ダーウィンになれなかった男 =9/10=

Ӂ 長期連載:探検的・冒険的行動で世界を視座するフィルドワーク Ӂ

【この企画はナショジオ記載文趣“古代文明・歴史・冒険・探検”にその背景を追記・補講した】

〇●  150年前、ダーウィンと同時に進化の理論を提唱した博物学者、ウォレス ●〇 

常識にとらわれず、好奇心のままに突き進んだ  

学会など眼中にない男の壮快な生涯を追う  

 補講・アルフレッド・ラッセル・ウォレス =4/4(9/10)=  ◎   

ダーウィンとの論争=ウォレス効果と進化論=  

ウォレス-17

ウォレスの心霊主義の公然とした支持と、心霊主義に向けられた詐欺の告発に対する擁護は1870年代に彼の科学的な評判を傷つけた。以前は親しいであった同僚の科学者たち、例えばベイツ、ハクスリー、ダーウィンとの間は緊迫し、彼らはウォレスがあまりに信じやすいと感じた。他の人々、生理学者ウィリアム・カーペンターや動物学者レイ・ランケスターはこの問題に関して公然とウォレスの敵対者となった。

 

ウォレスと他の心霊主義擁護の科学者(特にウィリアム・クルックス)は書籍や新聞から広い批判を受けた。特に医学雑誌ランセットは彼らを痛烈に批判した。1879年にダーウィンがウォレスへの年金交付のために博物学者から賛同を得ようとしたとき、ジョセフ・フッカーは次のように述べた。

ウォレスはかなり立場を失った。心霊主義への執着だけでなく、イギリス学術会議の彼のセッションの会合の意見に反してわざと開いた心霊主義に関する会議のためにも。彼は好ましくないやり方でそれを行ったと言われている。それが理事会に引き起こした憤りの声を私はよく覚えている。

フッカーは最終的には請願を支持することに同意した。

生物地理学

1872年にダーウィン、フィリップ・スレーターアルフレッド・ニュートンといった友人たちをせきたて動物の地理的分布の研究を開始した。最初はほとんど前進することができなかった。動物の分類法は非常に多く、しかも流動的であった。分類学に関する新しい研究を出版した後、1874年から本格的に調査を始めた。スレーターが発展させた鳥類の分類システム(種の分布を記述するために地球を6つの地理区に分けていた)を拡張し、ほ乳類、爬虫類、昆虫を分類し、現在でも用いられている動物地理区の基盤を作った。

ウォレス-34

そしてそれぞれの動物地理区の中で現在と過去に動物の分布に影響を与えたと思われるあらゆる要因について議論した。たとえば陸橋の形成と消失(例えば現在南北アメリカを繋いでいるもの)や氷河の増大などである。

彼は山の高さや海の深さ、地域の植物の特徴など動物の分布に影響を及ぼしたと思われる要因を記した地図を作った。また既知の動物の属と科をまとめてそれらの地理的分布をリストにした。旅行者がどんな動物がどこで見つかるかを学びやすくするためにテキストが整理された。その結果、1876年に二巻本の大著『動物の地理的分布』が出版され、これはその後80年にわたって動物地理学の権威あるテキストとなった

1880年にはその続編となる『島の生命』を出版し、島の動植物について詳述した。ウォレスは島を異なる三つのタイプに分類した。大洋島ガラパゴス諸島ハワイ諸島などである。これは中央海嶺にできており、過去にどこかの大陸に属したことはない。そのような島は地上棲ほ乳類と爬虫類の欠如が特徴である。

渡り鳥と人間によって持ち込まれる生物を例外として、その島に住む生物は小動物の偶然の到達とそれ以降の進化の結果である。次に大陸島グレートブリテン島のように現在でも大陸の一部であるとみなせる場合と、マダガスカル島のように最近になって大陸から分かれた島に区別し、その違いが動植物相にどのような影響を与えるか議論した。そして隔離がどのように進化に影響を及ぼすかと、結果的にそれがどのように動物の種類を維持することになるのかについて述べた。また気候の変化、特に氷河期が島の動植物相に与える影響についても論じた。『島の生命』は出版時に非常に重要な研究と見なされ、科学界での広い議論を引き起こした。

ウォレス-35

環境問題

生物地理学の広範な研究は人間の活動が自然に与える影響に目を向けさせた。1878年の『熱帯の自然とエッセイ』では森林伐採と土壌浸食、特に熱帯のような多雨地域での危険性を警告した。植物と気候の複雑な相互作用を指摘し、セイロン島インドで行われていたコーヒー農園のための熱帯雨林の広範な伐採は気候に影響を与え、結果的にその土地を浸食し、困窮を招くと警告した。

またヨーロッパの植民地政策に関して、セントヘレナ島について次のように述べた: “ それで、島の大部分は今は大変不毛で、かつて一面が緑で肥沃な土地であったと信じることができないくらい険しい。この変化の原因は、しかし簡単に説明できる。肥沃な土地は火山岩の分解によってできた。そして植物によって保護されている限り、植物性の堆積物は急な斜面に保持されていた。それが破壊されると熱帯性の雨は土を流し、広大な裸の岩と粘土だけが残った。

この回復不能な破壊は第一にポルトガル人によって1513年に持ち込まれたヤギによる。1588年には急速に広がり島中に数千のヤギが住んでいた。これらが苗を食いちぎるため、木の最大の天敵であり、森の自然な回復を妨げた。そして人間の向こう見ずな浪費が拍車をかけた。1651年に東インド会社が島を占領した。1700年頃には森が急速に減少しており何らかの保護が必要であったことが分かった。

二つの自生の木(レッドウッドとエボニー)はむち打ちとトラブルの収拾によかった。そのため皮が幹から剥ぎ取られ、残りは腐るにまかされた。1709年には島の要塞化のため、急速に消えつつあるエボニーが大量に石灰を焼くのに使われた。

ウォレス-36

・・・・・つづく

・・・・・The Voyage of Alfred Russel Wallace・・・・・

・・・・・Tim Laman — Wallace Centennial Celebration at UCLA・・・・・

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