ヘロデ王 波瀾万丈の生涯 =4/6=

Ӂ 長期連載:探検的・冒険的行動で世界を視座するフィルドワーク Ӂ

【この企画はナショジオ記載文趣“古代文明・歴史・冒険・探検”にその背景を追記・補講した】

〇●  ヘロデ王(Herod、紀元前73年頃 – 紀元前4年)●〇

共和政ローマ末期からローマ帝国初期にユダヤ王国を統治した王

ヘロデは、真偽は別に様々な逸話が残されている

◇ ヘロデ王 波瀾万丈の生涯 =4/6= ◇

ヘロデ王-7

ヘロディウムの謎を解き明かす

ここ砂漠の端にある丘のふもとヘロディウムでの発掘は、ネツェルの研究者人生と同様、政治と暴力と戦争に振りまわされてきた。エルサレム育ちのネツェルは1948年、イスラエル建国の直前にアラブ勢力が市の東部を占領したとき、自宅を砲弾で破壊された。その後建築を学びはじめ、1950年代には毎夏、考古学調査にも参加していた。建築家として独立後も二足のわらじをはき続け、稼いだ金を発掘作業に注ぎこんだ。人手を雇えないときは学生を駆りだし、機材の運搬には自分のステーションワゴンを使った。

ネツェルとヘロデ王との最初の出会いは、1963年にさかのぼる。マサダの遺跡を発掘する3年間のプロジェクトに建築家として参加したのがきっかけだ。それは死海を望む台地にヘロデが建設した要塞だった。

1967年、第三次中東戦争(六日戦争)でイスラエルがヨルダン川西岸を占領したために、ヘロデ王時代の多くの遺跡をイスラエル人考古学者が調査できることになった。ネツェルは、なかでも遺跡が豊富なエリコやヘロディウムを担当した。「独特の建築デザインや手法が随所に見られるので、これらはすべて同じ人間が考え出したのだと思うようになりました。ヘロデは建築と都市計画に深い素養があり、多くの建築事業で積極的な役割を果たしたと、私は考えています」

私たちは、数時間かけて丘の上をめざした。ヘロディウムは二つの区域に分けられる。丘のふもとと斜面の下部が、庭園都市である下ヘロディウム。ここにはローマ世界でおそらく最大の邸宅群があった。そして丘の頂、上ヘロディウムには、要塞宮殿が鎮座していた。廃墟になって久しいが、そこにはかつて、5階建ての東の塔がそびえていたという。

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下の宮殿に通じる坂道を歩きながら、ネツェルが説明してくれた。「ヘロディウムは斜面に築かれ、複雑な多層構造となっています。そこへさらに時間という第4の次元が加わるので、この遺跡の調査は四次元の巨大なパズルを解いているようなものです」

ネツェルが指さした先に、1972年に発掘が始まった大プールがあった。優美な白い柱廊に囲まれた長方形のプールはレンガ造りで、広さはサッカー場ほどもあるという。ネツェルはパズルのピースを少しずつ集め、個々の建築物について仮説をあれこれ検証しながら、ついにその全容の解明に成功した。

上ヘロディウムと下ヘロディウムの建物は、2本の正確な対称軸で貫かれている。軸の一つは頂上の要塞の中心と、下の宮殿の中心を結ぶ南北の線だ。東の塔と大プールを結ぶもう1本の軸は、南北軸から約30度ずれている。このことから、ヘロディウムは包括的なマスタープランに基づいて建設されたと考えられる。そしてネツェルは、その立案者がおそらくヘロデ自身ではないかと考えている。

 「ヘロディウムは、ヘロデが思い描く理想の都市を表現したものだったのかもしれません。整然と配置された豪華な建物と美しい柱廊、水しぶきのあがる大きなプール。こうした静かで平穏な雰囲気を、ヘロデは強く求めていたのでしょう」

妻と息子たちを殺し、廷臣を拷問にかけ、まともに言葉の出ない精神状態に陥った男から、これほど美しい風景が生まれたのだ。

ヘロディウムの発掘を始めた当時、ネツェルは王墓の探索にはあまり関心がなかった。だが時と共に、なんとしても墓を見つけなくてはという思いが強まった。「私たちは頭を割って、墓のありかを必死で考えました」。ヘブライ語独特の言いまわしで表現して、ネツェルは笑う。

