エルトゥールル号 120年の記憶 =3/4=

Ӂ 長期連載:探検的・冒険的行動で世界を視座するフィルドワーク Ӂ

【この企画はナショジオ記載文趣“古代文明・歴史・冒険・探検”にその背景を追記・補講した】

〇● 120年前、紀伊半島沖で遭難したトルコの軍艦 ●〇

この遭難事件が日本とトルコの友好の礎となった

地元住民の救助活動を振り返る

◇ エルトゥールル号 120年の記憶 =3/4= ◇

エルトゥールル-5

 事故発生から4日目の9月20日。1隻の艦船が大島港に入港した。沖村長が神戸へ急派していたトルコ人の訴えに協力を申し出たドイツ軍艦ウオルフ号だった。

 トルコ人たちは神戸へ向かい、10月11日に日本の軍艦金剛と比叡で帰路についた。ユーラシア大陸の東から西へ。長い航海の末、再び故国の土を踏んだのはその年の年末のことだ。

 一連の救出記録をもとに追跡するうち、わたしは大島の人たちが69人を救った4日間に注目した。島民の献身的な救護や、沖村長の無駄のない対応は頼もしく感動的ですらある。しかし大混乱の中、なぜ人々はそれほどまで冷静に救助に当たることができたのだろう。

 ふと、わき起った素朴な疑問を永田さんに尋ねてみると、こんな答えが返ってきた。

 「昔から船の遭難が多かったから、救助することが当たり前だったんです」

 そこには博愛や英雄的といった言葉だけでは説明がつかない秘密がありそうだ。4日間の救出劇を可能にしたものとは何だったのか。

江戸時代の難船処理

 資料に当たるうち、『串本町史』に書かれている興味深い事実に行き着いた。江戸時代、串本を中心とする地域では難破船の処理が労役として義務付けられていたという。

 串本町の生涯学習課に相談すると、地元の歴史に詳しい郷土史家を紹介してくれた。

 「大島浦は荷物を運んで江戸と大坂を行き来する千石船(大型廻船)が避難する風待ち、日和待ちの港だったんです」

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    かつて大島港には船員を泊める船宿が立ち並んでいた。その繁栄ぶりは串本節の中にも歌われている。

   大島水谷かかりし船は / お雪見たさの潮がかり

 歌に登場するお雪は船宿などに雇われていていた私娼だった。当時、大島には船頭衆が気に入った遊女を一航海して戻ってくるまで買い切りにした「かね付け」と呼ばれる習わしもあったという。郷土史家は続けた。

 「船宿は廻船乗組員の接待だけではなく、遭難した船員の一切合財まで面倒をみていたわけです」

 『串本町史』によれば、商荷船が難破すると生存者の救出や保護ばかりか、沈んだ荷物の引き揚げ、濡れ荷の保存、競売、別船への積み直しなどで現場は多忙を極めたようだ。

 難船処理費は荷主や廻船問屋が負担したが、通常、現在の損害保険にあたる共同海損でまかなわれた。それが地元を大いに潤した。いわば難船処理がビジネスだったといってもいいだろう。

 大島の商人たちが独自に取り決めたえびす講定めも、そのことを裏付けている。

  • 難船が入った場合、どのような荷物でも陸上で預かってはならない」(『串本町史』)

 陸上での荷物のやりとりは盗難や不正取引につながる恐れがあった。難船から得る富を公平に分配するために定められたものだ。えびす講とは本来、漁師だけで構成される組合だが、大島の場合、海に出ない寺子屋の師匠や医師までが名を連ねていたという。

 「ただし紀州藩の御用船が遭難した場合は別です。処理費用は各地の石高に応じて負担させられました」

 難船処理は地元の経済を支えたばかりか、労役として税負担の一部ともなっていたのだ。 海と人との関わり。伝説や祭りなど現代に伝わる民俗の中に、当時の面影を見つけられないだろうか。わたしは生涯学習課から、大島で今なお続く祭りがあることを教えられた。

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//////参考資料///////

Ӂ 参考資料・エルトゥールル号遭難事件(3/4) Ӂ

遭難事件後の日土関係

エルトゥールルの遭難はオスマン帝国内に大きな衝撃を呼んだが、アブデュルハミト2世のもとでは人災としての側面は覆い隠され、天災による殉難と位置付けられ、新聞で大きく報道されるとともに、遺族への弔慰金が集められた。またこのとき新聞を通じて大島村民による救助活動や、日本政府の尽力が伝えられ、当時オスマン帝国の人々は、遠い異国である日本と日本人に対して、好印象を抱いたといわれている。

山田寅次郎

茶道宗徧流の跡取り、山田寅次郎もこの事件に衝撃を受けた日本人のひとりであった。彼は日本国内で民間から『エルトゥールル号事件の犠牲者の遺族に対する義捐金』を集めるキャンペーンを行い、事件の翌々年に、集まった義捐金を携えて自らオスマン帝国の首都・イスタンブールに渡った。

山田が民間人ながら義捐金を持ってやってきたことが知られるや、彼は熱烈な歓迎を受け、皇帝アブデュルハミト2世に拝謁する機会にすら恵まれた。このとき、皇帝の要請でトルコに留まることを決意した山田は、イスタンブールに貿易商店を開き、士官学校で少壮の士官に日本語や日本のことを教え、政府の高官のイスタンブール訪問を手引きするなど、日土国交が樹立されない中で官民の交流に尽力した。彼が士官学校で教鞭をとった際、その教えを受けた生徒の中には、後にトルコ共和国の初代大統領となったムスタファ・ケマルもいたとされる。

山田がイスタンブール滞在中に起こった日露戦争が日本の勝利に帰すと、長らくロシア帝国から圧力を受け続け、同様にロシアの南下圧力にさらされる日本に対して、親近感を高めていたオスマン帝国の人々は、東の小国日本の快挙としてこれに熱狂した。日本海海戦時の連合艦隊司令長官であった東郷平八郎提督にちなんで、トーゴーという名を子供につけることが流行したという。

公的記憶

エルトゥールル号遭難事件は、日土友好関係の起点として記憶されることになった。トルコ人が公的な場で日土友好の歴史について語るとき、エルトゥールル号遭難事件が持ち出されることがあった。日本においては、遭難現場近くの串本町以外ではあまり記憶されておらず、公的な場で語られることもまれであった。近年は、まれに教科書や副読本で取り上げられることもある。

2012年2月から3月にかけて日本の外務省がトルコの民間会社に委託して行った調査によると、トルコでエルトゥールルの遭難事件を「知っている」と回答したのは29.9%だった。同じ調査で、近年の日本の経済協力案件である第2ボスポラス大橋は44.9%、マルマライ計画は52.5%だった。

事件から125年となった2015年、トルコ海軍の軍艦が下関・串本・東京の3港を訪れ、串本町で行われた追悼式典に参加した。

難破船-12

・・・・・つづく

・・・・・ 殉教者エルトゥールルへの忠誠 (Ertuğrul Şehitlerine Vefa ) ・・・・・

・・・・・トルコ・エルトゥールル号の恩返し・・・・・

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