巨石遺跡ストーンヘンジの謎 =2/5=

Ӂ 長期連載:探検的・冒険的行動で世界を視座するフィルドワーク Ӂ

【この企画はナショジオ記載文趣“古代文明・歴史・冒険・探検”にその背景を追記・補講した】

〇● 4500年前、英国イングランドで造られた巨石遺跡ストーンヘンジ ●〇

周辺での調査により

真実に迫る重要な手がかりが見つかった

◇ 探訪 世界遺産ストーンヘンジの謎 =2/5= ◇

ストーンヘンジ-3

多彩な古代建造物(2)

    ストーンヘンジができたころ、ブリトン人の遺骨には虫歯が少ないことから、糖分を含む炭水化物の摂取量が少なかったことがわかる。平均寿命の推定は難しいものの、彼らは概して健康に生きていたようだ。

 だが今も昔も、人生には予期せぬ災厄がつきものだ。英国セントラル・ランカシャー大学で、法医学および科学捜査の講師を務めるマイケル・ワイソッキがこんな話を聞かせてくれた。「鈍器で殴られたような跡のある頭蓋骨が、全体の5~6%も見つかっています。男女ともその割合は同じです」。儀式などでいけにえにされたのか、単に暴力的な行為がはびこる時代だったのか。傷の原因については想像するしかない。

 近年になって、まったくの偶然から、特定の個人の生涯をかいま見せてくれるような重要な手がかりが発見された。2002年、ストーンヘンジの南東4キロの場所で、紀元前2500~紀元前2300年の2基の墓が発掘されたのだ。エーボン川東岸のボスコム・ダウンに埋葬されていたのは、年齢35~45歳の男性と、その息子の可能性もある親族の若者だった。年かさの男性は片脚の損傷が激しく、おそらく歩くのもままならなかったはずだ。

 男性の墓からは、多くの副葬品も見つかった。金の髪飾りに銅製のナイフ、火起こしの道具、石を磨いて作った射手の腕輪、金属加工の台座にする石など、英国で発掘された同時代のものでは、もっとも豪華な副葬品だ。広口で独特な形をしたビーカー式土器は、当時のヨーロッパ大陸ではよく使われていたようだが、ブリテン諸島で見つかるのは珍しい。研究者たちはこの男性に「エームズベリーの射手」という呼び名をつけた。

 さらに、二人の歯のエナメル質を分析すると、驚くべき事実が判明した。若者は地元ウェセックス地方の出身だが、エームズベリーの射手はアルプス山脈のふもと、現在のスイスとドイツにまたがる地域の生まれだったのだ。

 ストーンヘンジ-6

 古代の墓に眠っていた揺るぎない証拠から、この二人の人生が浮かびあがってきた。エームズベリーの射手は、ヨーロッパから移住してきた。優れた金属加工の腕をもつ職人で、最先端の土器を携えてブリテン諸島に渡った彼は、ウェセックスで成功を収めた。富と社会的な地位を手に入れ、家族と幸せに暮らしていたのだろう。

 この裕福な男性と若者の墓が発見されてから1年後、500メートルと離れていない建設現場で、ほぼ同時代の墓所が見つかった。パイプを敷設していた作業員が偶然掘りあてたその墓には、親族同士とみられる7人の遺骨があった。少なくとも4人は男性で、エームズベリーの射手と同様、地元の生まれではなかった。ウェセックス考古学会のアンドリュー・フィッツパトリックは、そのうち成人3人の小臼歯と臼歯を分析した。「彼らはともに6歳まで同じ土地で育った後、移住して別の土地で13歳まで過ごしたことがわかりました」

 幼少期を過ごした地域の候補は、グレートブリテン島北西部、ウェールズ、またはブルターニュ半島と広範囲にわたるが、フィッツパトリックはこう強調する。「重視すべきは彼らの出身地ではなく、この時代の人々が、長距離を旅していたという事実です。先史時代のヨーロッパで人々の移動があったことを、この遺骨は如実に物語っています」

 古代ヨーロッパの移民たちはストーンヘンジを見たり、建造に手を貸していただろうか。まったくありえない話でもない。

 最近の調査から、ストーンヘンジを利用していたことが確かな共同体について、数々の驚くべき成果が新たに見つかっている。「ストーンヘンジ・リバーサイド・プロジェクト」は、ナショナル ジオグラフィック協会の支援を受けて2003年に始まった調査だ。英国シェフィールド大学のマイク・パーカー・ピアソンを含む6人のチームリーダーの指揮のもとで、ストーンヘンジ一帯の発掘作業を進めている。特に力を入れているのが、直径約450メートルもある巨大なヘンジ、ダーリントン・ウォールズの調査だ。

 ストーンヘンジから3キロ北東に位置するダーリントン・ウォールズは、1812年には早くもその存在が知られ、1960年代にも発掘が行われていた。巨大なヘンジの内側と周囲には、木造の環状構造物が三つあり、柱穴の跡が残っている。そのうちノーザンサークルとサザンサークルはヘンジの内側にあり、後の時代に造られたウッドヘンジは外側にある。「構造物の内部は、何本もの柱や仕切りで目隠しされていたようです。秘密の場所だったのでしょう」と、英国ブラッドフォード大学で木造の環状建造物を専門に研究しているアレックス・ギブソンが説明してくれた。

ストーンヘンジ-7

//////参考資料///////

Ӂ 参考資料・ストーンヘンジ(Stonehenge) 2/8 Ӂ

=ストーンヘンジの発展=

ストーンヘンジの複合体は2000年間に渡る数段階に分けて建設されたが、その前と後の期間にも活動があった証拠もある。

ストーンヘンジで行われた活動の各段階の時代や内容を特定するのは、単純ではない。初期の発掘記録はほとんど残っておらず、正確な科学的時代計測は驚くほど少ないうえ、天然チョークの氷河周縁作用や動物の巣穴形成で妨げられ、複雑になっているのだ。今日の段階で考古学者が最も広く支持している説を以下に詳述する。テキストで述べる箇所には番号が振ってあり、図中の番号と対応している。

図は2004年現在のストーンヘンジを示している。分かり易いよう、図からはトリリトンの横石は省略している。既に石が現存しない(または始めから入っていなかった)穴は白抜きの囲み、今日確認できる石は色付きで示してある。

遺跡建設以前

考古学者は、現代の観光客用駐車場の下から、紀元前8000年頃に遡る4つの中石器時代の大きな柱穴を発見した(天然木に由来するかもしれない一つを含めて5つかもしれない)。これらは直径0.75メートルの松の柱を立てたものである。柱はその場で朽ちた。柱のうち3本(もしかしたら4本)は東西方向に並んでおり、儀礼場としての重要性を持っていたと思われる。

ブリテンではこれに並ぶものは無いが、類似の遺跡がスカンジナビアで見つかっている。当時、ソールズベリー平原は森に覆われていたが、4000年後の新石器時代にはカーサスの遺跡が600m北に建てられた。最初の農業によって森を開拓し始め、土地の利用が始まった。

この他の新石器時代初期の遺跡である、ロビンフッド・ボールの土手道が付いた囲いや長い墳墓はこの周辺に建てられた。遺跡のある丘には現在では「アヴェニュー」と呼ばれる、氷河期の終わりに水が流れ出して作った溝が偶然冬至の日の入りと夏至の日の出の方角を指していた。

 ストーンヘンジ-8

・・・・・つづく

 

・・・・・ストーンヘンジ (Ⅴ)・・・・・

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