ダーウィンになれなかった男 =7/10=

Ӂ 長期連載:探検的・冒険的行動で世界を視座するフィルドワーク Ӂ

【この企画はナショジオ記載文趣“古代文明・歴史・冒険・探検”にその背景を追記・補講した】

〇●  150年前、ダーウィンと同時に進化の理論を提唱した博物学者、ウォレス ●〇 

常識にとらわれず、好奇心のままに突き進んだ  

学会など眼中にない男の壮快な生涯を追う  

◎  補講・アルフレッド・ラッセル・ウォレス =1/4(7/10)=  ◎   

ダーウィンとの論争=自然選択説の公表=  

ウォレス-13

ウォレスは一度、短い間ダーウィンにあったことがあり文通相手の一人となっていた。ダーウィンは彼からの情報を自分の理論の補強に用いていた。ウォレスのダーウィン宛の最初の手紙は失われているが、ウォレスは自分宛の手紙を慎重に保存していた。1857年5月1日の最初の手紙では1855年のサラワク論文と10月10日付のウォレスの手紙にコメントしていた。ダーウィンは二人が類似した結論に達していること、自分の説は発表まであと二年はかかりそうだと告げていた。

1857年12月22日付の第二の手紙でダーウィンは生物の分布についてウォレスが理論を作ったことがどれほど嬉しいかを述べ、「熟慮がなければ素晴らしいオリジナルな観察もありません」と付け加えると同時に「私はあなたよりずっと先に進んでいると思います」と述べた。ウォレスはこの問題のダーウィンの意見を信じ、1858年2月に書いた小論『変種がもとの型から限りなく遠ざかる傾向について』を同封し、ダーウィンがそれをチェックして価値があると思われたらライエルに渡して欲しいと頼んだ。

ダーウィンは1858年6月18日にその原稿を受け取った。ウォレスの小論はダーウィンの用語「自然選択」を使用しなかったが、環境圧力によってある種は近縁種から異なっていくという進化のメカニズムはほとんど同じものであった。

ダーウィンは原稿をライエルに送り、手紙を添えてこう述べた。「これほどの偶然の一致をみたことがありません。もしウォレスが私の1842年の概要を持っていたとしても、これより良い要約を作ることができなかったでしょう!彼の用語さえ私の章の見出しにあります……彼は私に公表して欲しいとは言わないけれど、しかし、もちろん私はすぐに手紙を書いてどんな雑誌にでも発表すると言うつもりです」ダーウィンは息子の病気で困憊しており、この問題をライエルとフッカーに委ねた。

ウォレス-26

彼らはウォレスの論文をダーウィンの先取権を示す未発表の著作と一緒に共同発表することに決めた。ウォレスの原稿は1858年7月1日のロンドン・リンネ学会で、1847年にダーウィンがフッカーに個人的に明かした小論と1857年にエイサ・グレイに宛てて書いた手紙とともに発表された。

ウォレスは後にこの処置を知らされたが、満足して受け入れた。彼は軽んじられたり無視されていなかった。ダーウィンの社会的、科学的地位はウォレスより遥かに高く、ダーウィンなしで進化に関するウォレスの意見がまじめに採り上げられることはありそうになかった。ライエルとフッカーの処置はウォレスを共同発見者の地位に引き上げただけでなく、ウォレスをイギリス科学界の最高レベルの一員とした。

この発表の直後の反応は薄かった。翌1859年3月にリンネ学会の会長は前年には何の大発見もなかったと述べた。しかし同年11月の『種の起源』の出版によって重要性は明らかとなった。ウォレスはイギリスに帰国しダーウィンと会った。彼らは生涯友人でありつづけた。

この二人の関係は長い間幾人かの研究家によって疑われてきた。1980年代には二つの本が、ダーウィンがカギとなるアイディアをウォレスから盗んで理論を完成させたと主張した。この主張は多くの研究者によって検討され、信用できないと結論づけられた。

種の起源の出版後、ウォレスはそのもっとも忠実な支持者の一人となった。ダーウィンは『種の起源』でミツバチの六角形の巣がどのようにして自然選択で進化しうるかを論じたが、ダブリン大学の地質学教授はこれを鋭く批判した。1863年にウォレスはこの批判に厳しく反論する短い論文を書きダーウィンを喜ばせた。1867年にはアーガイル公ジョージ・キャンベルによって書かれた自然選択説批判に反論した。1870年のイギリス学術会議の会合の後、ダーウィンに「博物学をよく知っている反対者はおらず、我々がしたような良い議論も行われていない」と不平を漏らした。

