補講 / ヘロデ大王の終焉

Ӂ 長期連載:探検的・冒険的行動で世界を視座するフィルドワーク Ӂ

【この企画はナショジオ記載文趣“古代文明・歴史・冒険・探検”にその背景を追記・補講した】

〇●  ヘロデ王(Herod、紀元前73年頃 – 紀元前4年)●〇

共和政ローマ末期からローマ帝国初期にユダヤ王国を統治した王

ヘロデは、真偽は別に様々な逸話が残されている

◇ 補講/大建築家・ヘロデ大王の終焉 ◇

ヘロデ王-13

晩年

ヘロデの最後の9年間は彼の家庭の不和の時代であった。 ヘロデには10人の妻と多数の子供がおり、2番目の妻でハスモン家の王女であるマリアムネとの間に生まれたアレクサンドロスとアリストブロス4世を以前後継者候補としてローマで教育を受けさせていたが、5年間の留学後帰国した彼らはサロメをはじめとするマリアムネと仲が悪かった人々から警戒され中傷を受け、息子たちも息子たちで母を処刑したヘロデをよく思っているわけではなかった。

それでも当初はヘロデは息子たちの縁談を進め、特にアリストブロスには妹であるヘロデの姪ベレニケを妻にするなど一族との融和を図ろうとしたが、次第にヘロデとマリアムネの息子達の不仲は広がり、一計を案じたヘロデは離縁した最初の妻ドリスとその息子アンティパトロス(3世)を呼び、アンティパトロスを王位継承権のライバルとして据えることでアレクサンドロスとアリストブロスにどちらかが必ず王位を継げるわけではないと暗に脅したが、マリアムネの息子たちは不当に扱われていると反目し逆効果になった。

しかしこのアンティパトロスも異母弟達を陥れる策略を練っており、これによってヘロデはさらにマリアムネの息子達への信頼を無くしアンティパトロスを信頼するようになっていた。

ヘドロ-32

そしてついにヘロデはマリアムネの息子達が自分を暗殺しようとたくらんでいると考えるようになり、一度はアウグストゥス、次いでカッパドキア王のアルケラオスの仲裁を受けて和解したものの、再びアンティパトロスの策略やサロメ・ベレニケ母娘とグラフュラの不仲、弟のフェロラスが妻であったヘロデの娘を愚弄する事件が起きるようになるなど一族内の軋轢が激化し、最終的にヘロデは皇帝を言いくるめて自分の手でこれを裁くことを認めさせアレクサンドロスとアリストブロスを彼らをかばう家来たちと共々サマリアで処刑した。

しかし息子たちの処刑後、弟のフェラロスの死の後、ヘロデが調査した所フェラロスが毒薬を持っており、それがアンティパトロスからヘロデに盛るように渡されたものだと知ったヘロデはフェロラスの奴隷達から彼らの内通を知り、信頼していたアンティパトロスが事件の黒幕だったと判断し、ローマから呼び寄せたアンティパトロスを捉え、シリア総督ウァルスの前に引き出して証拠をあげると報告書を皇帝に送った。 そして新しい王位継承者を選ぶ際、息子の中でこれ以前に自分の悪口を言っていたというアルケラオスとフィリッポスを外して最年少のアンティパスを王位継承者に指名した。

こうした心労や病気、さらに高齢で晩年(約70歳)のヘロデは弱っていたが、それでも死ぬ寸前までなお反旗を翻すものを始末する気力はあり、サッフォライオスの子ユダとマルガトロスの子マッティアという2人のラビが民衆を扇動し、偶像崇拝に当たると神殿の門にあったローマのシンボルである鷲のレリーフを破壊する事件が起きた時は彼らを捉えて首謀者達を処刑し、皇帝からのアンティパトロスの処罰許可をもらったあと、以前捉えて牢につないでおいたアンティパトロスが反省の色なく父の死を望むようだと知ると死の5日前であったのに処刑命令を出すほどであった。

ヘドロ-33

この頃(死ぬ数日前)ヘロデは遺言を書き直し、王位継承者を現存する中で最年長のアルケラオスに変え、アンティパスをガリラヤとペレヤの領主、フィリッポスをトラコニティスなど北東部の領主に指名した。 そして紀元前4年ごろ、ヘロデはエリコでその生涯を閉じ、エリコからヘロディオンに8スタディオン葬列が進んでそこに彼は葬られた。

ヘロデの死後喪が明けると、息子のヘロデ・アルケラオスは遺言を理由に王位を継ごうとしたが、ローマ皇帝の元に行く前にユダとマタティア処刑で不満を持っていた民衆たちのデモ隊と兵士たち衝突があり、これを力づくで鎮圧して双方に死傷者多数を出した状況でローマに向かったことと、遺言書き直しで不服を持ったヘロデ・アンティパスと、アルケラオスを嫌っている親族達は後を追いかけローマ皇帝に訴え出て、ヘロデが晩年病気で正確な判断ができなくなっていた可能性があること、

仮にヘロデの遺志がアルケラオスを本当に指名していても、アルケラオスは前述の強引な鎮圧をした残忍さや身勝手な点で王にふさわしくない人間だと主張し、逆にアルケラオス側も遺言状は正式なもので虐殺の件も無法者たちの方が悪いと主張した。

ところが皇帝から審判が下される前に、サマリア地方を除くユダヤ王国ではヘロデ大王をよく思っていなかった勢力が各地で立ち上がり、暴力的な行為に走った者たちは各地で暴動を起こしシリア属州総督ウァロスが出動し鎮圧した、それより穏健な者たちはウァロスの許可を得て皇帝に使者を送り、ローマ帝国の直轄地域としてシリア属州に組み込まれたいと要求してきた。

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また、アルケラオスから留守を預かっていた異母弟のフィリッポスもウァロスに言われてローマに来て自分の権利を主張しだした。これらを踏まえたローマ皇帝は最終的にヘロデの最後の遺言を原則とするがアルケラオスを王としては認めず「エスナルケス(民族の統治者)として認定し、ヘロデの領地の半分の統治者として任命。もしうまくやれるなら正式に王としての称号を与える。」という条件で承認し、残りの領地をフィリッポスとアンティパスに与え、以下のように配分することにした。

  • アルケラオス:イドメヤ、(狭義の)ユダヤ、サマリアとそこの都市の領主。年収は600タラント。
  • アンティパス:ペライア(ペレア)、ガラリヤの領主。年収は200タラント。
  • フィリッポス:バタナイア、トラコン、アウラニティスと以前ゼノドロスが支配してた土地の領主。年収は100タラント。
  • 残りの領地の内、ヤムネイア、アシドト、ファサエリスとアスカロンの王宮(アスカロン自体はアルケラオス領)はヘロデの妹サロメの領地とする。

後にアルケラオスは失政を重ねたため、統治後10年目(紀元後6年ごろ)に住民によってローマに訴えられ、解任されてガリアのビエンナ]へ追放された。その後のユダヤはローマ帝国の直轄領となった。他の領地の内、サロメの領土は本人の死後(紀元後9年から12年の間)に皇后ユリアに遺言で贈与されてこちらもローマ領になっている。

アンティパスとフィリッポスは比較的長い間領主として勤めあげ、フィリッポスは紀元後34年に死去、アンティパスは紀元後37年にローマに対する謀反未遂で追放の刑を受け、最終的にこれらの領地とローマ領編入領地はヘロデ大王の孫のアグリッパ1世が相続している(詳しくはアグリッパ1世の項を参照)。

ヘドロ-35

・・・・・つづく

 

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