ヘロデ王 波瀾万丈の生涯 =3/6=

Ӂ 長期連載:探検的・冒険的行動で世界を視座するフィルドワーク Ӂ

この企画はナショジオ記載文趣“古代文明・歴史・冒険・探検”にその背景を追記・補講した

〇●  ヘロデ王(Herod、紀元前73年頃 – 紀元前4年)●〇

共和政ローマ末期からローマ帝国初期にユダヤ王国を統治した王

ヘロデは、真偽は別に様々な逸話が残されている

◇ ヘロデ王 波瀾万丈の生涯 =3/6= ◇

ヘロデ王-5

紀元前31年、アクティウムの海戦をきっかけに政治情勢は一変する。アントニウスとクレオパトラの連合軍を撃破したオクタウィアヌスが、ローマ帝国を打ちたて、初代皇帝の座に就いたのだ。

アントニウスとの長年の友情が不利に働くと見たヘロデは、急いでロードス島に向かう。そして王冠をとった姿で、しかし威厳は失うことなくローマ皇帝の前に現れ、アントニウスとの友情をはっきり認めたうえで、新たな主人への忠誠を誓った。その落ちついた率直な態度に感じいったオクタウィアヌスは、ヘロデのユダヤ王としての地位を改めて認める。

それから20年間は比較的平穏で、経済が繁栄した時代だった。宮廷ではヘレニズム文化とローマ文化が花開き、東西から優れた学者、詩人、彫刻家、画家、建築家が集まってきた。飢饉や災害のとき、ヘロデは王者にふさわしい寛大さを臣民に示し、その恩恵は国境を越えて遠くギリシャや小アジアにまで及んだ(ヘロデの惜しみない寄付に感謝したオリンピアの市民は、彼をオリンピックの総裁に選んだ)。

ヘロデは、壮大な野心と創造性を発揮した大規模な建設事業に次々に着手する。まず、天然の良港がなかったユダヤ北岸には、十分な水深のあるカイサリアの港を建設した。ここでは、水中で固まるセメントでつくった巨大なブロックをいくつも用いて防波堤を築くという、革新的な技術を採用している。

マサダに築いたヘロデの北の宮殿は、断崖の段状の地形を利用して築かれた3段の建造物で、採光と風通しがよくて住みやすいうえ、要塞としても堅固だった。またエルサレムの第二神殿の改修にあたり、長さ12メートル、重さ600トンもある巨石を基礎に据えた。その名残は西壁(嘆きの壁)として今も残り、ユダヤ教第一の聖地となっている。

栄光と繁栄に彩られたヘロデ王の治世だが、私生活には不穏な影が迫っていた。ヘレニズム期の統治者の例に漏れず、ヘロデにも妻が10人、子どもも十数人いた。だが、妻や子が絶えずめぐらす陰謀のせいで疑心暗鬼となり、残虐な行為に走るのだった。

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紀元前29年、妹サロメに嫉妬心をあおられたヘロデは、妃マリアンメを殺してしまう。だが、妃への思いを捨てきれず、何カ月もふさぎこみ、死んだ妻を黄泉の国から取り戻そうとするかのように、その名を呼びつづけたという。のちには息子たちにも陰謀の疑いをかけ、そのうち3人を殺した。遺言は6回も書きかえた。

紀元前4年、ヘロデはエリコで病に倒れて息を引きとる。その葬列からは、臣民が王を尊敬し、畏怖していたことがうかがえたと、ヨセフスは伝記で書いている。王の遺体は、宝石をちりばめて紫色の布を敷いた黄金の棺台(かん だい)に横たえられた。右手には笏(しゃく)を持ち、頭には金の王冠がかぶせられていた。

大勢の親族が棺台を取り巻き、さらに戦闘用の軍服を着た兵士たちと500人の従者、それに解放奴隷が、香料を携えて控えていたという。彼らは遺体と共に40キロの道のりを進み、南西の砂漠の端にあるヘロディウムへと向かった。ヘロデ王は、丘の上にそびえる真っ白な石造りの建物の中で、永遠の眠りについた。

それから2000年以上の歳月が流れた。2月のある寒い朝、私は強風のなか、考古学者のエフド・ネツェルと共に、ヨルダン川西岸にあるヘロディウムを訪れた。小柄なネツェルは今年74歳。内気で寡黙な性格からか、ふだんは薄い唇を真一文字に結んだ無愛想な表情だが、ときおり満面の笑みを見せることもある。

