ヘロデ王 波瀾万丈の生涯 =6/6=

Ӂ 長期連載:探検的・冒険的行動で世界を視座するフィルドワーク Ӂ

【この企画はナショジオ記載文趣“古代文明・歴史・冒険・探検”にその背景を追記・補講した】

〇●  ヘロデ王(Herod、紀元前73年頃 – 紀元前4年)●〇

共和政ローマ末期からローマ帝国初期にユダヤ王国を統治した王

ヘロデは、真偽は別に様々な逸話が残されている

◇ ヘロデ王 波瀾万丈の生涯 =6/6= ◇

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ネツェルたちは、この大発見を2週間秘密にしていた。「事実をすべて明らかにするまで、公表には踏みきれませんでした。たいへんなニュースになることはわかっていましたから」

その予想は的中した。5月8日の記者会見で発表すると、すぐに政治問題が持ちあがった。エルサレム南部のユダヤ人居住地、グーシュ・エツヨン自治区のシャウル・ゴールドスタイン代表は、イスラエル軍放送のインタビューで、国の宗教史跡に指定すべきだと主張した。

一方、パレスチナ側は、ユダヤ人がこの墓を根拠に領有権の主張を強めるのを警戒して、墓がヘロデ王のものであることに疑問を呈した。また、ヨルダン川西岸にあるヘロディウムの出土品をイスラエル領内に運ぶことに難色を示した。パレスチナのベツレヘム自治区のナビル・ハティブ代表は、米ワシントンポスト紙に「これはパレスチナ文化財の略奪だ」と語った。

死後2000年たった今も、ヘロデは強大な政治力を発揮しているかのようだ。

現代に伝わるヘロデの志

ヘロデが壮大な構想のもとに建設したヘロディウムも、王亡きあとは輝きを失った。ユダヤ王国の繁栄にも陰が差し、子孫は莫大な遺産を浪費するばかりで、宗教的・政治的な調和の維持にも無頓着だった。後を継いだ息子の無能さにしびれを切らしたローマ人は10年後、ユダヤ属州を総督に統治させることにした。

多くのユダヤ人にとって、ローマ人はもはや異教徒の抑圧者でしかなかった。紀元60年代後半に起こった1回目の反乱では、ユダヤ人はヘロディウムとマサダの要塞にたてこもってローマ軍団に果敢に抵抗した。ヘロディウムではヘロデ王の墓を破壊し、豪華な食堂をシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)に変え、中庭にミクヴァという儀式用の沐浴場を二つつくった。

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ヘロディウムのユダヤ人は降伏したが、マサダの戦士たちは最後まで戦いをやめなかった。敗北が避けられないと悟ると、ローマの捕虜になって奴隷にされるよりも、集団自決する道を選んだという。130年代に起きた2回目の反乱でも、二つの要塞は反乱軍の拠点となった。

ヘロデ王が再建したエルサレム神殿と共に、ヘロディウムとマサダは現代イスラエル人にとっても重要な場所だ。理想をかかげて戦った戦士たちの姿に、多くのイスラエル人は中東における自国の立場を重ねあわせる。第一神殿と第二神殿が破壊された史実をしのぶティシャーバブの日には、エルサレムではなくヘロディウムの丘の上で最初の祈りを捧げる者もいる。イスラエル軍将校は、任官時に「マサダを二度と陥落させない!」と誓いの言葉を述べる。

しかし最近では、マサダの集団自決は狂信的で無意味な行動だったと考えるイスラエル人も増えてきている。「やみくもに戦って死ぬよりは、ローマ人と交渉すべきだったとの意見も多い」とネツェルは言う。ローマと手を組んだヘロデの行動は長きにわたって裏切りとされてきたが、そこに経世の志を感じとる人も出てきた。

独立か協調か。純粋な信仰を守るのか、異文化を容認するのか。ヘロデの生涯が突きつける問題は、現代の私たちにも重く切実だ。

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//////参考資料///////

Ӂ 大建築家・ヘロデ大王(6/6) Ӂ

ヘレニズムかぶれをしたヘロデは、神殿の門の上に鷲の紋章を付けて後に撤去するように騒ぎが起きるトラブルの種を起こしたり(後述)、ヘロデの治世下でサンヘドリンは重要性を失った他、自分の判断でちょくちょく大祭司の解任と任命をやっていたなど、ユダヤ教内では律法を重んじるファリサイ派の民衆からよく見られなかった。 また、ハスモン家よりの貴族層に多いサドカイ派の人々とはさらに仲が悪かった。

法律もユダヤの風習と違うものに改編されていき、ヨセフスは一例にユダヤで前例のない「外国の奴隷に売られる罰=押し込み強盗級の罪に適応=」が、売られた先で律法を守りながら生活することができないので「王が犯人を処罰するというより、王が伝統の宗教に挑戦していると受け取られた。」としている。

このようにヘロデのユダヤ教への態度は表面的でヘレニズム文化に傾いていたが、それでも最低限のしきたりには配慮して偶像崇拝のタブーを犯さないように自分の作った貨幣には肖像を入れず(晩年に鷲の紋章入りの硬貨が1種類発見されているのみ)エルサレムでは華麗な建物を建てても彫像は置かないようにしていた他、神殿再建の際にも祭司だけが踏み入れてよい場所には入らないようにしていたというような自重はしていた他、ローマに対するコネを使ってディアスポラのユダヤ人たちの地位や安全の確保を行ってはいた。

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また、これ以外にもヘロデの評価は時折よくなることもあり、例として在位13年目に少なくとも2年続いた大飢饉で、食物を輸入しようにもヘロデ自身都市の建設などで金を使い切っていたので、最終手段として自分の持っている貴金属(食器・装飾品など)を鋳つぶして金に換え、コネがあった当時のエジプトの総督ペトロニオスに頼み込み優先的に穀物の輸出や船の手配をしてもらった。

そして食料品以外に衣類なども配給し、さらに種籾をユダヤだけではなく他のシリアの住民にも渡し、その次の年には凶作が収まった。 これによってヘロデはだいぶ出費をしたが、ヘロデの名声を大きく上げ、それまでの行為を知っていた人々もヘロデが本来は優しい人間ではないかと思うようになったという。

その後、ヘロデは皇帝アウグストゥスに気に入られたことでユダヤの北東部にある、トラコニティス、ガウラニティス、バタナイアを手に入れ、一時に先領主ゼノドロスとその一派がこれに納得がいかずにヘロデのやり方が強硬的だと訴えたが結局不起訴になり、さらに病気がちだったゼノドロスが裁判終了後死亡したのでトラコニティスとガリラヤの間にあったゼノドロスの残りの領地までもがヘロデのものになり、こういったこともあってヘロデはシリアの行政長官の一員になり、弟のフェロラスもテトラルケスにしてもらえるなどの厚遇を受けた。

なお、ヨセフスは何度も「ヘロデは皇帝に気に入られていた」ということを書いてあるが、決してヘロデがローマの同盟領主(rex socius)のなかで特別扱いされていたわけではなく、例として貨幣のうち銀貨以上の鋳造権をヘロデ自身を含む彼の一族は行うことができなかったなど、これ自体は地位相応の恩恵だった。

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・・・・・つづく

・・・・・マカバイ戦争(読本)・・・・・

・・・・・ヘロデ大王(読本)・・・・・

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