エルトゥールル号 120年の記憶 =4/4=

Ӂ 長期連載:探検的・冒険的行動で世界を視座するフィルドワーク Ӂ

【この企画はナショジオ記載文趣“古代文明・歴史・冒険・探検”にその背景を追記・補講した】

〇● 120年前、紀伊半島沖で遭難したトルコの軍艦 ●〇

この遭難事件が日本とトルコの友好の礎となった

地元住民の救助活動を振り返る

◇ エルトゥールル号 120年の記憶 =4/4= ◇

エルトゥールル-7

 海と人との関わり。伝説や祭りなど現代に伝わる民俗の中に、当時の面影を見つけられないだろうか。わたしは生涯学習課から、大島で今なお続く祭りがあることを教えられた。

 大島地区にある水門(みなと)神社では毎年2月11日、水門祭りと呼ばれる例祭が行われる。祭典ではつると呼ばれる舞台に役者が立つ。役はくじ引きで決められるのだが、その方法は海で遭難者が神に針路伺いを立てるときのみくじと同じだという。

 どのようなものだろう。話を聞くために水門神社へと出かけることにした。石段を上っていくと、ちょうど宮司と地域の人たちが祭儀を終えたところだった。わたしは宮司に水門祭りのくじ引きについて尋ねた。

 「米が入った枡(ます)を三方に載せて、候補者の名前を一つずつ書いた美濃紙(みのがみ)を丸めて置きます。祝詞奏上(のりとそうじょう)の後、筆で紙をくっつける。それで役を立てるのです」

 これと同じような所作が『日本人漂流記』(川合彦充著)に書かれている。江戸時代、海上で遭難した船頭は進むべき針路や日数をみくじで占った。枡に米を入れ、方角などを書いた紙を丸めて置く。御幣(ごへい)をかざして一つを選び、運命を託したのだという。

 大島に伝わる祭りになぜ遭難者のみくじが採用されたのだろうか。来歴はわからない。しかしこの土地が遭難者と深く関わってきたことを今に伝えるひとつの確かな証だ。

 歴史をひも解けば、大島で救助された遭難者は数知れない。エルトゥールル号の69人はほんの一部にすぎないことがわかる。そのような背景を追跡してみると、大島の人たちがエルトゥールル号の遭難者救出に、ずば抜けた手腕を発揮することができた秘密の核心に迫ることができる。彼らにとって難船処理は先祖代々から続く伝統であり、大島では海で生きることそのものだったのだ。

難破船-14

語り継がれる記憶

 沖村長のひ孫にあたる田嶋一枝さんを串本の自宅に訪ねてみた。色褪せた白黒写真でふくらんだ古いアルバムを開きながら、田嶋さんは子どもの頃の思い出話を聞かせてくれた。

 「五つぐらいのときね、大島にある祖母の家によく遊びに行きました。床の間に木彫りの像が置いてあって、手にとって遊んだら怒られたことを覚えています」

 田嶋さんが遠い昔の事故のことを知ったのは木像がきっかけだった。

 「沖周はトルコ人の看病のために自宅も提供しました。蚕を飼うための広い部屋があり、板を敷いて負傷者を寝かせました。木像はそのときのお礼にトルコ人からもらったものですよ。軍艦に祭られていた船霊(ふなだま)さま(航海の神)だったそうです」

 残念なことに木像はすでに失われてしまったという。それでもトルコ人たちが最後に自分たちの船霊を村長に手渡したのには深い意味があるように思える。それは感謝の気持ちばかりではなく、多くの同僚を失った南紀の海への畏敬であり、その海で生きてきた日本人へのオマージュだったに違いない。

 エルトゥールル号の遭難事故は単に異国の遭難者を救ったという歴史だけでは語れないものがある。わたしは大島の海で暮らしてきた名もなき先人たちや、失われつつある伝統に思いをはせた。

 大島地区にはトルコ人たちが島を離れる直前まで過ごした蓮生寺が今も残っている。一番山の急斜面にある参道を通り楼門をくぐると、本堂にたどり着いた。数十人もの大きな体の男たちが保護されたというが、実際には狭くて十分だったとはいえなかったことがわかる。

 遭難者たちはここで何を思ったのだろう。楼門の外に出ると、眼下に海が見下ろせた。水面は穏やかで静かだ。強風や高波が避けられる港にやって来て、彼らの心もようやく凪(な)いだのではないか。そして遠い故国への思いを募らせたのではないか。

 わたしはじっと海を望んだ。港には時折、船が出入りをしている。沖合を眺めると筏のように浮かぶ足場が築かれ、クロマグロやマダイの養殖が行われていた。そこには今もなお、海に生きる人の姿があった。

難破船-15

//////参考資料///////

Ӂ 参考資料・エルトゥールル号遭難事件(4/4) Ӂ

イラン・イラク戦争

1985年のイラン・イラク戦争で、イラクのサダム・フセインは、イラン上空の航空機に対する期限を定めた無差別攻撃宣言を行った。各国は期限までにイラン在住の国民をメヘラーバード国際空港から軍用機や旅客機で救出したものの、日本国政府は自衛隊の海外派遣不可の原則のために、航空自衛隊機による救援ができなかった。さらに、当時日本で唯一国際線を運航していた日本航空は「イランとイラクによる航行安全の保証がされない限り臨時便は出さない」とし、在イラン邦人はイランから脱出できない状況に陥った。

野村豊イラン駐在特命全権大使が、トルコのビルレル駐在特命全権大使に窮状を訴えたところ、ビルレルは「わかりました。ただちに本国に求め、救援機を派遣させましょう。トルコ人なら誰もが、エルトゥールルの遭難の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょうとも」と答えた[16]。ビルレルの要請を受けたトルコ航空は、自国民救援のための旅客機を2機に増やし、オルハン・スヨルジュ機長らがフライトを志願。215名の日本人はこれに分乗し、全員トルコアタテュルク国際空港経由で無事に日本へ帰国できた。

この逸話は、2002 FIFAワールドカップでのサッカートルコ代表チームの活躍を機に、テレビ番組や雑誌で取り上げられた。2004年には、これを紹介した児童書が小学生高学年向けの読書感想文コンクール課題図書になった。2006年、日本政府は、イランで救出に当たったトルコ人のパイロット客室乗務員など13人に勲章を授与し、感謝の気持ちを送った。

2007年10月28日、同時期に開催されたエルトゥールル号回顧展に併せて、東京都三鷹市の中近東文化センターでこの事件に関するシンポジウムが、当該トルコ航空機の元機長、元客室乗務員、野村元駐イラン日本国特命全権大使、森永元伊藤忠商事イスタンブール支店長、毛利悟元東京銀行テヘラン駐在員ら当時の関係者出席の上で開催された。

2015年、映画『海難1890』の公開を記念して、ターキッシュ エアラインズは日本乗り入れに使用されている同社のエアバスA330型機に、当時のデザインを復元した特別塗装を施した。

難破船-16

・・・・・つづく

・・・・・ 100年越しの恩返し トルコのエルトゥールル号遭難事件 ・・・・・

・・・・・エルトゥールル号遭難事件・・・・・

-/-/-/-/-/-/-/-/-

前節へ移行 ;https://thubokou.wordpress.com/2019/07/15/

後節へ移動 ;https://thubokou.wordpress.com/2019/07/17/

 ※ 下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます  ⇒ ウィキペテ ゙ィア=に移行
*当該地図・地形図を参照下さい

  

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】 http://bogoda.jugem.jp/

【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】 http://blog.goo.ne.jp/bothukemon

コメントを残す