探検家・冒険家 =15-⑩=

Tutankhamen King_TUT  /  Amazement_Genealogy

~ ツタンカーメン! その父親と母親は誰なのか? 驚愕の真実とは ~

ツタンカーメンー32-

消されたファラオに光を

さて、ひとまずは、ここでドラマの幕が下りたと考えてよさそうだ。 若き王と王妃は跡継ぎをもうけようとしたが、望みはかなわなかった。

ツタンカーメンの墓にあった小さな箱には、杖に寄りかかった王に、王妃が花束を差し出す図柄が刻まれている。こうした仲むつまじい二人の姿は、他のレリーフにも描かれている。

ツタンカーメンの死後、あるエジプトの王妃(おそらくアンケセナーメン)が、エジプトの最大の敵であるヒッタイトの王に、「私に息子を残さずに、夫は死んでしまいました」と伝え、王子の一人を自分の夫としてエジプトに遣わすよう頼んでいる。

ヒッタイトの王は息子の一人を派遣したが、この王子はエジプトに向かう途中で死亡した。 おそらくツタンカーメンの軍隊の司令官ホルエムヘブに暗殺されたのだろう。

結局は、ホルエムヘブが王位に就いたが、彼も子に恵まれることなくこの世を去り、その同僚の軍司令官が王位を継ぐことになった。

この新しいファラオがラメセス1世である。エジプトは第19王朝の時代に入り、孫のラメセス2世の統治下で、強大な帝国として再び栄華の極みに達することとなった。

そして誰あろう、このラメセス2世こそが、ツタンカーメンをはじめアマルナ時代の「異端者」たちの痕跡をエジプトの歴史から消し去ろうと執念を燃やした人物だ。

私たちは調査を通じて、消されたファラオたちの名誉を回復し、彼らの事跡を後世に伝えたいと考えている。

 【文=ザヒ・ハワス 写真=ケネス・ギャレット】より抜粋・転記

DCF 1.0

新王国時代(第18王朝)のファラオ歴代=資料=

イアフメス1世(別称;アハメス、アハモシス)

在位年代;前1550-1525年 誕生名;イアフメス(生まれ出る月) 即位名;ネブペフティラー(力の主、太陽神ラー) 治世;25年(+4ヶ月) 王朝の首都;テーベ  埋葬地;不明(テーベ周辺?) 出身地;テーベ  家族;父/セケエンラー・タア2世  母/アアヘテプ 兄/カーメス 妻/イアフメス・ネフェルトイリ

略歴;エジプト再統一。ヒクソス王朝を倒し、政権を取り戻す。シリア方面、および南はヌビアとの国境を固め、内政を安定させ、かつての秩序を取り戻した。 墓の内蔵品と王のミイラが見つかっているのに、墓の位置は不明。どうやら、盗掘を恐れた後世の神官が墓を移したために、本来の墓の位置が分からなくなってしまったらしい…。

背景; まだ戦争中。イアフメスの父と兄は、ヒクソスとの戦いで死んだようで、今ようやく、かつての秩序を再建しようとしていた…と、いうところ。 エジプトの母系社会が、さらに、くっきりと信仰にその形式を移したのが、この時代。 テーベの守護神であるアメンに仕える巫女、「アメンの神妻」という地位が作られたのは新王国時代だが、イアフメスの王妃、イアフメス・ネフェルトイリがその初代だっただろうと言われている。 テーベの王が全土の権利を握ったことにより、この時代もやはり、アメン神が最高位。(ラーではない)

ツタンカーメンー45-

アメンヘテプ1世 (別綴り;アメノフィス1世)

在位年代;前1525-1504年 誕生名;アメンヘテプ(アメン神に愛されしもの) 別綴り;アメノフィス1世  即位名;ジェセルカラー(聖なるラーの魂) 治世;21年  王朝の首都;テーベ  埋葬地;王家の谷KV39?  出身地;テーベ  家族構成;父/イアフメス1世  母/イアフメス・ネフェルトイリ

