現代の探検家《植村直己》 =008=

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです

【この企画は“Webナショジオ・連載/日本のエクスプローラー”に追記補講した】

Ӂ 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい=植村直己= Ӂ

◇◆ 始まりと終わり・・・・・・  =6/6= ◇◆

南極大陸単独横断の目標からすると、彼は大きく迂回することになった。 74年、北極圏1万2000キロの単独犬橇行。78年、北極点犬橇単独行、ひきつづいて、グリーンランドを単独縦断。世界を驚嘆させた冒険の達成である。

この二つの冒険は、当初予想もしなかったまわり道である。 まわり道とはいいながら、それじたいが20世紀の冒険として歴史に残るほどの輝かしい達成だった。

この二つの冒険は、植村が自分でももてあますほどの、巨大なエネルギーに衝き動かされた結果といえなくもない。

二つの冒険にはそれぞれに理由があった。 南極横断という夢の実現のステップとして、それが必要であり、きっと役に立つという理由である。 しかし、そういう理由以前に、植村の目の前に北極圏の広大な氷の世界が広がり、それを見た以上、走破したくてたまらなくなったのだった。 巨大なエネルギーに衝き動かされるというのは、そういうことである。

自分のなかにある、マグマのようなエネルギー。その捌け口を追及していくと、単独の冒険を試みるしかなくなる。

彼は人前ではいつもニコニコと笑顔を絶やさない、礼儀正しい「いい奴」だった。 しかしたんに「いい奴」だけでは、このマグマのようなエネルギーの噴出は説明がつかない。そういうエネルギーをもってしまった男には、大きな屈折や苦悩があった。 彼がもし表面に見る通りの「いい奴」だったとしたら、あれだけ単独行に固執する必要はなかっただろう。

植村直己という常軌を逸したエネルギーの持ち主には、光の部分もあれば影の部分もあった。 この「植村直己 夢の軌跡」ではできるだけさまざまな角度からそれを追ってみたい。 いずれにしても、彼の身体のうちからわきあがってくるものによって、彼の夢と冒険は予想外の大きな軌跡を描いたのである。

私は不思議なめぐりあわせで、そういう植村の冒険行の相談相手になった。 もちろん、勤務先の文藝春秋は一貫して植村を後援したのだから、その範囲のなかでの相談相手であったかもしれない。 しかし私の立場からすると、植村は輝かしい業績を成しとげた、冒険のヒーローというのではなかった。光と影を併せもった、魅力的な人間として彼は存在した。

そういう人間の肖像を描いてみたい、というのがこの文章を書く動機である。

そのような意図がある以上、年譜の上での彼の事績を追うという方法はとらない。 たとえば、彼の手紙と日記を読み返してその心情をたどる。 あるいは「ひとり」で冒険を行なう意味を考える。もっとくだけて、彼にとって「食べる」とはどういうことだったのか、私自身の回想をふくめて考えてみる。 そんなふうにできるだけ多面的にテーマを構えて、不世出の冒険家の肖像に迫ることができれば、と思っている。

それにしても、植村がマッキンリー登頂後に消え去ったのは1984年2月。それからずいぶん長い時間が経った。 その前年の秋、ミネソタの野外学校にいたときに書いたハガキをもらったのが最後だった。

アラスカに残された彼の手荷物のなかに、マッキンリー下山後に出そうとしていたらしい、何も書かれていない絵ハガキがたくさん残されていた。 捜索隊が帰ってきてその話を聞いたときの、胸をつかれるような淋しさをいまでもありありと覚えている。

それから27年が過ぎた。そのあいだ折にふれて、あるいは何かの拍子に、私なりに植村と対話をしつづけてきた。 もちろん、自分1個のためにそうしてきたに過ぎないのだが、植村は私にとってそういう存在だった。

