失われた楽園/ クリミア・黒海の半島 =3/6=

Ӂ 長期連載:探検的・冒険的行動で世界を視座するフィルドワーク Ӂ

【この企画はナショジオ記載文趣“古代文明・歴史・冒険・探検”にその背景を追記・補講した】

〇●  黒海に突き出たクリミア半島。 さまざまな民族や帝国に支配されてきた  ●〇

 現在はウクライナ領だが、複雑な歴史が、住民たちの生活に影を落す

◎ 失われた楽園 / クリミア・黒海の半島 =3/6= ◎

クリミア-5

失われたタタール人の故郷

 領土を支配すること、特に楽園の支配となると、それは単なる土地の保有では済まされなくなる。クリミアの歴史がその難しさを物語っている。クリミアの支配者はスキタイ人からギリシャ人、ローマ人、ゴート族、フン族、モンゴル人、タタール人へと移り変わった。タタール人は、ユーラシアの大草原から13世紀に移住してきたイスラム教徒のチュルク系民族だが、ソ連の最高指導者だったヨシフ・スターリンから目の敵にされ、強制移住の悲哀を味わった。

 1944年5月の3日間、ソ連の民兵がタタール人の家に押し入り、中央アジアへの移住を命じた。その数は20万人に上り、半数近くが病気や餓えのために死んだ。「家に民兵がやって来たとき、私はまだ少年でした」。モスクワの大学教授を定年退職したアイディン・シェミザーデが当時を振り返る。彼が故郷を再び目にすることができたのは、20年後のことだ。

 1989年、ソ連共産党のミハイル・ゴルバチョフ書記長がタタール人のクリミア帰還を許可した。これを受けて約26万人が故郷へ戻り、タタール人は現在、半島の全人口の13%を占めている。その多くはシンフェロポリとバフチサライ郊外の不法占拠地に建てられたバラックで、祖先の地を取り戻したいと願いながら暮らしている。彼らは、当局からの追い立てや軽視の目におびえながらも、ほとんどが親ウクライナ派だ。民族意識が強く、ソ連の後継国家でもあるロシアには反射的に恐れを抱いてしまうが、ウクライナにはそのような問題はないからだ。

 33歳のタタール人芸術家ルステム・スキビンは、シンフェロポリの北東にある村に住んでいる。彼の家族はウズベキスタンに強制移住させられた。「クリミアのさまざまな話を聞かされても、実感はありませんでした。でも、1991年に帰還して、タタール人の小さな家が並ぶアルシタの町を訪れたとき、自分はここの一員なのだという意識がわきました。祖国でタタール人として生きることの意味が理解できたのです」

カザンティプ

それぞれの祖国

 ガリーナにとって、祖国とはロシアのことだが、スキビンは、タタール人の祖国はクリミアだと考えている。一方、セバストポリにあるシンクタンクの所長セルゲイ・クーリクにとって、祖国はウクライナだ。現在54歳の彼は、かつてソ連海軍の潜水艦で士官をしていた。

 ウクライナが独立し、セバストポリを自国の統治下に入れると、ロシアとの間で黒海艦隊をどう分割するかという問題が浮上した。クーリクを含む約10万人の海兵たちは1年の猶予を与えられ、その間にロシア海軍とウクライナ海軍のどちらに所属するかを決めることになった。

 「迷いはありませんでした。私はウクライナ人であり、両親もここに住んでいます。話す言葉もウクライナ語です。だから、ウクライナ海軍を選びました」と、クーリクは言った。

 「ウクライナ人であること」とは何を意味するのだろう。クーリクは少し考えると、「息をするくらいに当たり前のことです」と答えた。私は、この質問を他の人々にも聞いてみることにした。

 政治学者のオレクシー・ハランは、「21世紀においては政治的な境界線がすべてです。自分がウクライナ人だと思えばウクライナ人なのです」と言った。

//////参考資料///////

Ӂ クリミアの歴史/ 中世 Ӂ

遊牧民の流入

ローマ人の撤退後、クリミアはフン人(376年)、ブルガール人(4-8世紀)、ハザール人(8世紀)、キプチャク(10世紀以降)と立て続いて遊牧民族の征服と支配を受けた。クリミア半島北部のステップはスキタイ以来、遊牧民が支配した南ロシア草原とひとつらなりであり、インド・ヨーロッパ語族のイラン諸語にかわってこの地域の遊牧民の言語となったテュルク諸語が話されるようになった。

黒海艦隊

ルーシと東ローマによる支配

10世紀中頃、クリミア半島の東部はハザールを滅ぼしたキエフ大公国スヴャトスラフ1世によって征服され、チェルニヒウ地方のルーシトムタラカニ公国の一部となった。988年には、ウラジーミル1世東ローマ帝国の都市ケルソネソス(現在のセヴァストポリ)を占領し、ここでキリスト教に改宗した。ケルソネソスの遺跡にはこの出来事を記念してロシア正教会ケルソネソス聖堂(聖ウラジーミル大聖堂)が立てられている。

モンゴルの征服と中世後期のクリミア

キエフ大公国と東ローマ帝国は、13世紀前半のモンゴルのルーシ侵攻によってクリミア半島における支配権を失った。1238年夏、チンギス・カンの孫バトゥ率いるモンゴル軍はクリミアを荒らし、1240年にはキエフを破壊した。

同じ13世紀には、ジェノヴァ共和国が、ライバルのヴェネツィア共和国がクリミア南端の黒海沿岸に整備した港を奪い取り、チェンバロ(現在のバラクラヴァ)、ソルダイア(スダク)、チェルコ(ケルチ)、カッファ(フェオドシヤ)などを自ら建設した。

1239年から、クリミアはモンゴル帝国の分枝であるジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)のテュルクモンゴル系諸部族(タタール)の支配下に置かれた。 ちなみに、1346年、モンゴル軍がジェノヴァ支配下のカッファ(フェオドシヤ)包囲中に、疫病で死んだ兵士の死体を城壁内に投げ込んだことが、14世紀ヨーロッパを席巻したペスト大流行の原因とする説がある。

1395年にトクタミシュ・ハンティムールに敗れて没落し、ジョチ・ウルスの分裂が進むと、クリミアにいたタタールの諸部族は、1441年にチンギス・カンの末裔(バトゥの弟トカ・テムルの子孫)であるハジ・ギレイハンとしてクリミア・ハン国を形成した。都ははじめクルク・イェルに置かれ、16世紀のはじめにバフチサライに移った。

ジョチ・ウルス

・・・・・つづく

・・・・・ 独ソ戦クリミア セヴァストポリ   ・・・・・

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