トンブクトゥ / マリ共和国 =1/5=

Ӂ 長期連載:探検的・冒険的行動で世界を視座するフィルドワーク Ӂ

【この企画はナショジオ記載文趣“古代文明・歴史・冒険・探検”にその背景を追記・補講した】

〇● マリのトンブクトゥは、中世には多数の学者を引きつけ、塩や金の交易拠点として栄えた ●〇

 だが今は貧困と治安の悪化に苦しむ  =By ピーター・グウィン= 

◎ 危険極まる歴史都市に潜入 =1/5= ◎

トンブクトゥ-1

トンブクトゥTombouctou)は、西アフリカのマリ共和国内のニジェール川の中流域、川の湾曲部に位置する砂漠の民トゥアレグ族の都市である。ティンブクトゥTimbuktu)とも呼ばれる。マリ帝国、ソンガイ帝国時代に繁栄し西欧では「黄金郷」として知られるほどであった。アラブ・ムスリムの学者たちも往来し学問研究も盛んであったが、16世紀以降は次第に衰退する。モスクや聖廟を含むトンブクトゥの歴史地区は、1988年、世界遺産に登録された。

トンブクトゥ-2

塩商人

 いにしえの交易都市トンブクトゥ。西アフリカのマリにあるその町で、私はある塩商人に会った。案内されたのは住居の屋上だ。彼は、北部の砂漠でテロリストに誘拐されたフランス人男性の情報を持っているという。

 塩商人のトラック隊は、砂漠を定期的に往復している。アルジェリアとの国境近くにある鉱山に物資を運び、重たい岩塩の塊をトンブクトゥに持ち帰るのだ。誘拐事件が頻発するせいで、伝説の都市トンブクトゥの観光業はすっかり衰退した。砂漠を行き来する塩商人は、そのあたりの実情を知っているかもしれない。

 アラブ人街の一軒の家に着いたのは、その日最後の礼拝が終わった後だった。石段を上って屋上に出ると、塩商人がクッションに座っていた。丸々と太った体つきだが、隣にいる大男と比べると小さく見えた。大男は立ち上がると、両腕を広げて私を出迎えた。ターバンで顔と頭をすっかり覆い、目だけ出している。私の手は彼の大きな手にすっぽり隠れてしまった。

 私たちは儀礼的なあいさつを長々と交わした。トンブクトゥではこれを済ませないと本題に入れない。「あなたに平安あれ」「あなたにも平安を」「ご家族はお元気ですか?」「家畜はよく肥えていますか?」「お体は変わりなく?」「アラーをたたえよ」―だがあいさつが終わっても、商人は黙ったまま。代わりに、大男が羊皮紙の文書を出してきて説明を始めた。この文書は何世紀も昔にメディナの隊商が持ち込んだもので、コーランの一節が記されていると言う。

トンブクトゥ-2

 「かつてトンブクトゥでは、黄金や奴隷よりも書物が珍重されていました」。大男は人さし指を立てて力説し、アラビア語で書かれた内容を朗読し始めた。塩商人が通訳してくれる。「人間どもは、『信じます』と言いさえすれば試されることはないと考えているのか? 我々は昔から人間を試してきた。おまえたちの言うことが本当か嘘(うそ)か、アラーはすべてご存じだ」

 それが誘拐されたフランス人と何の関係があるのだろう。だが大男は話を続ける。「どうです、この美しい筆記文字」。黄ばんだ羊皮紙には、色あせてはいるが赤と黒のインクの繊細な文字が並んでいる。男は一瞬の間を置いて、「手頃な値段でお譲りしますよ」と言った。しかし、私が丁重にお断りすると、大男はゆっくりとうなずき、羊皮紙を抱えて石段を下りていった。

 塩商人は煙草(たばこ)に火をつけると、大男の事情を説明し始めた。あの羊皮紙は、彼の母方の祖先から代々受け継がれてきたもので、本当は売りたくないが、金に困っているのだという。「彼は観光ガイドの下で働いているんだが、仕事がないんだよ。砂漠で起きている問題が、私たちを苦しめているんだ」 それから塩商人は、ようやく例のフランス人男性の消息に触れた。「“ベラウエ”が期限を設定したと聞いているよ」

