ヘロデ王 波瀾万丈の生涯 =2/6=

Ӂ 長期連載:探検的・冒険的行動で世界を視座するフィルドワーク Ӂ

【この企画はナショジオ記載文趣“古代文明・歴史・冒険・探検”にその背景を追記・補講した】

〇●  ヘロデ王(Herod、紀元前73年頃 – 紀元前4年)●〇

共和政ローマ末期からローマ帝国初期にユダヤ王国を統治した王

ヘロデは、真偽は別に様々な逸話が残されている

◇ ヘロデ王 波瀾万丈の生涯 =2/6= ◇

ヘロデ王-3

ローマとの協調をめざした王

ヘロデがまれたユダヤはそれまで70年間、ハスモン家に支配されてきたが、ヒュルカノス2世、アリストブロス2世という二人の王子が、王位をめぐり国を二分して激しく対立していた。一方、国外では、北と西のローマ軍団と、その仇敵である東のパルティアにはさまれ、三方に火種を抱えた状態だった。

ヒュルカノス2世の顧問でもあったヘロデの父親は有能な武将で、ローマ軍と足並みをそろえてアリストブロス2世を追放し、ヒュルカノス2世をユダヤ王に即位させた。

こうした環境で育ったヘロデは、ローマと協調するメリットを幼い頃から理解していた。ヘロデが王に即位できたのはローマ人のおかげであり、在位中にいちばん心を砕いたのは、ローマからの要求と、政治的・宗教的な独立を守ろうとするユダヤの民の間に折りあいをつけることだった。だが、この態度がユダヤ人の目には裏切りと映ったようだ。

母親はアラブ人で、父親はユダヤの南のイドマヤ出身というヘロデの出自を考えると、この微妙なバランスを保つのはかなり難しかっただろう。ハスモン家の王は代々エルサレムで大祭司を務めてきた。だが、ヘロデはユダヤ人として育てられたものの、大祭司にふさわしい名家の出ではなかった。ヘロデの伝記を書いたユダヤの軍人で貴族のフラウィウス・ヨセフスによると、配下のユダヤ人の多くは、ヘロデのことを「半ユダヤ人」としてよそ者扱いし、ハスモン家の復権をねらっていたという。

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紀元前43年、ヘロデの父親がハスモン家の手先に毒殺され、その3年後にはパルティアが突然ユダヤを侵略する。当時の王、ヒュルカノス2世は、パルティアと手を組んだハスモン家の一派に耳を切り落とされ、王位を追われた。そして次の標的となったのが、ヘロデだった。

この危機に際してヘロデは、ローマ人に助けを求めた。暗闇に乗じて家族ともどもエルサレムを脱出し、捨て身の戦いでパルティアとハスモン家の連合軍を破る(その戦場跡に、のちにヘロディウムがつくられることになる)。ローマ元老院は、その変わらぬ忠誠心を高く評価して、ヘロデをユダヤの王に任命した。

元老院から出てきたヘロデは、ローマで最も有力な二人と腕を組んでいた。将軍マルクス・アントニウスと、のちに初代ローマ皇帝カエサル・アウグストゥスとなるオクタウィアヌスだ。不安定な王位を維持するためならば、ローマにどんな便宜を図ることもいとわない。ヘロデはその意志を示そうと、カピトリウムの丘に立つユピテル神殿を訪れ、異教であるローマの神々にいけにえを捧げたのだった。

波乱に満ちた治世

かくしてヘロデは王国の主となったが、国を掌握するには、さらに3年の戦いを要した。紀元前37年にエルサレムを陥落して、少なくとも政治的には、ようやくユダヤを手中におさめた。そして社会的・宗教的な権威を高めるため、最初の妻ドリスを離縁し、ハスモン家のマリアンメと結婚する。

それでもハスモン家の脅威はおさまらなかった。2年後の仮庵(かり いお)の祭りのとき、第二神殿の大祭司を務めるマリアンメの弟が、ユダヤの民から大歓迎を受けた。この若者が王座を脅かすのではないかと恐れたヘロデは、エリコの宮殿にあるプールで彼を溺死させる。

