ネアンデルタール人・絶滅の謎 =2/5=

Ӂ 長期連載:探検的・冒険的行動で世界を視座するフィルドワーク Ӂ

【この企画はナショジオ記載文趣“古代文明・歴史・冒険・探検”にその背景を追記・補講した】

〇● 現生人類と共存していた時代、ネアンデルタール人の身に何が起きたのか ●〇

なぜ彼らだけが滅びたのか

そのヒントはDNAと歯に隠されていた

◇ ネアンデルタール人 その絶滅の謎 =2/5= ◇

ネアンデルタール-3

  低いドーム状の頭骨に収まった彼らの脳は、私たちの脳の平均をわずかながら上回る大きさだ。道具や武器は、欧州に住みついた現生人類のものと比べると原始的だったが、その頃アフリカや中東にいた現生人類の技術レベルには決して劣らなかった。

 ネアンデルタール人と現生人類の遺伝的な関係をめぐっては、ずっと激しい議論が繰り広げられてきた。約6万年前にアフリカを出始めた現生人類には、ネアンデルタール人との間で種を越えた血の交わりがあったのか。1997年、当時ミュンヘン大学にいた遺伝学者スバンテ・ペーボ(現在はドイツ・ライプチヒのマックス・プランク研究所所属)が、混血説に大打撃を与える研究結果を発表した。

 ペーボらは、ネアンデル渓谷で発見された腕の骨からミトコンドリアDNA(細胞内のミトコンドリアに含まれるDNAで、進化の系統を調べるのによく使われる)の断片を抽出した。その378個の塩基の配列を解読し、現生人類と比較した結果、両者の分岐した時期は、現生人類がアフリカを出るよりもはるか前だったことがわかった。共通の祖先から枝分かれした後、異なる地域で、別々に進化を遂げたと考えられる。

 

 ペーボらの解析で、ネアンデルタール人が現生人類と別種であることが裏づけられたようにも思えるが、なぜネアンデルタール人だけが滅びてしまったのかは、依然として謎のままだ。

 よく言われるのは、現生人類のほうが賢く、高度な技術をもっていたから生き残れた、というものだ。最近までは、4万年前頃に欧州で脳の発達上の“大躍進”が起きたと考えられていた。ネアンデルタール人の石器文化は、南仏のル・ムスティエ遺跡で発見されたことから「ムスティエ文化」と呼ばれるが、石器の種類が限られている。だが、4万年前あたりを境にこの文化は消え、より多様な石器や骨器、装飾品など、現生人類の登場を物語る、象徴的な思考に基づく表現の痕跡が認められるようになった。脳の遺伝子に起きた大きな変化(言語能力の発達に関連すると考えられる)によって、初期の現生人類が勢力を広げ、ネアンデルタール人を衰退に追いやったと主張する人類学者もいる。

 だが、考古学的な証拠を見ると、それほど単純ではなさそうだ。1979年にフランス南西部のサン・セゼールでネアンデルタール人の骨格が発見されたが、そのまわりには、典型的なムスティエ文化の石器だけでなく、驚くほど高度な道具類が埋まっていた。1996年には、フランスのアルシー・シュル・キュール洞窟群に近い別の洞窟で、マックス・プランク研究所のジャン=ジャック・ユブランらがネアンデルタール人の骨を発見。同じ地層からは、動物の歯に穴を開けたものや象牙の指輪など、それまで現生人類に特有とみられていた、高度な加工を施した装飾品が出土した。

ネアンデ-6

 英国の古人類学者ポール・メラーズのように、こうした遺物が発見されたことは「あり得ないような偶然」にすぎないとみる向きもある。滅びる直前のネアンデルタール人が、アフリカから来た新参者、つまり現生人類の装飾品などをまねしただけだというのだ。

 しかしその後、新たな証拠が見つかった。フランスのペシュ・ド・ラゼ洞窟で、クレヨンに似た二酸化マンガンの塊が何百個も出土したのだ。この洞窟には、現生人類の欧州進出よりもずっと前に、ネアンデルタール人が暮らしていたことがわかっている。分析したボルドー大学のフランチェスコ・デリコらの考えでは、これらの塊はネアンデルタール人が体に装飾を施すのに使った黒い顔料で、彼らが象徴的な思考の能力を独自に獲得していた証拠だという。