 トンブクトゥ滞在中、私は幾度となく、地元の人々にこう懇願された。この町は安全だから、欧米人にもっと観光に来るよう伝えてくれと言うのだ。だが欧米諸国は10年近く前から、トンブクトゥおよびマリ北部を危険地域に指定して、立ち入らないよう自国民に指導している。テロリスト集団や反政府組織、密輸団が暗躍していて、フランス国土の3倍もある広大な砂漠は、完全な無法地帯と化しているからだ。

 なかでも悪名高いのが、モフタル・ベルモフタル率いる「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ組織(AQIM)」だ。アフガン紛争でソ連軍との戦闘中に片目を失ったベルモフタルは、砂漠では“ベラウエ”の名で知られる。アルジェリア系フランス語のスラングで「片目」という意味だ。

トンブクトゥH-2

//////参考資料///////

Ӂ 黄金のマリ帝国 Ӂ

言い伝えのひとつから・・・

トンブクトゥは11世紀前半、遊牧民トゥアレグのキャンプとして始まる。男達はその井戸の近くに住んでいた女性Bouctouに荷物を預け旅立って行った。後年、トンブクトゥは「井戸」というタマシェク語(トゥアレグの言葉)のTimが合わさり、Tombouctou(ブクトゥの井戸)と呼ばれるようになった。

 マンサ・ムーサのメッカ巡礼(1324)とトンブクトゥを訪れた探検家イブン・バトゥータIbn Battuta(1304-1368) の記述は、ヨーロッパに「黄金の都トンブクトゥ」の伝説を誕生させます。この伝説は19世紀まで語り継がれ、多くの人が冒険と野心を掻き立てられました。しかし、1828年4月。憧れのトンブクトゥへの潜入に成功したルネ・カイエRenne Caillie(仏)が見たものは、サハラ交易が廃れ、すっかり荒廃してしまった「静寂に包まれた泥の家の集まり」だったのです。

トンブクトゥの歴史

古代より長らく、サハラ砂漠を越えたアフリカ内陸の黒人と北アフリカからやってくるベルベル人ムスリムの商人が出会う交易拠点であって、間接的には欧州から来る商人ともつながっていたことから、この都市にまつわるさまざまな伝説や物語が伝えられた。それらの多くは、到達することの困難さに由来するものであり、ティンブクトゥという言葉は、「異国」や「遠い土地」の比喩として使われるようにもなった。

トンブクトゥは、遊牧民トゥアレグ族の特定の季節だけの野営地が起源であるが、その後、金や象牙、奴隷、塩などの交易品が行き来するサハラ砂漠の通商路において重要な中継地として都市へ成長し、この地に興隆したガーナ王国マリ帝国ソンガイ帝国を通じて莫大な富が集まる重要都市となった。ただし、砂漠地帯のオアシスに立地していたため、多くの人口を許容できるだけの食料や生活上の資材を確保することが困難であった。そのため、トンブクトゥに物資を供給するための都市網が後背地に発展していくことになった。

1500年代初頭、トンブクトゥの繁栄は頂点を迎え、その途方もない富の物語や伝説が伝えられたことを動機として、多くのヨーロッパ人がアフリカへの探検に向かうこととなった。16世紀の旅行家・地理学者であるレオ・アフリカヌスが、1512年に繁栄の絶頂にあったソンガイ帝国を訪れて次のような記述を残している。

「トンブト(ママ)の富める王は、金で出来た杯や笏を数多く持ち、その重量は1,300ポンドにもなる(中略)また常時3,000人の騎手を揃え、(中略)さらに多くの医者や裁判官、司祭、学者がおり、彼らは王の財によって手厚く養われている。」・・・・・・・※ 明日に続く

トンブクトゥx-1

・・・・・つづく

・・・・・ 世界遺産 『伝説の都市トンブクトゥ』 ・・・・・

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