消えた王国 / 古代イスラエル =4/6=

Ӂ 長期連載:探検的・冒険的行動で世界を視座するフィルドワーク Ӂ

【この企画はナショジオ記載文趣“古代文明・歴史・冒険・探検”にその背景を追記・補講した】

〇●  古代イスラエル王ダビデとソロモンは、どんな王国を築いたのか  ●〇

 その答えをめぐり、考古学者の間で激しい議論が巻き起こっている

◎ 古代イスラエル 消えた王国 =4/6= ◎

消えた王国-7

   聖書考古学が生まれたころから学者たちは、アブラハムやモーセが実在の人物で、出エジプトやエリコの戦いが史実だと実証しようと、懸命に証拠を探してきたが、いまだに見つかっていない。とはいえ、「聖書は鉄器時代(紀元前1200~586年ごろ)のイスラエルの歴史と関連のある古代の文献だと、ほぼすべての研究者が認めている」と、イスラエルの権威ある考古学者の一人で、エイラート・マザールのいとこにあたるアミハイ・マザールは話す。「聖書を批判的に検証するのは構いません。多くの学者がそうしています。でも、聖書を無視するわけにはいかない。参考にしなければ」

 アミハイは、「聖書の記述が一語一句正しいことを証明しようとするのは誤り」だとも付け加えた。だが、これまで多くの考古学者が、聖書は字義通りに解釈すべきだということを実証しようと執念を燃やしてきた。

 イスラエル軍の大物で政治家でもあり、学者でもあったイガエル・ヤディンは、1950年代末に聖書に書かれた都ハツォルで、都市を囲む城壁の門を発掘した。このとき彼は、地層の重なり方と聖書の記述を根拠に、門の内部で出土した土器の年代を特定し、列王記の記述から、この門はソロモンの時代、紀元前10世紀に建てられたと結論づけた。現代の考古学者が決して認めない年代決定法である。

 今では、ハツォルとゲゼルとメギドの遺跡で見つかった門がソロモン時代のものかどうか、学者たちの見解は分かれている。だが、ヤディンの手法を支持する学者は一人もいない。

 実際、ヤディンの手法に対する批判から、ダビデとソロモンは架空の人物にすぎないとの主張が1980年代初めに生まれた。しかし、1993年にイスラエル北部のテル・ダン遺跡で「ダビデの家」という言葉が刻まれた石碑が出土し、こうした主張の説得力は弱まった。とはいえ、ソロモンが実在したことを裏づける証拠はいまだに見つかっていない。

 今後さらに証拠が見つからなければ、フィンケルシュタインが1996年の論文で述べたように、紀元前10世紀のこの地域はおおむね未開の荒野だったことになる。壮大な建造物がそびえる偉大な王国などなく、あちこちに散らばる部族や氏族集団の集落が、徐々に小さな国になりつつある段階だったということだ。

 ダビデの都こそ自国の基盤だと考えるイスラエル人にとって、この解釈は受け入れがたい。エルサレムでの発掘調査の多くに資金を出す「ダビデの町」財団のドロン・シュピールマンは、率直に認める。「発掘の資金集めをするのは、聖書の記述が真実だと明らかにしたいという思いがあるからです。聖書の記述はイスラエルの領土権と深く結びついていますから」

ダビデの町

 当然ながら、エルサレムに住むパレスチナ人には、この考えはすんなり受け入れられない。伝統的にパレスチナ人が暮らしてきた東エルサレムでは、盛んに発掘調査が進められている。ダビデの時代の遺構が見つかれば、パレスチナ人は家を追われることになりかねない。

 東エルサレムに住む考古学者ハニ・ヌル・アディン教授はこう話す。「この地域で、パレスチナ人の女性は青銅器時代(紀元前3300~1200年ごろ)の初期から受け継がれてきた土器を作り、紀元前5000~4000年のころと同じく、今もタブーンという窯でパンを焼いています。パレスチナには文字の記録がなく、歴史をつづった文献はありません。でも、こうした伝統文化こそ歴史ではないでしょうか」

 イスラエルの考古学者のほとんどは、自分の研究が政治的に利用されることを望んでいない。それでも、研究の政治利用は繰り返されてきた。イスラエルのバル=イラン大学の考古学教授アブラハム・ファウストはこう見る。「たとえば、ノルウェーは、デンマーク、スウェーデンの支配下に置かれましたが、バイキング時代の王国の遺跡を民族の精神的なよりどころにして、独立を果たしました。ジンバブエの国名は、グレート・ジンバブエ遺跡にちなんだものです。国家のアイデンティティーを確立するには、考古学は非常に便利な道具となるのです」

ソロモンの銅山?