略歴;先代、イアフメス1世が無くなったとき、この王はまだ幼かったため、母イアフメス・ネフェルトイリが一時的に摂政の座についていた。この王妃は優秀な執政官で、人々の信頼を勝ち得ていたようだ。その証拠に、彼女は、死後、息子アメンヘテプ1世とともに神格化されている。 この時代の出来事が、王朝での「女神(神の妻たち)の地位の向上」に繋がった、という考え方も出来る。

アメンヘテプ1世は、カルナック大神殿の造営を指揮したことでも有名。 カルナック大神殿は、ルクソール神殿とともに、テーベの町の中心を形作る重要な建造物だ。コレが無いとテーベらしくない! と、いうくらい有名な(観光名所でもある)建物で、日本で言うと京都の金閣寺、奈良の五重塔みたいなシンボルと思いねぇ。もちろん、アメン神のための神殿である。

この時代特有の、墓と神殿を切り離す形式を最初に考案したのは、この王だったとされている。(ただし、墓の場所については諸説あり) 前神殿・前庭・奥に墓、前庭なし・前神殿と墓、など、まるで日本の寺社仏閣の様式のように細かく名前がついている。 背景;前王の時代に引き続き、北方シリア、南方ヌビアへの遠征。この時代は、父王の時代と同じく、内政を諸侯に任せて分業する形式がとられていた。内政にとらわれず、落ち着いて遠征することが出来たと考えられる。(外に行ってる間に内乱が起きたら終わりだが、この王朝は民の信頼が篤かったようだ。)

トトメス1世(別綴り;トトモシェ)

在位年代;前1504-1492年 誕生名;トトメス(ギリシア語、「トト神に生み出されしもの」) 古代エジプト語;ジェフティメス 即位名;アアケペルカラー(偉大なるラーの魂) 治世;12年  王朝の首都;テーベ 埋葬地;王家の谷KV20とKV38 出身地;テーベ  家族構成;妻/イアフメス(王女) 息子/ウアジュメス、アメンメス、トトメス2世

略歴;王の息子ではなく、軍人出身。古代エジプトは母系社会のため、基本的に王女が王権を相続する。その王女と結婚することによって、この人は王位をつぐことが出来たらしい。しかし、この人が王位についたということは、他に適当な王位継承者がいなかった、ということか…。  南方、北方両方に海外遠征を行い、はじめて戦争の記念碑を立てた王が、この人。軍人出身だけあって、在位が短かったわりに多くの戦争を行っている。

背景;国土の再統一がなされたとはいえ、まだ完全に安定したとは言いがたい時代。王権交代のすきをついての反乱もあったようだ。 先王の時代に造営が開始されたカルナック大神殿が、さらに増築され、大きくなっていく。それにつれて、カルナックのアメン神官団の権力も増大。 また、この時代あたりから、よく知られている「アムドゥアトの書」が墓の内部に見られるようになる。かつての太陽神ラーが、アメン神の一部として引き続き崇拝されていたことがうかがえる。

ツタンカーメンー48-

トトメス2世

在位年代;前1492-1479年 誕生名;トトメス(トト神が生み出せしもの) 即位名;アアケペルエンラー(偉大なるはラーの形) 治世;13年  王朝の首都;テーベ 埋葬地;王家の谷、KV42? 出身地;テーベ  家族構成;父/トトメス1世 母/ムトネフェルト 妻/ハトシェプスト(異母姉) 息子/トトメス3世(側室イシスの子) 娘/ネフェルウラー(ハトシェプストの子)

略歴;下位の王妃から生まれたトトメス2世は、王位継承の正当性を高めるため、第一王妃の子だった異母姉、ハトシェプストと結婚。その野望と野心を見抜きながらも、息子が幼いうちに命尽きてしまった。 こうして、エジプト史に残る女王の時代は、始まる。それは気丈な女王と、気弱な王との婚姻が生み出した、歴史の偶然だったのか。

