻止を頼んだ。 マリ伯は、ダーンリー父子が自分を殺そうと狙っているとも主張し、メアリーと激しい口論になった。 マリ伯はメアリーとダーンリーを誘拐した上でダーンリーをイングランドへ追放し、メアリーを退位させて自分が政権を握る事を計画していたという説もある。 エリザベス1世にとっても、それでなくともイングランド王位継承権を持ち、自分の要求通り王位継承権を放棄しなかったメアリーは忌々しい存在だったが、強力なイングランド王位継承権を持つダーンリーと彼女が結婚することはさらに大きな脅威だった。

しかし、ダーンリー卿もメアリーが気に入り、ふたりはすぐに結婚することになった。 そして結婚式は、1565年7月29日に、エディンバラのホリールードハウスの宮殿でおこなわれた。 メアリーはダーンリーと結婚した。 結婚を証明する書類には、「女王メアリー」の名の横に「国王ヘンリー」と署名が並ぶこととなった。 ≪してやったり!≫ほくそ笑むダーンリーとは対照的に、マリ伯の怒りはおさまらず、結婚式にさえ姿を見せなかった。 それどころか、英国からの支援を受け、クーデターを起こしたのである。 しかしあっという間に蹴散らされ、マリ伯は英国へと亡命した。

しかしここで問題が生じた。 上記のように、メアリーがフランスからもどったころ、スコットランドではプロテスタントも容認されていて、多くの貴族がプロテスタントになっていた。 ところがフランスとの関係が深かった王室は、依然としてカトリックだった。 そして女王の再婚相手ダーンリー卿もカトリックだった。 そのためプロテスタントの貴族たちは、ふたりの結婚が反プロテスタントの動きにつながるのではないかと恐れ、女王の結婚に反発して反乱を起こした。 そして反乱軍は、おなじプロテスタントの国イングランドに援軍を要請したのである。

ヘンリー・ステュアート

 だがしかし、イングランドのエリザベス1世は慎重で、彼女の対応は冷たかった。 エリザベスは、スコットランドに過度にかかわることで、国内のカトリック勢力を刺激したくなかったからである。 結局、スコットランドのプロテスタント勢力はイングランドからの支援がうけられず、彼らの反乱は、4代ボスウェル伯ジェイムズ・へバーンによって鎮圧されてしまった。 これによってメアリーの再婚生活は、順調に進むかにみえた。

 しかしながら、女王メアリーの悲劇は、いったいどこから始まったのだろうか。 彼女はダーンリー卿に夢中になって結婚したのだったが、ふたりの結婚生活は23カ月で破綻してしまった。 メアリーにとって最初は好青年に見えたダーンリー卿も、ただの甘やかされて育った、わがままな男であることがわかってきたからである。 彼は高慢で頑固、短気で落ち着きがなく、気まぐれ、それに酒好きで女好きという、ステュアート家の悪い血をすべて受け継いでいた。

Arandel_C

  ===== 続く =====

前節へ移行 ; https://thubokou.wordpress.com/2016/05/30/

後節へ移動 ; https://thubokou.wordpress.com/2016/06/01/

※ 下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます ⇒ ウィキペディア=に移行
*当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】 http://bogoda.jugem.jp/

【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】 http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中