 「ここは地獄ですよ」と、鉱石の黒い残りかすが山積みになった採掘現場の縁に立って、レビは愉快そうに言った。ここは、広さ10ヘクタールほど(東京ドームの2倍強)の銅山跡、ヒルバト・アッナハス(アラビア語で「銅の廃墟」の意)。その隣にある大きな要塞では、3000年前の監視所の跡が見つかっている。銅山を見下ろせる場所に見張りがいて、怠ける者がいないか目を光らせていたのだろう。

 「これだけの規模の生産施設があれば、食料と水を調達するシステムも必要になります。証明はできませんが、この惨めな環境での労働に甘んじたのは、奴隷だけでしょう。要は、素朴な部族社会では、こうした生産活動はできないということです」とレビは話す。

 ダビデの町-1

//////参考資料///////

Ӂ ヘレニズム時代 Ӂ

ユダヤ人のエルサレム帰還

新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝(ペルシア)のキュロス2世(前600年頃-前529年)は、紀元前538年にイスラエル人を解放する。だがバビロニアでの生活を捨ててエルサレムに帰還したユダヤ人は2~3割と言われている。それ以外の多くは自由意志でバビロニアに残留した。 ペルシア王ダレイオス1世治下の紀元前515年ゼルバベルの指導でエルサレム神殿が再建された。これは第二神殿と呼ばれている。紀元前458年エズラの指導のもとで二度目の集団帰還が行われた。またネヘミヤとエズラとがこの時期、国の整備とユダヤ教の形式とを固め、これが現代のユダヤ教またはユダヤ文化へ直接に影響している。ユダヤ人の民族外結婚を禁じたのもこの時であり、これによってユダヤ民族の独自性が今日にまで保たれている。

アレクサンドロス大王

紀元前333年マケドニア王国アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)がペルシアのダレイオス3世を打倒すると、ユダヤ地方もギリシアの支配下に入った。ヘレニズム国家支配時代の始まりである(ヘレニスト)。

ヘレニズム国家による支配は紀元前143年まで続くが、ギリシアの自由政策のもとユダヤ人による自治と宗教の自由は守られ国内の商業も盛んとなった。同時にユダヤ地方がギリシャ風のヘレニズム文化の影響を受けていくことになる。

プトレマイオス朝の支配

アレクサンドロス大王が逝去すると、その領土は将軍たち(ディアドコイ)によって分割され、その支配をめぐる争いがおきた(ディアドコイ戦争)。ユダヤを含むシリア地方南部ははじめエジプトを領したプトレマイオス朝の支配を受けたが、この地方に手を伸ばすセレウコス朝(シリア)との間で何度も戦いが繰り返された。

この時代、紀元前3世紀の中ごろ、エジプトのアレクサンドリアにおいて聖書がギリシャ語に翻訳された。これを「七十人訳聖書」という。

セレウコス朝の支配

セレウコス朝は数次にわたる戦いのすえ、ついに紀元前198年にユダヤ地方を含む地域の支配権を獲得した。

紀元前175年にはセレウコス朝のアンティオコス4世エピファネスがプトレマイオス朝を圧迫し、アレクサンドリアも陥落寸前となった。ここにおいて急速に勢力を伸ばしていた共和政ローマが中東における巨大勢力の誕生を危惧して、中東情勢に介入したため、プトレマイオス朝は滅亡を免れた。このアンティオコス4世はユダヤにおいてもヘレニズム化政策を強引に押し進め、エルサレム神殿での異教崇拝などを強要したため、ユダヤ人の反感は高まっていった。

ソロモンの銅山

・・・・・つづく

・・・・・ ダビデの塔対面からエルサレムの町の様子  ・・・・・

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