ウォレス-27

ウォレスとダーウィンの違い

ダーウィンはウォレスの論文が基本的に自分のものと同じであると考えたが、科学史家は二人の差異を指摘している。ダーウィンは同種の個体間の生存と繁殖の競争を強調した。ウォレスは生物地理学的、環境的な圧力が種と変種を分かち、彼らを地域ごとの環境に適応させると強調した。他の人々はウォレスが種と変種を環境に適応させたままにしておく一種のフィードバックシステムとして自然選択を心に描いているようだと指摘した。

“ この原理の働きは、全く蒸気機関の遠心調速機のようである。いかなるイレギュラーもそれが顕著になる前にチェックし修正する。そして同様に動物界ではアンバランスな欠陥はそれ自身の存在が危うくなり、ほとんどはすみやかに絶滅するために著しい規模に達することができない。

警告色と性選択

1867年にダーウィンは、一部のイモムシが目立つ体色を進化させていることについて自身の見解をウォレスに話した。ダーウィンは性選択が多くの動物の体色を説明できると考えていたが、それがイモムシには当てはめられないことを分かっていた。ウォレスはベイツと彼が素晴らしい色彩を持つ蝶の多くが独特の匂いと味を持つことに気付いたと答えた。そして鳥類と昆虫を研究していたジョン・ジェンナー・ウィアーから、鳥が一部の白い蛾は不味いと気付いておりそれらを捕食しないと聞いたことも伝えた。

「すなわち、白い蛾は夕暮れ時には日中の派手なイモムシと同じくらい目立つのです」。ウォレスはイモムシの派手な色は捕食者への警告として自然選択を通して進化が可能であると思われる、と返事を書いた。ダーウィンはこの考えに感心した。ウォレスはそれ以降の昆虫学会の会合で警告色に関するどんな証拠も求めた。1869年にウィアーはウォレスのアイディアを支持する明るい体色のイモムシに関する実験と観察のデータを発表した。

警告色は、ウォレスが動物の体色の進化へ行った多くの貢献のうちもっとも大きな一つである。そしてこれは性選択に関してダーウィンとウォレスの不一致の一部でもあった。1878年の著書では多くの動植物の色について幅広く論じ、ダーウィンが性選択の結果であると考えたいくつかのケースに関して代替理論を提示した。1889年の『ダーウィニズム』ではこの問題を詳細に再検討している。

ウォレス-28

・・・・・つづく

・・・・・In The Footsteps of Alfred Russel Wallace・・・・・

・・・・・Wallace Centenary Costa Darwin Wallace Natural Selection・・・・・

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ダーウィンになれなかった男 =6/10=

〇●  150年前、ダーウィンと同時に進化の理論を提唱した博物学者、ウォレス ●〇 

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◎  ダーウィンになれなかった男 =6/6=  ◎   

ウォレス-11

好奇心を貫いた人生

 ウォレスは1862年に英国に帰還した。すでに『種の起源』は三版を重ね、ダーウィンは世界的な名声を勝ち得る一方で、激しい批判の的ともなっていた。ダーウィンは大事な同僚としてウォレスを迎え、上陸を待ちかねるようにして自宅に招いた。マレー諸島の探検中、ウォレス自身の推定では、島から島へと60~70回の旅をし、12万5660点の標本を集めた。スティーブンズのおかげで、帰国後に彼はまとまったお金を受けとることができた。

 しかし、その後は順風満帆とはいかなかった。投資の失敗で多額の損失をこうむり、母親など身内の扶養負担ものしかかった。彼は精力的に論文や本を執筆することで、思索や研究の面では自由でいられたが、生活の保障はなかった。1869年初めまでには、結婚して子供を二人もったことがわかっている。この年、彼はアジアの島々をめぐる旅をつづった、優れた旅行記『マレー諸島』を刊行した。1880年にウォレスが経済的な苦境に陥ったときには、ダーウィンが政府に働きかけて、彼に特別の年金が支給されるようにとりはからってくれた。

 マレー諸島から帰還後のウォレスの仕事や多岐におよんだ論考を知るには、その著作をひもとくのが一番だ。『自然選択説への寄与』(1870年)、『奇跡と現代心霊主義』(1875年)、『動物の地理的分布』(1876年)、『土地の国有化』(1882年)、『火星に生物はすめるか』(1907年)、『民主主義の反乱』(1913年)など、彼は多数の本を世に出した。1889年に自然選択に関する論文をすべて集めて出版したとき、ウォレスは謙虚にも、そのタイトルを『ダーウィニズム(ダーウィン主義)』とした。自分の名前が残ることなど、彼にとってはどうでもよく、大事なのは理論そのものだった。生涯を通じて、功名心とは無縁な男だった。

ウォレス-22

 大した教育も受けず、経済的にも恵まれなかったが、ウォレスは豊かな人生を送った。地理的にも、知的活動の場でも、まさに好奇心のおもむくままにどこにでも分け入り、迷うことなく自分の道を突き進んだ。科学史に異彩を放つ人物として、その名は後世に伝えられていい。

