巨石遺跡ストーンヘンジの謎 =3/5=

Ӂ 長期連載:探検的・冒険的行動で世界を視座するフィルドワーク Ӂ

【この企画はナショジオ記載文趣“古代文明・歴史・冒険・探検”にその背景を追記・補講した】

〇● 4500年前、英国イングランドで造られた巨石遺跡ストーンヘンジ ●〇

周辺での調査により

真実に迫る重要な手がかりが見つかった

◇ 探訪 世界遺産ストーンヘンジの謎 =3/5= ◇

ストーンヘンジ-5

広大な住居跡の発見(1)

 ダーリントン・ウォールズでは最近、ヘンジの土塁の内側から、見上げるように高く、溝と柵で囲われた二つの構造物が発掘された。ヘンジ全体を監督する高官の住居か、宗教的な儀式の場だったと考えられる。ヘンジの外側にある土手からは、紀元前2600~紀元前2500年ごろのものと見られる7軒の小さな住居の跡が見つかった。家の前からは、燧石(フリントとも呼ばれる硬質の堆積岩)を敷きつめた幅30メートルの道がエーボン川まで延びていた。

 パーカー・ピアソンは、住居跡の一つに足を踏み入れ、床の中央を指差した。石膏でできた床には、楕円形の炉床が切られている。「周りにあるのは、おそらく、炉を囲んだ人々が残した、かかとかお尻の跡でしょう」と、実際にしゃがんでみせてくれた。家の片側には、料理をした痕跡が残っている。木製のベッドの跡など、5軒の家からは家具を使っていた証拠も見つかった。さらに、地球物理学的な調査や試掘調査によって、炉床とみられる多数の痕跡がこの一帯から見つかった。「住居の数は、300軒はあったようです」と、パーカー・ピアソンは言う。

 マダガスカルで現地調査をしたことのあるパーカー・ピアソンは、その経験をもとに、ダーリントン・ウォールズについて大胆な仮説を立てた。それはストーンヘンジの謎に対する、彼なりの“答え”でもある。

 マダガスカルの文化では、石のモニュメントを造って祖先をまつる。肉体が死んだ後に残る硬い骨と死者を永遠にしのぶ思いを石が象徴し、反対に、時間の経過とともに朽ちていく木は、はかない命を表しているというのだ。「硬い石は祖先と男性を、軟らかい木は女性と赤ん坊を象徴しているのです」と、パーカー・ピアソンは話す。

 このような関係が、石で造られたストーンヘンジと木で造られたダーリントン・ウォールズにも当てはまるのではないかと、彼は考える。二つの遺跡からはそれぞれ、エーボン川へと続く「アベニュー」と呼ばれる道が延びているが、ダーリントン・ウォールズのアベニューの長さはわずか167メートルしかない。これに対し、ストーンヘンジのほうは3キロ近くもあり、両側に溝と土手を配したアベニューは、祖先をまつる宗教的な儀式の行列にふさわしいものだった。

 ストーンヘンジ-10

 パーカー・ピアソンは、ストーンヘンジとダーリントン・ウォールズの対照性にも注目している。ストーンヘンジの石は、夏至の日の出と冬至の日没の方向に合わせて配列されているが、ダーリントン・ウォールズのサザンサークルは、冬至の日の出の方向と一致する。また、ストーンヘンジでは土器類がわずかに見つかっているだけなのに対して、ダーリントン・ウォールズでは土器のほか、人々が食べたとみられるブタなどの動物の骨が大量に出土している。宴が頻繁に開かれていたのだろう。

さらに、ストーンヘンジには52体の火葬人骨をはじめ、240人の遺骨が埋葬されていたが、ダーリントン・ウォールズでは人骨はほとんど出土していない。

 パーカー・ピアソンの新説に従うならば、ストーンヘンジは亡くなった祖先をまつる場所、ダーリントンは生者のための場所である。人々は季節ごとに、アベニューと川をたどって二つの場所を行き来した。ほとんどの死者は火葬に付され、灰は川に流されたが、身分の高い者だけ、死後ストーンヘンジにまつられた。英国の考古学専門誌「ブリティッシュ・アーキオロジー」の編集者マイク・ピッツも、「この説には多くの専門家がおおむね賛成でしょう」と語る。