背景;統治が短かった為、ほとんど記録はなく、シャスウ(ベドウィンの国とされる。アジア方面)への遠征がイアフメスの碑文で知られるのみ。

トトメス3世(別綴り;トゥトモシェ、トゥトメシス)

在位年代;前1479-1425年 誕生名;トトメス(ギリシア語)/ジェフティメス トト神が生み出せしもの  即位名;メンケペルラー(ラーの顕現は永続する) 治世;54年  王朝の首都;テーベ 埋葬地;テーベにある王家の谷(KV34) 出身地;テーベ   家族構成;父/トトメス2世 母/イシス 妻たち/ネフェルウラー(ハトシェプスト女王の娘)、ハトシェプスト・メリエトラー(再婚後の第一夫人)、メンヘト、メンウィ、メルティ 息子/アメンヘテプ2世

略歴;エジプトのナポレオンと呼ばれる王。この人ひとりだけについて取り上げた本も出ているくらいなので、ここではわざわざ述べるまい。 中でも、「メギドの戦い」は有名で、西アジア方面への遠征は17回を数え(実際に戦闘によって敵首長を討ち取ったのは初回のみで、あとは脅しのようだが)、国土を大きく広げた。  この王の代に西アジアへ何回も遠征したかとういうと、義母ハトシェプストの時代に、外交がおろそかにされて、アジアの国々がエジプトからミタンニ王国に乗り換えていたためで、北西の、アジア方面の国境線を強化する必要があったのだという説がある。

ハトシェプストの名や記録を抹消した行為も有名。しかしハトシェプスト葬祭殿オペリスク付近から出土したハトシェプストとの関係を示す像などから、それは政治的意図からによるもので、憎しみによるものではなかったことが知られるようになった。

また、ハトシェプストとの共同統治時代に自ら命令を下したこともあったようで、完全に主権を奪われていたのではないようだ。 また、この王の時代にエジプトにおける射的競技が重要になり、碑文などで大きく取り上げられるようになる。ミン神を息子アメンヘテプの「師匠」として選び、自らの墓の壁画にミン神が王子に弓の稽古をつけているさまを描かせた。

背景;”アメン神の旗の御許に。” 自らの華々しい戦歴をアメン神殿に記すことによって、アメンの威光を高め、先代のハトシェプスト女王と同じく、この神と王家のつながりを強調した。 と同時に、正反対とも思える母性の女神ハトホルの礼拝所も、テーベ近郊に建造している。 このあたりから、王家の財産によって潤った神官団の権力と、聖俗一体政治の微妙さが浮き彫りになってくる。

ツタンカーメンー49-

 ハトシェプスト女王

在位年代;前1473-1458年  誕生名;ハトシェプスト・クヌムトアメン(最も高貴な婦人、アメン神と結ばれし者) 即位名;マアトカラー(真実とラーの魂)  治世;5年  王朝の首都;テーベ 埋葬地;王家の谷 KV20 出身地;テーベ  家族構成;父/トトメス一世 母/イアフメス 夫/トトメス2世 娘/ネフェルウラー

概略;男性の王に代わり王権を乗っ取ったことで有名な女王。夫・トトメス1世は息子を次の王にと言い残したが、トトメス3世はまだ幼かったため、結果的にハトシェプストが摂政の座につくことに。

壮麗な葬祭殿など多くの建造物を残したが、その多くは、のちに打ち壊され、碑文も隠されてしまった。 ただし、かつて考えられていたように王権の簒奪者として憎まれていたわけではなく、「父から子への王権伝達」という伝統を壊さないために記念碑等の抹消が行われたのだと考えられる。 女が王位についたことが許せず、彼女の業績を抹消しようとした人々もいるのだろうが、義理の息子・トトメス3世の残した母への賛辞から、少なくとも息子との仲は最悪ではなかったようだ。

なおハトシェプスト女王のミイラは、2007年6月にザヒ・ハワス博士らのチームによって特定された。CTスキャンの結果、ハワード・カーターが発見した王家の谷の墓に残されていたミイラに欠けている歯と、ハトシェプストの銘いりカノポス壷に入っていた奥歯が一致したことが、最終的な決定打になった模様。