=補講・資料=

南極点到達への挑戦

南極点への行程を探す最初の試みは、1901年-1904年にディスカヴァリー号探検隊に加わった英国の冒険家ロバート・スコットによって行われた。 アーネスト・シャクルトンやエドワード・ウィルソンとともに、出来るかぎり南を目指したスコットは、1902年12月31日に南緯82.16度まで到達した。 シャクルトンはニムロド号探検隊の隊長として再び南極に挑み、1909年1月9日に南緯88.23度、南極点まであと112マイル(180キロ)というところまでたどり着いたが、引き返さざるを得なくなり涙を呑んだ。

人類初の南極点到達は、1911年12月14日にノルウェーロアール・アムンセンの南極点遠征隊によって成し遂げられた。 アムンセンは南極点にポールハイムというキャンプを張り、南極点周辺の台地を国王ホーコン7世にちなみ「ホーコン7世台地」と命名した。 ロバート・スコットもまたテラノヴァ号探検隊を組んで再び南極大陸に上陸し、南極点を目指していた。 スコットと4人の探検隊が南極点に到達したのは1912年1月17日、アムンセンに遅れる事34日後だった。敗北感にうちのめされたスコット隊の帰路、飢餓と極寒の中で彼らは全滅した。=拙文参照=

 1903年- アーネスト・シャクルトンが南極点を目指したが180km手前で断念。

 1911年12月14日- ロアール・アムンセン隊が人類初到達

 1912年1月17日(もしくは18日) – ロバート・スコット隊が到達。

 1912年1月28日- 白瀬矗らが日本人としては初めて本格的に到達を目指すが南緯80度5分で断念。

 1929年11月28日(もしくは29日) – リチャード・バードが初の南極点上空飛行。

 1956年11月- アメリカが南極点にアムンゼン・スコット基地を建設、南極点に科学者や要員が常駐する様になる。

 1958年1月3日- 南極横断遠征隊に参加したエドモンド・ヒラリーが到達。

 1958年12月19日- 日本の第9次越冬隊(村山雅美隊長)が日本人として初到達。雪上車を使用。

 1980年- イタリアのラインホルト・メスナードイツアルブト・フックスが初めて徒歩で到達。

 1992年1月3日 – 風間深志が初めてオートバイで到達。

 1933年1月16日 – 日本環境調査隊(吉川謙二隊長)が初めて無補給で到達。

 1933年- ノルウェーのアーリング・カッゲが初めて単独徒歩での到達。

  1994年12月 – ノルウェーのリブ・アーネセンが女性としては初めて単独到達。

・・・・・ 植村直己冒険館③ ・・・・・

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現代の探検家《植村直己》 =007=

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◇◆ 始まりと終わり・・・・・・  =5/6= ◇◆

 それにしても、南極単独横断の構想は、この飯場のだだっぴろい部屋で語られたとき、思いきり漠然としていた。 少なくとも、私にはその実現をどうイメージしていいのかわからなかった。 ただ、先はわからないとしても、そのために次にやるべきことは、具体的でリアリティーがあった。植村はいった。

(1)アルゼンチン政府、軍の協力を申請して、比較的入りやすいベルグラーノ基地へ行かせてもらい、南極を下調べし、体感する。

(2)それが成ったら、できるだけ時を移さずにグリーンランドに入る。 エスキモーの集落で暮らしながら犬橇の操縦を習得する。犬橇を操れるようになったら、グリーンランド周辺で長い犬橇旅行を敢行する。 それは、自分の構想を内外にアピールすることにもなるだろう。 グリーンランド滞在はどれぐらい時間がかかるかまだはっきりしないけれど、半年から1年ぐらいを目途にしたい。

この二つのことを実行するのに、文藝春秋に後援してもらえないか。 飯場の日から数回話を重ねるうちに、植村の希望は具体的になり、はっきりかたちをとるようになった。

必要とする金額は、大したものではなかった。 移動のための交通費、わずかな生活費、行く先に持参するおみやげ代。後年の大冒険にかかった費用にくらべるまでもなく、大した金額ではなかったと記憶している。 私は社の編集局長に相談し、後援の了承を得た。

