探検家・冒険家 =16-①=

= 化石ハンター / メアリー・アニングの情熱 =

~ 最先端をいく学者たちと渡り合い、不屈の精神で化石発掘に人生を捧げる ~

アニング-0-

◆◆◆ 化石ハンター誕生 ◆◆◆

もろく崩れやすい崖の断面から覗く巨大な眼窩、くちばしの様な細長い口にびっしり並んだ歯。 かつて誰も見た事もない不思議な生き物の頭部が、少女と兄の目の前にあった。

4フィート(約1・219メートル)もある頭骨を慎重に岩場から掘り出した2人は、化石を土産物として販売する小さな店を営んでいた自宅へと、この不思議な『物体』を持ち帰る。 ニュースを聞き及んだ村人たちが続々と店を訪れ、この奇怪な発見について喧々ごうごうの議論を始める。

実物はだれも見たことがないけれど、これが、人々がクロコダイルと呼ぶ生き物なのだろうか。

少女は父がかつて語った様々な話を思い起こしながら、この生き物の正体について思いを巡らしたに違いない。 そしてどこか近くに埋もれているはずのこの生物の残り部分を探し当ててみたいと熱望したはずだ。

少女の小さな瞳の奥には、情熱という名の炎がすでに激しく燃え盛っていたのです。

ロンドンの観光名所のひとつ、サウス・ケンジントンにある自然史博物館の中でもひときわ高い人気を誇る化石ギャラリー内に展示された、ジュラ紀の首長竜「プレシオサウルス」。

この化石の脇に、岩場にたたずむ婦人の小さな肖像画が添えてあるのをご存知でしょうか。

彼女の手にはその服装には似つかわしくない1本のハンマーが握られている。

この絵のモデルこそ、2010年に王立学会が発表した「科学の歴史に最も影響を与えた英国人女性10人」の1人に選ばれたプロの化石ハンター、メアリー・アニング(Mary Anning 1799~1847)です。

冒頭で触れたのは、彼女と兄が発見した化石で、2億年前もの昔に存在した、イルカのような姿をしていたというジュラ紀の魚竜「イクチオサウルス」の頭部です(次節スケッチ参照)。

この後、残りの胴体部分の化石を見つけ出した彼女は、世界で初めてイクチオサウルスの完全な骨格標本を発見した人物となる。

当時わずか12歳。 食べていくために、地元で化石を掘り出し土産物として売っていた貧しい「化石屋」の娘が、どのような経緯で世界的な発見に至り、19世紀初頭に英国でも盛んになりつつあった古生物学の世界への道を拓いたのか。

 彼女の幼少期から順を追う旅にでよう・・・・・・・・・

アニング-3-

◆◆◆ 雷に打たれた赤子 ◆◆◆

中生代のジュラ紀に形成された地層が海へと突き出した、東デヴォンからドーセットまで続くドラマチックな海岸線は、ユネスコの世界自然遺産にも登録され、化石の宝庫であることから現在はジュラシック・コースト(Jurassic Coast)とも呼ばれる。

英仏海峡に面したライム・リージス(Lyme Regis)は、ジュラシック・コースト沿いにある、何の変哲もない小さな町だ。

ここで、メアリーは1799年、家具職人リチャード・アニングの娘として誕生した。

リチャードは妻のメアリー・ムーア(通称モリー)との間に10人の子供をもうけたが、流行病や火傷などの事故によってほとんどの子供たちが幼少時に他界し、成人まで生き残ったのはメアリーと兄のジョセフだけだった。

子供の生存率が低かったこの時代、アニング家の事情はさほど珍しくはなかったとはいうものの、夫妻は跡継ぎの長男のジョセフ、そして3歳年下のメアリーを、貧しいなりにも大切に育てていた。

しかしある時、隣人女性が、生後15ヵ月だったメアリーを抱き木陰でほかの女性2人と馬術ショーを観戦していた際、思いがけない事故が起こる。

雷がその木を直撃、メアリーを抱いていた女性を含む3人が死亡したのだ。 赤子のメアリーも意識不明となるが、目撃者が大急ぎでメアリーを連れ帰り熱い風呂に入れたところ奇跡的に息を吹き返す。

そして不思議なことに、それまで病気がちだったメアリーはその日以降、元気で活発な子供になったとされ、町の人々はメアリーが成長したのちも「雷事件」が彼女の好奇心や知性、エキセントリックと評される性格に影響を及ぼしたに違いないと噂しあっていたという。

アニング-1-

=資料= 化石って一体何?どうやってできる?