姓名 :アルフレッド・ラッセル・ウォレス / Alfred Russel Wallace Maull&Fox BNF Gallica.jpg

生誕 : 1823年1月8日 / ウェールズ、モンマスシャー州ウスク

死没 : 1913年11月7日 / イングランド、ブロードストーン

居住 : イングランド Flag of the United Kingdom.svg / 国籍 : 英国 Flag of the United Kingdom.svg

研究分野 : 生物学、生物地理学 / 主な業績 : 自然選択説、ウォレス線、社会改革

主な受賞歴 : ロイヤル・メダル (1868) / メリット勲章 (1908) / コプリ・メダル (1908)

人物外伝 : アルフレッド・ラッセル・ウォレスは、イギリスの博物学者、生物学者、探検家、人類学者、地理学者。アマゾン川とマレー諸島を広範囲に実地探査して、インドネシアの動物の分布を二つの異なった地域に分ける分布境界線、ウォレス線を特定した。そのため時に生物地理学の父と呼ばれることもある。チャールズ・ダーウィンとは別に自身の自然選択を発見し、ダーウィンの理論の公表を促した。また自然選択説の共同発見者であると同時に、進化理論の発展のためにいくつか貢献をした19世紀の主要な進化理論家の一人である。その中には自然選択が種分化をどのように促すかというウォレス効果と、警告色の概念が含まれる。

心霊主義の唱道と人間の精神の非物質的な起源への関心は当時の科学界、特に他の進化論の支持者との関係を緊迫させたが、ピルトダウン人ねつ造事件の際は、それを捏造を見抜く根拠ともなった。イギリスの社会経済の不平等に目を向け、人間活動の環境に対する影響を考えた初期の学者の一人でもあり、講演や著作を通じて幅広く活動した。インドネシアとマレーシアにおける探検と発見の記録は『マレー諸島』として出版され、19世紀の科学探検書としてもっとも影響力と人気がある一冊だった。

ウォレス-23

//////参考資料///////

Ӂ 補講・アルフレッド・ラッセル・ウォレス =6/10= Ӂ

= 自然選択説(2/2) =

1855年2月にボルネオ島のサラワクで調査しているとき「新種の導入を調節する法則について」と題した論文を書き、1855年9月に発表された。この論文では種の地理的、地質的分布に関する幅広い観察を集め列挙した。彼は「あらゆる種は時間的、空間的に密接した類似種と調和して存在する」と結論した。これはサワラクの法則として知られるようになった。ウォレスはこのように以前の論文で提起した自分の疑問に答えた。いかなる進化のメカニズムにも言及しなかったが、この論文は彼が3年後に書く重大な論文の前兆である。

この論文は種は不変であるというライエルの確信に衝撃を与えた。1842年にライエルはダーウィンから種の変化を支持すると表明した手紙を受け取っていたが、強く反対した。1856年の初頭にライエルはウォレスの論文と、それを「おおむね良くできている!ウォレスは私の疑問を上手く説明する。彼の理論によればさまざまな家畜動物種は種へと発展した」と評したエドワード・ブライスについて話した。このようなヒントにもかかわらず、ダーウィンはウォレスの結論が当時としては先進的な創造論であると誤解した。

「特に新しいものはない……私の木の喩えを使った[けれど]創造説のようだ」。ライエルはダーウィンよりも強く印象づけられていた。ライエルはノートを付け、これが意味するところ、特に人間の祖先について取り組んだ。ダーウィンはこれより先に共通の友人ジョセフ・フッカーに自分の理論を打ち明けていた。そしてこの時初めてライエルに自然選択の完全な詳細を説明した。ライエルはそれに同意できなかったが、彼はダーウィンに先取権を確保するために公表するよう促した。ダーウィンは最初は抵抗したが、1856年5月からこの問題の大著の執筆に取りかかった。

1858年2月までに、ウォレスはマレー諸島の生物地理学研究を通して進化の事実を確信していた。後に自伝で次のように述べた。 ” 問題はなぜ、どのようにして種が変わるかだけではなかった。なぜ、どのようにして他の種とははっきり区別できる新しい種に変わるのか?全く異なる生態様式に上手く適応する理由と方法、そしてなぜ中間型は廃れ(地質学が彼らは絶滅したと示すように)、明確に異なり際だった特徴を持つ種や属、グループだけが残るのか? “

ウォレスの自伝によれば熱病に倒れ伏せているとき(マラリアと言われる)、ベッドの上でトマス・マルサスの人口論について考えていて自然選択を思いついたと述べている。

ウォレス-24

・・・・・つづく

・・・・・The Making of a Theory: Darwin, Wallace, and Natural Selection・・・・・

・・・・・Andrew Berry Interview About Alfred Russel Wallace・・・・・

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