ヘロデ王 波瀾万丈の生涯 =1/6=

Ӂ 長期連載:探検的・冒険的行動で世界を視座するフィルドワーク Ӂ

【この企画はナショジオ記載文趣“古代文明・歴史・冒険・探検”にその背景を追記・補講した】

〇●  ヘロデ王(Herod、紀元前73年頃 – 紀元前4年)●〇

共和政ローマ末期からローマ帝国初期にユダヤ王国を統治した王

ヘロデは、真偽は別に様々な逸話が残されている

◇ ヘロデ王 波瀾万丈の生涯 =1/6= ◇

ヘロデ王-1

ダビデの墓を暴いた : 『ユダヤ古代誌』XVI巻7章1節で「噂」として載っている話=宝目当てにダビデの墓を開けて蓄えられた金はなかったもののいくつかの黄金の装飾品を見つけ、さらにダビデとソロモンの棺を開けようとした所、火が噴き出し護衛2人が焼死する事件が起きて気味が悪くなったヘロデは墓を再度封印した。 この後「ヘロデにこの祟りのように家庭内不破が起きた」と次の節冒頭でヨセフスは記している。=

幼児虐殺 : 『マタイの福音書』2章16-18節に出てくる話、=詳細は幼児虐殺を参照。=

名士たちを集めて強制殉死させようとした : 『ユダヤ戦記』I巻33章6・8節と『ユダヤ古代誌』XVII巻6章5節・8章2節に出てくる。 =ユダヤ地方の名士たちを「来ないと死刑にする」と召喚し、彼らを競馬場に閉じ込め「自分が死亡したら全員を射殺して無理やり国民を泣かせる」という事を妹のサロメたちに願ったという。 ヨセフスによるとサロメたちはヘロデの死後速攻約束を破って名士たちを解放したので実行されなかったという結末になっている。=

……等、”聖書”にはヘロデ王に関する著述が数多く記されている。彼に関する逸話を拾い集めれば、彼が行った事業が浮き彫りにされる。キリスト教文化圏における、紀元前100以降の歴史が明確に浮き上がる。だが、

ヘロデの墓については、エルサレム近郊のヘロディウムに人工的に作られた山に存在するとされてきたが、確証は得られていなかった。しかし、2007年5月7日に、ヘブライ大学の研究チームがヘロデの墓を発見したと報じられ、「ヘロデ王の墓発見」のニュースが世界を駆けめぐった。 上記のように幼児殺しで知られる聖書の“悪玉”は、実際はどんな人物だったのか。王墓発掘をめぐるドラマと共に紹介する。

ヘドロ-2

イスラエルの首都エルサレムから南に約13キロ。貧相なオリーブの木々や石ころだらけのトウモロコシ畑の風景が終わり、ユダヤ砂漠の乾いた荒地が広がりはじめると、目の前に突如として、小さな火山のような丘が見えてくる。 ユダヤの国のヘロデ王が白亜の石で築きあげた要塞宮殿の遺跡がある、ヘロディウムだ。

紀元前40年頃からユダヤ王国を支配したヘロデ王は、古代世界で建築事業に誰よりも力を入れ、現在のパレスチナとその周辺に、数多くの宮殿や砦を築いた“建築家”でもあった。 ヘブライ大学のイスラエル人考古学者、エフド・ネツェルは、その建築物から王の実像に迫ろうと、実に半世紀にわたって、ヘロデが残した遺跡の数々を調査してきた。

そして2007年4月、ここヘロディウムの上部斜面で、これまで謎に包まれていたヘロデ王の墓をついに発見する。 その発掘調査を通じて、王の新たな人物像が浮かびあがってきた。

ヘロデには、新約聖書のマタイ福音書に描かれた残忍で狡猾(こうかつ)な人物というイメージがつきまとう。ユダヤの王と予言されたイエスを亡きものにしようと、ベツレヘムの幼い男児を皆殺しにしたとされているからだ。 だが、マタイ福音書の記述以外に記録が見つからないことから、ヘロデはこの件に関してはおそらく潔白だったようだ。ただ、3人の息子と妻、義理の母、それに多数の家臣を殺したのは確かだ。ヘロデの生涯は、創造性と残虐さ、調和と混沌が交錯したものだった。