■化石とは今から1万年以前の生物、あるいは足跡や巣穴、フンなど生物の生活していた様子が地層に埋没して自然状態で保存されたもの。そのまま形が残っているものだけでなく、化石燃料と呼ばれるようにプランクトンや草木が変質して原油になったものや、植物が石炭や鉱物に変化したものなども含まれる。

デ・ラ・ビーチ卿が、1830年にメアリーの発見した化石をもとにえがいた、「Duria Antiquior (a more ancient Dorset)」(直訳すると「太古のドーセット」)

■どうやって生物が化石に変化するのか。 メアリーが発見したアンモナイトやイクチオサウルスなど、海の生物を例にして挙げてみよう。

①死骸が海の底に沈む 。

②土砂に埋もれ体の柔らかい部分は微生物に分解され骨や歯だけが残る。

③長い年月をかけて積もった土砂の圧力などにより、骨の成分が石の成分に置き換えられることで「石化」し、「体化石」となる。

■ただし、こうして出来上がった化石がそのまま発見されることはない。地殻変動によって海や川の底が隆起して陸地となった後、地震などの働きで断層ができ、化石を含む地層がようやく表面に現れ、やがて化石が発見されるのだ。また地殻変動の過程で化石はばらばらになってしまう可能性が高く、恐竜など大きな生物の化石が丸ごと見つかることは非常にまれ。

■また、生物そのものでなく足跡や巣穴、フンといった生物の活動の痕跡が岩石などに残された「生痕化石」は、生物自体の化石より地味な印象があるものの、その生き物の生活場所が水辺なのか陸なのか、食生活はどうだったかなど、「体化石」だけでは不明な要素を明らかにする重要な判断材料となっている。

■ちなみに地球が経てきた46億年の歴史の中で化石になった生物はほんの数パーセント、発見されるのもその中からまたほんのわずか。本当はもっと多様な生物がいたはずでも我々が知り得ることができるのは氷山の一角なのだ。

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地質時代の中で、中新世(ちゅうしんせい=約2,300万年前から約500万年前までの期間)と呼ばれる時代の昆虫のものと考えられる化石。 ドミニク共和国で採掘された琥珀に含まれているのが見つかった。© Michael S. Engel

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・・・・・・続く・・・・・・

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探検家・冒険家 =15-⑪=

Tutankhamen King_TUT  /  Amazement_Genealogy

~ ツタンカーメン! その父親と母親は誰なのか? 驚愕の真実とは ~

ツタンカーメンー47-

新王国時代(第18王朝)のファラオ歴代=資料・そのⅡ=

トトメス4世

在位年代;前1400-1390年 誕生名;トトメス(トト神の生み出した者) 即位名;メンケペルウラー(ラー神の出現は永続する) 治世;10年  王朝の首都;テーベ 埋葬地;王家の谷、KV43 出身地;テーベ  家族構成;父/アメンヘテプ2世 母/ティア

略歴;ギザの大スフィンクスの修復者として知られている。 スフィンクスの足元に立てられた「夢の碑文」によれば、夢の中にスフィンクスが出てきて、修復してくれたら王にしてやると言われたという内容が刻まれている。 通常オベリスクは2本で一対だが、珍しく、単一のオベリスクを建造。そのオベリスクは国外に持ち出され、現在は何故か、ローマのヨハネ大聖堂の傍らに立てられている。

背景;小規模な遠征はあったが、とくに大きな戦闘はなし。先代までが、かなり派手に軍事活動を行ったので、特に何もしなくて良かったようだ。 なお、テーベの「死者の町(ネクロポリス)」に、豪華な貴族の墓が作られるようになったのは、この時代である。

アメンヘテプ3世

在位年代;前1390-1352年 誕生名+通称;アメンヘテプ・ヘカワセト(アメンは喜びたまう、テーベの町の支配者) 即位名;ネブマアトラー(真実の主はラーなり) 治世;38年  王朝の首都;テーベ 埋葬地;王家の谷、KV22 出身地;テーベ  家族構成;父/トトメス4世、母/ムテムイア 第一王妃/ティイ、息子/アクエンアテンほか、娘/イシス、サトアメン

