断頭台の露と消えた王妃 =38=

 マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ  

○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の17931016日に刑死 ○

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◇◆ 王妃に奉げた献身的な騎士道; ハンス・アクセル・フォン・フェルセン =1/7= ◇◆

 ハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯爵Hans Axel von Fersen 1755年9月4日 – 1810年6月20日)は、政治家軍人。 スウェーデンの名門貴族で王室顧問であるフレデリック・アクセル・フォン・フェルセン侯爵の子である。フランス王妃マリー・アントワネット愛人として知られるが、スウェーデン王グスタフ3の寵臣でもあった。 また、次代グスタフ4にも仕え、ナポレオン戦争に至る時代までを生きたが、1810年に群衆に撲殺された。

・・・・・・・・中世の騎士道精神をもってしても理解しがたい支援をマリー・アントワネットに注いだ人物。 王妃の愛人と噂される。 しかし、膨大な私財を王妃救出に使い、外交官の立場で王妃を支えるも革命の炎に挫折する。 マリー・アントワネットの死刑執行の現実に民衆を信じなくなり、憎むようになる。 そして、その民衆に撲殺されて全裸で路の側溝に投げ捨てられる・・・・・・・・

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青年期

 父親のフレデリックは、フランスを第2の故郷として愛し、家庭ではフランス語が話されていたという。 家門はスウェーデンの名門貴族で、王室顧問でもあるフレデリック・アクセル・フォン・フェルセン侯爵が当主であり、ハンス・アクセル・フォン・フェルセンはかれの一人息子です。 フェルセンは、容姿端麗で背が高く雄弁家に育った。 ヨーロッパを3年間遊学し、貴族の必須である知識を習得して177312月、18歳でパリの社交界にデビューし、たちまちパリの上流階級の婦人に人気を博した。

 フェルセンは、17741月、オペラ座の仮面部総会でフランス王太子妃マリー・アントワネットに出会う。 ヨーロッパ遊学の旅に出ていたフェルセンは、最期の仕上げにフランスに立ち寄っていた。 この夜の舞踏会で仮面をつけた女性が、背が高いフェルセンに優しく手をとってお喋りを始める。 遊学したウイーンでハプスブルク=ロートリンゲン家を訪れていたフェルセンには何かと話題が共通し、二人の会話は和やかに進展する。 

 数日後、ヴェルサイユの舞踏会で、2人は再会する。 仮面の女性は、誰もが知っているフランスの王妃、マリー・アントワネットだった。 マリー・アントワネットにとっては数多い寵臣の中の1人ではあったが、同い年ということもあって次第に親密になっていった。 この二人の出会いの裏には、スウェーデンの国益に準じたグスタフ3の意図があったとされている。 グスタフ3世は、フェルセンの血筋と容貌から彼をウイーンに遊学せしめてハプスブルグ家に近づけていたのである。 

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 1774510日、夫・ルイ16世の即位により王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することや、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。 しかし、誰が王妃に下着を渡すかでもめたり、廷臣の地位によって便器の形が違ったりすることが一種のステイタスであった宮廷内の人々にとっては、アントワネットが彼らが無駄だと知りながらも今まで大切にしてきた特権を奪う形になってしまい、逆に反感を買ってしまった。

 こうした中で、マリー・アントワネットとスウェーデン貴族フェルセンとの浮き名が、宮廷では専らの噂となった。王妃のアントーワネットは、地味な人物である夫のルイ16世を見下している所もあったという。 ただしこれは彼女だけではなく大勢の貴族達の間にもそのような傾向は見られたらしい。 一方、彼女は大貴族達を無視し、彼女の寵に加われなかった貴族達は、彼女とその寵臣をこぞって非難した。 

 マリー・アントワネットとハンス・アクセル・フォン・フェルセンの関係は日増しに濃密と成る。 マリー・アントワネットは、誰の目から見ても、フェルセンに夢中になっているのは明らかだった。 一方フェルセンは慎重だった。  王妃となったマリー・アントワネットに悪い噂が立つのを恐れ、王妃に迷惑が掛かからなうようにと、フェルセンはスウェーデンに帰国する。

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 フェルセンは、1778年に再びフランスに戻ったが、フランス遠征軍に加わりアメリカ独立戦争に参加してアメリカに渡る。 帰国後にフランスの王室スウェーデン人連隊長に任じられた。 その後グスタフ3世と共に欧州諸国を廻り、1785年からパリに在住することとなった。

 しかし、1788年にはスウェーデンがロシア帝国と起こした第一次ロシア・スウェーデン戦争にも従軍している。 名門貴族出身のエリート武官として、外交のひのき舞台で活躍しているのだが、マリー・アントワネットと距離を置く事を自ら課していたのであろう。

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 フェルセンは数ある結婚話を頑なに断り続けた。 『この人のものになりたいと願うただ1人の女性のものになれないのなら、わたしは誰のものになるつもりもない』と、妹への手紙に記している。 4年間外国で暮らしたフェルセンですが、外国での暮らしに耐えられなくなり、17836月、再びパリに戻ってきた。 フェルセンの留守中に王太子を出産していたアントワネットは、後継者を生んだということで、安堵してフェルセンとの恋に積極的になったことは想像に固いことですが・・・・・・。

 再会したフェルセンは、王妃マリー・アントワネットただ1人に愛を注いだ。 王妃の不幸が増せば増すほど、献身的に王妃の力となり、支え続けた。 しかしフェルセンの王妃への愛は、スウェーデンの国益に繋がりはしたが、次第にスウェーデンの国策とは異なり始め、グスタフ3世は駐仏大使となったスタール男爵に信頼を置くようになる。

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=== 続く ===

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