ヘロデは紀元前73年、古代パレスチナの中心だったユダヤ王国に生まれた。ユダヤはそれまで70年間、ハスモン家に支配されてきたが、ヒュルカノス2世、アリストブロス2世という二人の王子が、王位をめぐり国を二分して激しく対立していた。 一方、国外では、北と西のローマ軍団と、その仇敵である東のパルティアにはさまれ、三方に火種を抱えた状態だった。

ヘドロ-3

//////参考資料//////

Ӂ 参考資料・大建築家・ヘロデ大王(1/6) Ӂ

ヘロデ(Herod、紀元前73年頃 – 紀元前4年)は、共和政ローマ末期からローマ帝国初期にユダヤ王国を統治した王(在位:紀元前37年紀元前4年)である。

マカバイ戦争を制してユダヤを独立させたマタティアとその息子たちの子孫であるハスモン朝(アサモナイオス家)が身内の争いで王座が空位となった際ローマ元老院によって王族ではないがユダヤの王として認められヘロデ朝を創設、ローマとの協調関係を構築した。 エルサレム神殿の大改築を含む多くの建築物を残した。だが、猜疑心が強く身内を含む多くの人間を殺害した。 息子たちと区別してヘロデ大王とも言われる。

王になる前

古代ユダヤにおいて再び独立を獲得したハスモン朝の末期の王アレクサンドロス・ヤンナイオスの息子ヒルカノス2世の側近にイドマヤ(エドム)出身のアンティパトロス(彼の父も同名だったので正確には「アンティパトロス2世」)という武将がいた。 ヘロデはこのアンティパトロスの息子である。 父アンティパトロスはローマ軍の軍事行動を積極的に援助することでユリウス・カエサルの信用を勝ち取ることに成功し紀元前47年の夏ごろ、ユリウス・カエサルによってユダヤのプロクラトルに任命されていた。

カエサルの暗殺後、父アンティパトロスはローマ東方へ勢力を拡大したガイウス・カッシウス・ロンギヌスらのリベラトレス(共和派・元老院派)側へ味方した。 王と大祭司であるヒルカノス自身は温和ではあるが愚鈍で非行動的な人間だったのでアンティパトロスは息子たちに政治を任せ、この時にガラリヤ地方を任された次男(長男のファサエロスはエルサレム周辺管轄)がヘロデであった。

若い頃のヘロデは気性の強い活発な若者で、シリアとの国境周辺にいたエゼキアスという盗賊団を壊滅させるなどの活躍をして父や兄共々高い評価を得たが、同時に周囲の人々はアンティパトロスの財力や権力の増大=ヒルカノスのローマへの贈り物を自分名義に出すほどになっていた=を危惧したため、前述のヘロデがエゼキアス一味を裁判にかけずに殺したことを上げてヘロデ自身が裁判にかけられた。

ヘドロ-4

裁判を開いたヒルカノス自身やこの法廷には居なかったが当時のシリア総督セクストスもヘロデの肩を持っていたこともあり、彼に死刑判決が下りそうな空気を悟ったヒルカノスの勧めでセクストスの支配下であるダマスコに亡命し、後日セクストスからシリア総督の地位を買ってエルサレムに軍を率いて来て力ずくでこの判決を覆した。

また、紀元前43年に父がマリコスというユダヤ人に毒殺されると、復讐の機会をうかがい、カッシウスから許可を取ったうえでマリコスが挙兵を目論んでいたという事を理由に謀反人としてヒルカノスの前で殺させた。 それから間もなくカッシウスがシリアを発つとユダヤ地方では騒乱が頻発したが、ユダヤ地方で起きたヘリックスやマリコスの兄弟の蜂起はファサエロスに、ガリラヤ地方で起きたアンティゴノスとツロの僭主マリオンの進攻はヘロデによって鎮圧され、この頃までにヘロデはヒルカノスの孫娘(アリストブロス2世の孫でもある)のマリアムネ1世との結婚を約束されていたため、ヒルカノスからは従来以上にその地位を守ってもらえるようになっていた。

だが、紀元前42年のフィリッピの戦いでカッシウスはマルクス・アントニウスオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)に敗れ、その後アントニウスがアシアに来たため、ファサエロスとヘロデの専制的なやり方を嫌っていたユダヤ人の指導者たちは彼らがヒルカノスから権力を横取りしていると訴えた。 しかし、ヘロデの方が一枚上手でこれについて出頭して弁明した。  ・・・・・・・つづく

ヘドロ-5

・・・・・つづく

 

・・・・・ヘロデ大王とローマ帝国の分断統治・・・・・

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