略歴;第一王妃は王位につく前に結婚していた、平民出身の娘。恋愛結婚のニオイがしますが、この最愛の王妃との間に生まれたのが、のちのアクエンアテン。 ちなみに、正妻・ティイの一家はそろって王に仕えていたようで、父イウヤは軍事指導者、兄アネンは下エジプトの総督をつとめていた。

背景;アメン神のために、ルクソール神殿を建造。アメン神とその妻ムト、人間創造の神クヌム神と知恵の神トトに捧げられた碑文が有名。新王国時代特有の信仰体系が見受けられる。 外交、貿易によって多大な富が築かれていた時代なので、アメン神の神殿は豪華絢爛。のちに「メムノンの巨像」と呼ばれる座像が作られたのもアメンヘテプ3世の治世下である。

やはり大きな戦いは無く、母はミタンニから政略結婚で嫁いできた王女だったという。後宮には、同じように各国の王女たちが集められていたらしい。ハレムですな…。ちなみに古代エジプトの王家は、同盟国に王女を差し出させることはあっても、自分とこの王女を送ることは決してありませんでした。対等な関係ではなく、「エジプトが上」という意識があったわけです。

ツタンカーメンー50-

アメンヘテプ4世(アクエンアテン 別称;アメンホテプ、アメノフィス(ギリシア語))

在位年代;前1352-1336年 誕生名;ネフェルケペルウラー・ワァセンラー(美しきラー神の顕現、全知全能なるラー) 即位名;アメンヘテプ・ネチェルヘカワセト(アメン神は喜びたまう、テーベの力ある神) 改名後の即位名;アクエンアテン(アテン神の役に立つもの) 治世;16年  王朝の首都;テーベ→アケト・アテン 埋葬地;アケト・アテン→王家の谷 KV55 出身地;テーベ  家族構成;父/アメンヘテプ3世、母/ティイ、兄/トトメス(夭折)、妻/ネフェルトイティ、他多数  息子/ツタンカーメン【2010年確証】

略歴;彼についてはもちろん、エジプト史上もっとも謎に満ちた王として、多数の本が出版されている。 アメン神への信仰を放棄し、アテン神を祀り上げた。アテン神自体は彼以前の代(少なくとも父親アメンホテプ3世の時代)から信仰が確認されているが、なぜ突然、それまでの最高神を捨てたのかは、諸説ある。

アメン神のみならず、他の神々への排除も行われていたようだが、その弾圧は国全体を巻き込む苛烈なものではなく、地方では今までと変わらない信仰が続いていた。 それまでの首都だったテーベを放棄し、テーベとメンフィスの間にあるエル・アマルナに「アケト・アテン(アテン神の地平線)」という名の都を築いたが、彼の治世が終わると放棄され、都は短期間で砂に埋もれることとなる。尚、アマルナから出土する人骨はほとんどが10代で命を落としており、栄養状態も悪く、都の壮麗さとは裏腹に環境は劣悪であったことが推測されている。

背景;王様が宗教に熱中している間に、国政はガタガタに。以後、完全な建て直しは不能のまま、王朝は下り坂ぎみに終焉を迎える。 2010年、KV55から発見されていた、破損した棺の中のミイラ(というか骨)がDNA鑑定の結果、アクエンアテンのものと判明。棺の名前が削り取られ、顔の部分が破損していたことから、アクエンアテンを好ましく思わない誰かが故意に傷つけたと考えられる。

もとの埋葬地はアクエンアテン自身が築いた都、エル・アマルナ付近だったという説もあり、未完成のKV55へ移葬されるときに名前が削られたのかもしれない。 ちなみに発見された骨から、アクエンアテンは頭の骨が長く、腰骨が男性にしてはやや広く、アマルナ芸術に見られる両性具有のような姿は実際のアクエンアテンの風貌をより際立たせたものだったことが分かってきている。

ツタンカーメンー30-

ツタンカーメン

在位年代;前1336-1327年  誕生名;トゥトアンクアテン(アテン神の生ける似姿)改名後;トゥトアンクアメン・ヘカイウヌシェマ(アメン神の生ける似姿、上エジプト、ヘリオポリスの支配者) 即位名;ネブケペルウラー(出現の主は、ラー) 治世;9年  王朝の首都;(アケトアテン)→メンフィス→テーベ 埋葬地;王家の谷、KV62 出身地;アケトアテン?  家族構成;父/アクエンアテン 妻/アンケセンパアテン(アンケセンアメン)、兄/スメンクカラー その他は不明