私がなぜ植村の話に乗る気になったのか、いま思いだそうとしても、明快にこうであった、ということはできない。 先ほどもいったように、私自身は南極単独横断がどのように可能になるのか、はっきりとつかむことができなかった。 しかし、植村の夢には、何かしら強いリアリティーがあった。 植村という人間が発散しているリアリティーといったほうがいいかもしれない。

少し恥かしい気持ちをもって思い出す。私は自分より3歳年下のこの男に、「夢を追う子」を見ていたふしがある。W・H・ハドソンの『夢を追う子』(原題は“A Little Boy Lost”)という少年小説を、学生時代に読んでいた。 夢を追うマーチン少年は、夢を追いつづけるという一点で、特別な能力と運命を担わされていた。 私は当時の植村とのつきあいに、わずかであってもこの少年小説の影が落ちていたのを、恥かしいような気分で思い出す。

しかし、植村自身に、そのように観念的なところがあったわけではない。 彼は愚直にまっすぐ歩こうとする男だったが、一方で十分にリアリストだった。 一歩一歩、じわじわと目標に近づいて行くという姿勢は、堅実でさえあった。 壮大な夢とその実現に向けての堅実さ、それが奇妙に対照的だった。

エベレスト登頂、5大陸最高峰登頂という垂直の登山の世界から、氷と雪の水平への世界への転進。 それがこの時点で植村のとった姿勢だった。

71年、日本列島3000キロを徒歩で縦断。南極大陸を横断するとちょうど3000キロ、その距離を体感するために、北海道の稚内から鹿児島まで歩いてみたのである。 愚直といっていいほどの経験主義である。 そして72年、南極に初めて入り、アルゼンチンのベルグラーノ基地周辺を偵察した。 ついで同年9月、グリーンランド最北端にあるシオラパルク村に入って、そこで暮らしはじめた。 犬橇操作を習得するための、予定通りの行動である。着々と、一歩一歩進んでいった。

しかし予定通りの行動はそこまで。 これ以後、植村直己の夢と冒険は意外な軌跡を描くことになる。

=補講・資料=

南極点到達競争

アーネスト・シャクルトンが率いた1907年のニムロデ探査において、エドワース・デイヴィッドの隊は初めてエレバス山を登頂し、南磁極に到達した。ダグラス・モーソンは危険な帰路から生還し、その後も1931年に引退するまで様々な探検を続けた。 シャクルトン自身も他のメンバー3人を従え、1908年12月に数々の未踏の地を探検し、1909年2月にはロス棚氷を横断、バードモア氷河を渡って南極横断山脈を越え、そして南極高原に到達した。

ノルウェー人探検家ロアール・アムンセンの隊がフラム号を出発しクジラ湾からアクセルハイベルグ氷河を遡上するルートで南極点を目指し、1911年12月14日に彼らは到達を成し遂げた。 テラ・ノヴァ号探検隊ロバート・スコット一行が南極点に到達したのは、彼らに遅れる事1ヶ月だった。

1930年代から40年代にかけて、リチャード・バードは飛行機による南極飛行を数度行った。 彼は、南極大陸の通行手段を確立し、大規模な地質学的および生物学的調査を実施したことで知られる。 しかし、1956年10月31日にジョージ・J・ドゥフェク率いるアメリカ海軍のグループが航空機で南極点に降り立つまで、訪れる者はいない空白期間があった。

単独で南極大陸に到達した初めての人物はニュージーランド人のデヴィッド・ヘンリー・ルイスであり、彼は「アイス・バード」と名づけた10mサイズの鉄製スループでこれを成し遂げた。

ロアール・アムンセン」と「ロバート・スコット」を参照。また、拙文【スコットとアムンセン】をも閲覧ください。

・・・・・ 植村直己冒険館③ ・・・・・

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