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//////参考資料///////

Ӂ 大建築家・ヘロデ大王(4/6) Ӂ

アラブの王マルコス(1世)もヘロデと同様にクレオパトラに金を支払う必要があったのだが、彼はこれを支払わず、徴収を任されていたヘロデは力ずくでも取り立てる必要が生じてその準備をしていたため、アントニウスとオクタウィアヌスの間で起きる戦い(後のアクティウムの海戦)に参加しなくてよいとアントニウスから言われたのでヘロデはマルコスとの戦いに向かった。

マルコス軍との戦いは途中までは善戦したものの友軍のはずのアテニオン(クレオパトラの部下の将軍)軍の離反で大敗を期してゲリラ戦に持ち込む羽目になったり、ユダヤ地方一帯に大地震が起きて甚大な被害が出るなど悪いことが続いたため、ヘロデ側も和平交渉に出たがマルコスは地震による被害を過信して相手にせずに軍を率いて攻撃に出た。 ところがこの時ヘロデとその軍隊は直接被害を受けていなかったため、これを迎え撃つのに成功した。

しかし、アクティウムの海戦でこれまで味方していたアントニウスが大敗を期したという情報も入り、アントニウス派であることが危険と察したヘロデはアントニウスを見限り、まずアントニウスの配下の剣闘士部隊が援軍としてキュジコスからエジプトに向かおうとしていたのをシリア総督ディディウスとともに阻止し、オクタウィアヌスの元に行く留守中に問題が起きぬように、マルコスとの内通容疑のあったヒルカノスの処刑を行う。

その一方、政治面を弟のフェロラスに任せ、身内の女子供はマサダの要塞で非常時に権力掌握をするように命じ、マリアムネとアレクサンドラは前述の女たちと不仲なので別のアレクサンドレイオンに移して信頼置ける部下に見張らせ旧王家に国を乗っ取られないようにしたうえ、ロドス島に行ってオクタウィアヌスに贈り物を渡し面会した。

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前述のようにヘロデは直接オクタウィアヌス軍と戦うことはなかったが、今までアントニウスに友好的でアントニウス軍に軍資金や補給物資を送ったことや戦わなかった理由はアラブとの戦いの都合だと正直に述べ、なぜそれでアントニウスを見限ったのかに関してはクレオパトラに彼がうつつを抜かして自分の警告を聞かなかったためとし、今度はオクタウィアヌスと友好を結びたいと堂々と主張した所、オクタウィアヌスは事情を察してヘロデの要求のうちアレクサスの助命嘆願以外受け入れてくれ、ヘロデもアントニウスと戦うためにエジプトに行く彼の軍に補給物資を送り、彼個人には800タラントの贈り物をしてもてなした。

結果、オクタウィアヌスはアントニウスに勝利を収めてエジプトを征服後、クレオパトラの衛兵400人を奴隷として送ったうえ、ヘロデがクレオパトラに取られていた領地の他に、かつてポンペイオスがアリストブロス(2世)から没収したガダラ・ピッポス・サマリア・ガザ・アンテドン・ヨッパ・ストラトンの塔もつけてくれ、国内でもヘロデの評価は大きく上がった。 しかし国外からの危険は幸運に転じられたが、彼自身の家庭に関しては悲惨なことが続いた。

ロドスに行く前にマリアムネとその母アレクサンドラについてソアイモスという男に、叔父のヨセフスの時と同じく「ヘロデ死亡時は両者も処刑」という命令を与えていたのだが、今回もこれをマリアムネは知ってヘロデを完全に嫌うようになり、これに彼女と仲が悪いヘロデの母と妹も対立をあおるようになった結果、ヘロデの毒殺未遂事件が起きてマリアムネが犯人とされ、調査の結果ソアイモスへの命令の内容もマリアムネが知っていたことからソアイモスは即刻処刑、マリアムネもその後処刑された。

しかし、ヘロデにとってもこれは痛手でこの後サマリアで病気になり、さらに寝込んでいる最中にアレクサンドラがエルサレムの要塞を乗っ取ろうとしたため彼女も処刑したが、こいったこともあり病気が治ってからも不機嫌でさらに粛清を続け、妹のサロメの夫コストバロス、ならびに自分とコストバロス双方の友人であるリュシマコス、ガディアスと呼ばれたアンティパトロス、ドシオテス。そしてコストバロスにかくまわれてたババスの息子を謀反容疑で処刑し、こうしてヘロデの無法な行為に異議を唱えられるものはいなくなった。 ・・・・・・・つづく

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・・・・・つづく

 

・・・・・カイザリヤから地中海を望む・・・・・

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