略歴(省略)・背景;アクエンアテンとスメンクカラーが相次いで亡くなったあと、家臣団が実権を握る中に幼くして即位したのが、ツタンカーメン。アテン信仰からアメン信仰へと立ち戻った時期であり、アテン信仰の歴史を抹消しようとした形跡が多く見られる。

この王が跡継ぎを残さずに急死したため、王朝がいったん断絶する。他に適当な王位継承者がいなかったのか、次代を継ぐのは高齢だった神官アイと将軍ホルエムヘブ。その後、ホルエムヘブの養子だったトトメス1世に代が移り、19王朝が開始される。18王朝から19王朝への歴史のターニンクポイントに位置する王様なのだ。

アイ (通称;アイ)

在位年代;前1327-1323年  誕生名;イトネチェル(神の父) 即位名;ケペルケペルウラー(永続するものはラーの出現) 治世;4年  王朝の首都;テーベ 埋葬地;王家の谷 KV23 出身地;テーベ?  家族構成;先妻/ティイ2世  孫・妻/アンケセンアメン

略歴;アクエンアテンの先代、アメンヘテプ3世の時代より、長らく神官として王家に仕えて来た人物。同時に、宮廷内の権力を牛耳る人物でもあった。王による改宗、王の死後の急激な変化、王の手が離れた政治を、影で支配して来たのは、この人物かもしれないといわれている。

ツタンカーメンの葬儀を執り行った直後、アマルナ王家直系の最後の一人、自分の孫でもあるアンケセンアメンと(強引に? それとも地位救済のため?)結婚し、王位を継ぐ。 若い妻は、結婚直後に夭折。高齢だったアイ自身もわずか4年で死に、王権はさらに次の権力の手へと移って行く。

背景;アクエンアテンの即位後も権力の座に居座り続けたということは、王の宗教改革に表立って反対はしていなかった人物なのだろう。しかし、その死後、あっというまにアメン信仰を復活させた手際からして、実は裏でアメン神官団との繋がりがあったのではないかと言われている。世渡り上手で狡猾な人物のように思えるが、王のブレインともなればそのくらいの素質は必要かもしれない。

ツタンカーメンー51-

ホルエムヘブ (別綴り;ホルエムハブ、ハレムハブ)

在位年代;前1323-1295年  誕生名;ホルエムヘブ・メリアメン(ホルスは歓喜する、アメン神に愛されし者) 即位名;ジェセルケペルウラー・セテプエンラー(聖なるものはラーの出現、ラーに選ばれし者)  治世;28年   王朝の首都;テーベ 埋葬地;王家の谷 KV57  出身地;ヘラクレオポリス   家族構成;先妻/?  もう一人の妻/ムトノジュメト

略歴;出自不明の軍人。アイと同じく、アメンヘテプ3世の時代から仕えた古参の家臣。アイが文官や神官を牛耳っていたなら、こちらは武官や軍人を掌握し、二大勢力となっていたと思われる。アイの没後、二大勢力は崩れ、すべては彼の手の中に握られることになる。

神官団に邪魔されないように、即位するや否や、息のかかった軍人出の者ばかりを神官に任命。その上で、アメン信仰の復興、神殿の造営等を行った。しかし、それすらも信仰のためというよりは、先王たちの遺業を横取りし、自らの名を世に残すためだったのかもしれない。

自分より前に即位したアイの墓を、容赦なく徹底的に破壊させたが、何故かツタンカーメンの墓だけは見逃している。アイが墓の位置を隠したからなのか、ホルエムヘブがツタンカーメンに特別な思い入れを持っていたからなのか。説は幾つかある。

背景;栄えていた王国も、末期の状態である。 18王朝末からの低迷は新王国時代 第19王朝・ラメセス1世に引き継がれる。 ネフェルトイティの姉妹、ムトノジュメトを妻に迎え、辛うじて王家の血筋との繋がりを保っているが、通常なら王位の正当性は主張できないくらいのもの。王家の血筋とは全く関係なさそうな人物が即位できたということは、もはや、他に適当な人物がいなかったということだろう。

ツタンカーメンー2-

・・・・・・新節へ続く・・・・・・

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