私たちは、砂漠の端にある丘のふもとに車を停めた。そこはアラブ系の遊牧民が暮らす村のはずれで、コンクリートブロックでできた家々が点在している。高さ2メートルもある看板には、イスラエル国籍をもつ者の立ち入りを禁ずと書かれている。

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//////参考資料///////

Ӂ 大建築家・ヘロデ大王(3/6) Ӂ

権威の強化時代

ヘロデがユダヤの王として支配した時代は大きく3つに分けられ、第1期はBC37-BC25年の権威の強化時代、第2期はBC25-BC13年の全盛期、第3期はBC13-BC4年の晩年の家庭の悲惨な時期になる。

名実的にユダヤの王として支配を始めたヘロデには当初、国内でユダヤの民衆・貴族・旧王家のハスモン家の3つの勢力、国外ではエジプトの女王クレオパトラと争うことになった、民衆に対しては好意と懲罰による飴と鞭の他、民衆に多いファリサイ派に顔が効くポリオンとその弟子のサマイアスという名士による説得も行った。

貴族層に対してはアンティゴノス派の残党を調べ、この派閥の指導者と見た45名を粛清してその財産を没収した=これは自分の後援者であるアントニウスの機嫌取りの資金にもなった=。

ハスモン家に対してはヘロデも一時は下手に出ており、パルティアに連れて行かれたヒルカノスを交渉して帰還させ、敬意をもって扱い「父」と呼ぶほどの扱いをした他、ヒルカノスが律法上大祭司に復帰できないので、代わりに外国から呼び寄せたアナネロスを据えた事についてヒルカノスの娘であるアレクサンドラたちが不満を抱いていると知ると、アナネロスを解任させてアレクサンドラの息子アリストブロス(3世)を大祭司にした。

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これによって一度は両者の関係は改善したものの、アレクサンドラやマリアムネ達を警戒したヘロデが彼女達も見張らせたこと、さらにアリストブロスが紀元前35年の秋頃、ヘロデの宮殿のプールで溺死したことで両者の中は破局的になり、最終的にヘロデは前政権ハスモン朝の血を引くものをすべて抹殺することになった。

このアレクサンドラとつながりがあったエジプトのクレオパトラとの対立も深刻で、前述のアリストブロス死亡についてクレオパトラ経由でアントニウスに連絡がいき、「この件に関してラオディキアに自分が行くのでそこに来て釈明せよ」と、ヘロデは処刑を覚悟でそこに向かうことになった、このアントニウスへの弁明の留守中にも早くもトラブルが起き、アントニウスの怒りを買ってヘロデが殺されたという誤報が伝わった。

このため、アレクサンドラとマリアムネは彼女たちの世話(監視)を任せされていたヘロデの叔父のヨセフスを言いくるめて近くのローマ軍の陣地に逃亡を図ろうとし、誤報と知って中止したものの逃亡計画はサロメとヘロデの母に発覚しており、サロメは夫のヨセフスがマリアムネと浮気しているとまで告発したためヘロデは両者を問い詰めたところ、ヨセフスに告げた前述のもしもの際の策までマリアムネが知っていたところからヘロデは関係があって密告したと判断し、マリアムネには思いとどまったものの叔父を容赦なく処刑した。

さらに、これと別件でクレオパトラがアントニウスの寵愛を受けたことで中東付近の領地獲得を求めた結果、ユダヤとアラビア地方の一部がエジプト領に加えられることになり、エジプト沿岸部からツロの北のエレウテロス川に至るまでのパレスチナ沿岸部の都市を手に入れた他、ヘロデの領地だった地域のうちエリコはクレオパトラの物にされたなど、ヘロデは一時自分の元に立ち寄ったクレオパトラの暗殺も考えたが友人たちに成功してもアントニウスの怒りを買うだけだと止められてやめたとされる。

だが、最終的にこのクレオパトラの領地となった中東地域の税の徴収を任されたことが、ヘロデにとって幸運につながった。  ・・・・・・・つづく

ヘドロ-15

・・・・・つづく

・・・・・Glory of David (ダビデの栄光)・・・・・

・・・・・カイサリア Caesarea・・・・・

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