断頭台の露と消えた王妃 =04=

 ごめんなさいね、わざとではありませんのよ でも靴が汚れなくてよかった”  

= その最期の言葉は、死刑執行人・サンソン医師の足を踏んでしまった際に =

=M.A.-03=1

◇◆ フランス革命の勃発 ◆◇

 1789年7月14日、ルイ十六世はいつものように狩猟から帰ると、十時に寝てしまった。 パリから顔色を変えて注進に及んだりリアンクール公が、国王をたたき起して、次のように報告する、「バスチイユが襲撃されました、要塞司令官は殺害されました!」  「では、反乱というわけか」と寝ぼけまなこの王は、驚いて口ごもる。 「いいえ陛下、革命でございます」と使者が答えた。 これは名高いエピソードである。 王宮の中は、正しく浮世離れしていた。 しかし乍ら、ヴェルサイユ宮殿にも革命の嵐が牙を向けて来た。

バスチイユ陥落後、同じ年の十月六日以来、暴民により強制的にパリに連れもどされた国王一族は、まるで人質のように荒れはてたチュイルリー宮に押しこめられていた。 このころ、王妃の唯一の相談役がフェルセン伯であった。 やがてヴァレンヌへの逃亡の途次、フェルセンは国王一家と別れ、その後 1792年年にふたたびチュイルリー訪問を決行する。

そして、それが恋人同士の最後の逢瀬である。 革命の大波は怖ろしい勢いで情勢を刻々と変化させ、国民議会から憲法までは二年、憲法からチュイルリー襲撃までは二、三ヶ月、チュイルリー襲撃からタンブルへの護送までは、たったの三日間という、急テンポの進展ぶりを示したのである。 さしも勇敢なフェルセン伯も、手のほどこしようがない状況に陥る。

=M.A.-04=2

 1792年2月13日、フェルセンが厳重な国民軍兵士の警戒網を突破して、チュイルリー宮に王妃を訪ねてきた。 彼は、何も言わずにその一夜を王妃の寝室で過ごしたと言う。 彼は革命の嵐が何であるかを知っていたのであろう、おそらく、死と破滅の危険によって昂揚させられた恋の夜は、容易に二人のあいだの慎しみの垣根を取りはらったにちがいない。 二人が本当の、精神的肉体的にも敢然な恋人同士であったことは、この点からみても疑問の余地がないように思われる。

王妃には、ほかに寵臣がいないこともなかった。 しかし公然と印刷された愛人のリストに載っているド・コワニー公にせよギーヌ公にせよ、エステルラジー伯にせよブザンヴァル男爵にせよ、彼らは単なる一時的な遊び仲間にすぎず、平和な時代の側近でしかなかった。 彼らと異なり、フェルセンには一貫した誠実さがあった。 これに対して、王妃もまた死ぬまで変らぬ情熱をもって報いたのである。

マリー・アントワネットの愛人と目される人物のなかで、いまだに謎につつまれているのが、アントワネットに誠を尽くした、このスウェーデンの貴族フェルセン伯である。 いったい、彼女とこの若い北国生まれの貴公子とのあいだには、尊敬以上のものがあったかどうか。

フェルセン伯の存在は長いこと世間の口にのぼらなかったが、彼が王妃の信頼と愛情を一身にあつめていたことは、彼の妹のソフィや父元帥に宛てた手紙からも窺い知られよう。 王妃の側近と目されていた連中がすべて彼女を残して去った後も、危険を冒して彼女に近づき、血なまぐさい動乱の最中、ヴェルサイユやチュイルリーの一室で親しく彼女と謀議をこらしたり、ヴァレンヌへの逃亡を共にしたりしたのが、このフェルセンという勇敢な男であった。

=M.A.-04=3

不幸とともに、この軽はずみな王妃の内面生活に、ひとつの新しい時期がひらけたのであろう。 喜劇が悲劇に変ったのである。 彼女は、いわば世界史的な自己の役割を認識し、自覚するのである。 フェルセンが全身全霊で教えて行く。 「不幸のなかにあって初めて、自分が何者であるかが解ります」と彼女は手紙に書いている。 今まで人生と戯れていた彼女が、運命の過酷な挑戦を受けて、人生と戦いはじめたのである。

チュイルリー宮で反革命の外交交渉にみずから乗り出した彼女は、もうすでに、遊びやスポーツにうつつを抜かしていたころの彼女ではなかった。 わきへ押しのけられた弱虫の夫に代って、彼女は外国の使臣と協議し、暗号文をつづって手紙を書き、はては怪物オレーノ・ミラボー伯を引見して、君主制維持の陰謀をめぐらすのである。

フェルセン伯は、フランス革命勃発直後、スエーデン王・グスタフ3世はフェルセンを革命阻止のためにスパイとしてヴェルサイユに送り込まれていた。 彼は騎士である。 フランス国王一家が窮地に立たされると、フェルセンは亡命を勧め、革命勢力からの脱出の手引きを試みた。 俗に言う「ヴァレンヌ事件」である。 彼は各地の王統はと連絡を取り合い、綿密に計画を立て、国王一家の脱出のために超人的な行動をした。 しかし実行は1ヶ月以上も遅れ、1791年6月20日、国王一家はチュイルリー宮殿を後にした。

フェルセンは御者に扮して追っ手がつかないように回り道をして北へ行き、パリ郊外まで来たが、ルイ16世がフェルセンの同行を拒否したため別れることとなった。 ルイ16世は、王妃マリー・アントワネットとフェルセンの関係を知っていたが、フェルセンの王家への献身ぶりは認めざるを得なかったため、王妃にもフェルセンにも何も言うことはなかったという。 結局国王一家の逃亡は露見し、亡命は失敗に終わっる。

逃亡する国王一家にフェルセンが最後にかけた言葉は「さようなら、コルフ夫人!」だった=一行は、ロシア貴族のコルフ侯爵夫人に成りすましていた=。 ・・・・・このような経緯を経て、人生と戯れていたマリー・アントワネットが、運命の過酷な挑戦を受けて、己の人生と戦いはじめたのである。

=M.A.-04=1

=== 続く ===

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