 ただ、細部には問題が残っている。ストーンヘンジへの死者の埋葬は、石器時代以前には一般的だったというのが、研究者の一致した見解だが、パーカー・ピアソンは、石器時代にも埋葬が続いていたと主張する。しかし、ストーンヘンジ周辺からは、耕作や放牧といった生者の営みの証拠が数多く見つかっている。

そんな場所で死者のための儀式を大々的に行っていたとは考えにくいし、サーセン石がストーンヘンジに初めて運ばれた時期についても、意見が分かれている。エーボン川に続くアベニューは、ストーンヘンジとダーリントン・ウォールズを結ぶ重要な要素だが、造られた年代についてはさらなる裏づけが必要だ。

 ストーンヘンジ-11

//////参考資料///////

Ӂ 参考資料・ストーンヘンジ(Stonehenge) 3/8 Ӂ

=ストーンヘンジの発展= / ストーンヘンジ(1)

最初の遺跡は後期白亜紀サントニアン期のSeafordチョークを使った円形の土塁と堀の囲い (7, 8) でできていた。直径110mで北東に大きい入り口があり、南に小さい入り口 (14) がある。それはわずかに傾斜しているがしかし特に目立たない開けた草地に建てられた。作業者は鹿と牛の骨、そして加工した火打ち石の工具を堀の底に置いた。その骨は堀を掘るために用いた角のつるはしよりも相当に古いもので、それを埋めた人はそれを埋める前にその動物の世話をしていた。

堀そのものは連続的だが、より古い土手道で作った囲いの堀のように、いくつかの部分に分けて掘られた。堀から掘り出したチョークは積み上げて土塁を作るのに使われた。この第一段階は紀元前3100年頃であるが、その後堀は自然に埋まっていき、作業者は堀を埋めた泥を取り除くことはしなかった。囲まれた区域の内側には、それぞれ直径約1mの56個の竪穴 (13) が円環状に掘られた。

この穴は、これらを初めて発見したと考えられている17世紀の古美術商ジョン・オーブリーにちなんでオーブリーホールと呼ばれている。この竪穴は、柱の円陣を作る丸太の柱を立てるためのものと考えられるが、その証拠は発掘されていない。堀の外側にある小さい土塁も、この時期のものと考えられる。

ストーンヘンジ(2)

第二段階の証拠は、もはや目で見ることはできない。この時期に作られた柱穴の数から、紀元前第三千年期の初期にある種の木造の建造物が囲いの内側に作られたと考えられる。さらに多くの数の丸太が北東の入り口に立てられ、南の入り口から内側に向かって平行の柱の列が並んでいた。柱穴はオーブリーホールよりも小さく直径約0.4mで、間隔はオーブリーホールよりもやや不規則であった。

土塁は意図的に高さを削られ、堀は埋められた。少なくとも25のオーブリーホールが、貫入岩やその遺構の開設から2世紀後頃の火葬死体を入れられたことが知られている。その穴の本来の機能が何であれ、第二段階には埋葬のための穴に変わっていたらしい。このほかにも30個の火葬死体が堀の囲いの内側の、遺構の反対側である主に東半分に安置された。

したがって、ストーンヘンジは、この時点で環濠墓地として機能していたと解釈される。これがブリテン島で最初の火葬墓地である。燃やされていない人骨の破片も、堀の中から見つかっている。後期新石器時代の溝のある土器が発見され、この段階の特徴により時期を特定する証拠となった。

 ストーンヘンジ-12

・・・・・つづく

 

・・・・・ストーンヘンジ (Ⅳ)・・・・・

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