断頭台の露と消えた王妃 =32=

◎ マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ 

○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

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◇◆ マリー・アントワネットを彩った人々; マリア・テレーズ・シャロット =3/5= ◇◆

再びクールラント、そしてイギリス

1804321日、コンデ公がナポレオン暗殺を企んだという冤罪により処刑された。 ワルシャワの亡命宮廷は49日にこの事実を知った。 マリー・テレーズは憎しみを込めて、ナポレオンを「犯罪者」と呼んでいる。 そして、翌年の18054月、亡命宮廷は再びミタウに戻った。 ナポレオン軍によるプロイセンとロシアの攻撃が始まると、マリー・テレーズとエッジワース神父はミタウの負傷兵を看護する。 看護中にエッジワーズ神父は腸チフスに感染し、522日に病死してしまう。 またしても彼女は悲しみに襲われた。

ミタウを訪れたアレクサンドル1世は、間もなくロシア帝国がナポレオン軍に敗北すること、ヨーロッパ大陸にブルボン家の安住地はなく、スウェーデン国王グスタフ4世が避難場所を用意することを知らせた。 8月、グスタフ4世が用意したフリゲート艦トロイア号に乗り、ルイ18世とアングレーム公は妻たちを残してストックホルムへ旅立った。 グスタフ4世は2人を手厚くもてなしたが、2人は突然やってきたベリー公とともにイギリスへ向かった。

イギリス国王ジョージ3世は、スコットランドのエディンバラに向かう条件つきで下船許可を出したが、バッキンガム侯爵 が仲介し、ロンドン北東部のゴスフィールド・フォールをフランス亡命宮廷の定住地とした。 18088月、マリー・テレーズはルイ18世の妃マリー・ジョゼフィーヌとゴスフィールド・フォークに到着した。 翌18094月、フランス亡命宮廷はバッキンガムシャーのハートウェル・ハウスを年500ポンドでバッキンガム侯爵から借り、移転した。 マリー・テレーズは田園地域の城で、夫や親族と廷臣に囲まれ暮らした。 義父アルトワ伯はロンドンの館に暮らし、アングレーム公夫妻を社交の場に招き楽しませた。 イギリスの人々もフランス亡命宮廷に優しく接した。

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1810311日、マリー・テレーズがウィーン宮廷時代に可愛がっていたマリア・ルイーゼ大公女がナポレオンに嫁いだという知らせに、ルイ18世もマリー・テレーズも衝撃を受けた。 フランス亡命宮廷にはフェルセン伯爵殺害、プロイセン王妃ルイーズの病死と悪い知らせが続き、マリー・テレーズは落ち込んだ。 18122月、認知症となったジョージ3世の摂政となった王太子(後のジョージ4世)は、亡命中のフランス王室と廷臣たちに安全な場を提供し続け、亡命王室に多額の手当を出し、フランス亡命貴族にも愛を持って接し、盛大なパーティを催して楽しませた。 

舞踏会の際、栄誉ある王太子の右隣にはマリー・テレーズが座らせた。 彼女はもちろん、王太子を気に入った。 英国亡命生活には憂いが無く、18131月、マリー・テレーズは結婚13年目にして懐妊し、王室は喜びに包まれる。 しかし、妊娠がかなり進んだ時期に流産してしまう。 その後、彼女が妊娠することはなかった。

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復古王政期 / フランスへの帰国

1814年、ナポレオンがロシア遠征で敗れたことを機会に、マリー・テレーズはイギリスを後にした。 423日、フランス・コンピエーニュに到着した際、トゥルゼル夫人、結婚してベアルン伯爵夫人となっていたトゥルゼル夫人の娘ポーリーヌと泣きながら抱き合い、再会に歓喜した。 パリに戻ってからのマリー・テレーズは、幼い頃に辛酸を舐めつくしたチュイルリー宮殿での暮らしを嫌った。 そこにはナポレオンによりあちこちにNと刻み込まれ、蜜蜂と鷲の装飾が付けられていた。

マリー・テレーズは、ナポレオン時代に貴族となった新興貴族には決して気を許さず、洗礼名で名前を呼び、彼らを怒らせた。 他方、新興貴族たちは、マリー・テレーズがイギリスの田舎くさい格好でパリに戻ったと嘲笑した。 ルイ18世は「人前でむすっとした顔をしないこと、垢抜けない服装をしないこと、人前では紅ぐらいをつけなさい」と彼女を叱った。 また、帝政下で成功したかつての仲間もマリー・テレーズは嫌った。

また、マリー・アントワネットの侍女だったカンパン夫人が学校を開き、ボナパルト家の人間を教育していたことを知ると、彼女との面会も拒んだ。 反対に自分が苦しい時に尽力してくれたポーリーヌには「夫と子供と宮廷に来て下さい」と手紙を送り、当時ナポリにいたド・シャトレンヌ夫人には年俸を定め、自分を訪ねるよう手紙を書き、息子のシャルルには親衛隊関連の仕事を世話した。 時代に融合できない旧家僕の恩に報いている。

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両親のルイ16世とマリー・アントワネットの遺体は1805年に発見されていたが、ルイ・ジョゼフの遺体はマリー・テレーズが帰国後も見つからなかった。 亡命時代からルイ・シャルルだという人間が現れてはマリー・テレーズに面会を求めたが、彼女は一度も面会に応じなかった。 しかし、彼女は弟の生存を確かめるべく、1213日にかつての弟の牢番アントワーヌ・シモン未亡人を非公式に訪ねた。 シモン夫人は、ルイ・シャルルはタンプル塔で死んでおらず「1802年に自分を見舞いに来た」と答えた。

1815127日、パリ市立病院を見舞っていたマリー・テレーズは、ルイ・シャルルの検死を行ったフィリップ・ジャン・ペルタン医師を紹介された。 ルイ・シャルル(ルイ17世)の死を知ったマリー・テレーズは「弟を殺害した唯一の毒は、捕え人の残忍な行為である」と述べている。 2日後、ペルタン医師は再び彼女と会い、ルイ・シャルルの心臓を切り取った経緯を話し、その入れ物を渡したいと伝えたが、その後何度も手渡すことに失敗し、18255月にパリのド・ケラン大司教にそれを託した。 その後の18269月にペルタン医師が亡くなると、クリスタル容器に入った心臓は大司教の図書室に隠されたと言う。

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=== 続く ===

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