ヘロデ王の不安の種はハスモン家だけではなかった。紀元前42年から前31年まで、マルクス・アントニウスがローマの東方を支配していた間、ヘロデは彼の忠実な友であり、同盟者だった。ところが、エジプト女王クレオパトラが、夫アントニウスをそそのかしてユダヤ王国をねらい、ヘロデを誘惑しようとまでした。

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//////参考資料///////

Ӂ 大建築家・ヘロデ大王(2/6) Ӂ

出頭して弁明したヘロデは、さらにアントニウスを買収して告発者たちに発言の機会を与えずに文字通り黙らせ、告発者たちはアントニウスがシリアに来た時に再度訴えたものの、アントニウスだけではなくヒルカノスもヘロデ側についていたため、逆にファサエロスとヘロデは正式にテトラルケス(四分領太守・四分封領主)に任命されユダヤ人に対する行政を委任された。

これでもまだ諦めなかった告発者達は騒乱を扇動するものとしてアントニウスに捉えられ、なるべく穏便に事を済ませようとしたヘロデは処刑にまでは至らないように仲裁し、逮捕には至らなかった人たちにもこれ以上争うのは危険だから去るように最後通告をしたが、結局拒否的な態度を取っていた告発者たちはローマ兵の攻撃を受け、逮捕された人々はアントニウスに処刑された。

ヘロデのチャンスは人生最大の危機によって訪れた。 以前ヘロデに撃退されたアンティゴノスが、今度はパルティアの援助を受けて伯父に叛旗を翻したのである。 この時パルティア人が友好的なそぶりで来たためヒルカノスとヘロデの兄ファサエロスは油断して彼らの元に行きそのまま捉えられてしまったが、警戒してついていかなかったヘロデは婚約者マリアムネや彼女の母、自分の母や妹・弟などの女子供、ならびに従者や自分に従う民衆を連れてイドメアのオレサで弟のヨセフスと合流した。

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ここでついてきた連中のうち一般民衆など9000人はここで食料などを持たせ比較的安全なイドメア地方内で逃げるように指示し解散させ、親族など重要人物は死海沿岸のマサダに逃げ込ませてヨセフスにそこを託し、主要なものだけを連れてさらに南のペトラに逃げようとしたが、そこを支配するナバテア王マルコスにぺトラへ来ないように頼まれたため、計画を代えエジプトのアレクサンドリアに向かい、さらに嵐に遭いながらもローマに行きアントニウスにこのことを訴えた所、以前より親しくしていたことが功を奏して要求が受け入れられたうえに、オクタウィアヌスにも同意を得られたことで元老院の公式議会で「ヘロデはユダヤの王である」と宣言された。

この時点でパルティア軍はアントニウスに任命されていたレガトゥスのウェンティディウスによってシリア一帯から追い返されていたが、彼らはアンティゴノスに対しては金を受け取るだけで直接攻撃はしなかったので、アントニウスはウェンティディウスとその副官のシロンにヘロデに味方するように命令を下し、ヘロデはこれらの援軍の力を借りてヨッパやマサダを制圧後エルサレムに向かったが包囲戦を行うには時期が悪く、一旦冬季用の陣営に帰還した。

翌年(紀元前38年)の春、パルティア軍は再度攻めてきたがウェンティディウスたちがこれを撃破し、ヘロデも弟のヨセフスの戦死などもあったがエルサレム周辺以外をほぼ制圧したため、紀元前37年の春からエルサレムを包囲し(エルサレム攻囲戦)、さらにこの時マリアムネと正式に結婚をし、婚礼が終わってヘロデは陣営に戻り、ウェンティディウスの後任として協力してくれるローマのソシウスからの援軍もあり、エルサレムは陥落してアンティゴノスは捉えられた。

ヘロデはローマ兵がエルサレムで略奪などをされては困るので、彼らに謝礼として現金を支給する代わりにエルサレムでの略奪をしないように頼んで帰させ、さらにアンティゴノスが元老院で王位正当性を主張される危険を考えアントニウスに頼んで処刑させ、ここにハスモン一族の人間がユダヤの王であった時代は終わった。  ・・・・・・・つづく

ヘドロ-10

・・・・・つづく

 

・・・・・ナショジオ : ヘロデ王の失われた墓・・・・・

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