 ネアンデルタール人から現生人類への移行期には、両者の「基本的な行動は似たようなもので、違いはあったとしてもわずか」だっただろうと、米国ワシントン大学の古人類学者エリック・トリンカウスは話す。トリンカウスは、ネアンデルタール人と現生人類の混血もあったと考えている。ルーマニアのムイエリイ洞窟で出土した3万2000年前の頭骨など、一部の化石骨には、両者の特徴が認められるというのだ。「当時はあたりを見わたしても、人影はほとんどなかった。その状況でなんとかして相手を見つけ、子孫を残す必要があったのです」

 混血があったとしても、それほど頻繁ではなく、はっきりした痕跡を残すにはいたらなかったと、ほかの研究者はみている。マックス・プランク研究所のカテリーナ・ハルバティは、ネアンデルタール人と初期の現生人類の化石骨を3次元形状計測法で詳しく解析し、混血の骨がどんな形になるかを予測した。今のところ、この形に合致する化石骨は見つかっていない。

 ネアンデルタール人研究ではこのように、権威ある古人類学者たちが同じ骨を調べて、互いに矛盾する解釈をすることは決して珍しくない。解剖学的な研究は今後も続くだろうが、一方で新たな角度から、ネアンデルタール人を現代によみがえらせる研究も進んでいる。

ネアンデ-7

//////参考資料///////

Ӂ 補講・ネアンデルタール人(Neanderthal) 2/7 Ӂ

ネアンデルタール人類の発見

最初に発見されたネアンデルタール人類の化石は、1892年にベルギーのアンジスで発見された子供の頭骨である。1848年にはスペイン南端のジブラルタルからも女性頭骨が見つかっている。しかしこれらの古人骨が発見された当時は、その正体はわからないままであった。

最初に科学的研究の対象となったネアンデルタール人類の化石が見つかったのは1856年で、場所はドイツのデュッセルドルフ郊外のネアンデル谷 (Neanderthal) にあったフェルトホッファー洞窟であった。これは石灰岩の採掘作業中に作業員によって取り出されたもので、作業員たちは熊の骨かと考えたが念のため、地元のギムナジウムで教員を務めていたヨハン・カール・フールロットの元に届けられた。

フールロットは母校であるボン大学で解剖学を教えていたヘルマン・シャーフハウゼンと連絡を取り、共同でこの骨を研究。1857年に両者はこの骨を、ケルト人以前のヨーロッパの住人のものとする研究結果を公表した。ちなみにこの化石は顔面や四肢遠位部等は欠けていたが保存状態は良好であり、低い脳頭骨や発達した眼窩上隆起などの原始的特徴が見て取れるものである。

ウィルヒョーらによる批判と進化論の登場

フールロットとシャーフハウゼンによる研究は多くの批判に晒された。ボン大学のオーギュスト・マイヤーはカルシュウム不足のコサック兵の骨ではないかと主張し、病理学の世界的権威であったベルリン大学のルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョーもくる病や痛風にかかって変形した現代人の老人の骨格と主張した。

しかし1858」年から1859年にかけて、アルフレッド・ラッセル・ウォレスチャールズ・ダーウィンが進化論を発表すると、問題の古人骨も進化論の視点から再検討された。1861年にはフールロットとシャーフハウゼンによる論文が英訳され、1863年にはトマス・ヘンリー・ハクスリーが自著においてこの古人骨を類人猿とホモ・サピエンスの中間に位置づける議論を行った。1864年にはゴールウェイのクイーンズカレッジ(現在のアイルランド国立大学ゴールウェイ校)で地質学を教えていたウィリアム・キングがこの古人骨に「ホモ・ネアンデルターレンシス (Homo neanderthalensis)」 の学名を与えた。

ネアンデ-8

・・・・・つづく

 

・・・・・ 人類のルーツへの旅② ヒト属ホモ・ハビリス・・・・・

-/-/-/-/-/-/-/-/-

前節へ移行 ;https://thubokou.wordpress.com/2019/07/20/

後節へ移動 ;https://thubokou.wordpress.com/2019/07/22/

 ※ 下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます  ⇒ ウィキペテ ゙ィア=に移行
*当該地図・地形図を参照下さい

  

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】 http://bogoda.jugem.jp/

【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】 http://blog.goo.ne.jp/bothukemon