これにより、ハトシェプスト女王の死はかつて考えられていたように記録から消えるトトメス3世の治世22年ごろではなく、そのさらに後に50歳くらいで病死しており、暗殺では無かったことも判明した。

背景;王は太陽神の息子(ホルス)と同一視されるため、父は太陽神でなければならなかった。かつてその太陽神とはラーだったのだが、新王国時代はアメンになっている。ハトシェプスト女王も、アメン神を自らの父として崇めていた。 女性が王のためか戦争は無かったが、そのぶん貿易で栄え、得た利益によってアメン神殿がグレードアップ。かつてない壮麗さを誇るようになる。(それ以外の神々の神殿も、派手になっていたようだが…。)

アメンヘテプ2世(別綴り;アメンホテプ2世、アメノフィス2世(ともにギリシア語))

在位年代;前1427-1400年 誕生名+通称;アメンヘテプ・ヘカイウヌ(アメン神は喜びたまう、ヘリオポリスの支配者) 即位名;アアケペルウラー(偉大なるラーの出現) 治世;27年   王朝の首都;テーベ  埋葬地;王家の谷、KV35  出身地;テーベ  家族構成;父/トトメス3世

略歴;父王の時代に造営が始まったアメン大神殿を完成させた。アメン神の庇護のもと、王国は全盛期を迎える。  戦いに関しては非情に徹したようで、地中海地方の反乱を制圧し、反乱地域の王子たちを連れ帰って打ち殺し、アメン神への生贄として捧げたという。 なお、墓荒らしに遭ったものの、王のミイラは無事だった。 アメンヘテプ2世は記録によれば弓の名手として描かれており、「300の弓に弦を張った」「銅板に矢を射て貫通させた」などと石碑に刻ませている。

背景;軍事強化の時代のため、国土はヌビアからパレスチナまで南北の広域に渡っている。最初に新王の威光を知らしめるための遠征を繰り返したあとは、平和的な治世を行ったとされる。遠征によって、多大な富を得たため、国はうるおっていた。

ツタンカーメンー25-

・・・・・・続く・・・・・・

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探検家・冒険家 =15-⑨=

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~ ツタンカーメン! その父親と母親は誰なのか? 驚愕の真実とは ~

ツタンカーメンー40-

父親は判明、母親は……

ミイラからDNAを分離できれば、あとはアメンへテプ3、KV55号墓のミイラ、ツタンカーメンのY染色体の遺伝子を比べ、血縁関係の有無を確かめるのはさほど難しくはない(Y染色体は父親から息子に直接受け継がれるので、血縁関係のある男性同士ではY染色体上のDNAパターンが一致する)。

しかし、関係を正確に知るには、より高度な「DNA指紋法」による解析が必要になる。 染色体上にはA、T、G、Cの4種類の塩基が並び、遺伝情報を伝える暗号のような役割をしている。

人間のDNAには、数個の塩基から成る配列パターンが何度も繰り返されている領域があり、その反復の回数は人によって異なる。 10回繰り返されている人もいれば、15回あるいは20回という人もいる。

FBI(米連邦捜査局)のDNA鑑定の基準では、こうした領域を10カ所調べて、すべての反復回数が一致すれば、犯人特定の重要な決め手とされる。

3300年前のミイラから採取したDNAで家族関係を調べる際には、犯罪捜査ほど厳しい基準を設けなくてもいい。 今回の調査では8カ所の反復回数を比べ、99.99%の確率で、KV55号墓のミイラがアメンへテプ3世の息子であり、ツタンカーメンの父親だという結果を得た。

これで父親の遺体を特定できたわけだが、この遺体が誰なのかは依然として謎だった。 おそらくアクエンアテンかスメンクカーラーだろうと、私たちは目星をつけていた。 KV55号墓のミイラを収めた棺(ひつぎ)には、アクエンアテンだけに関連のある言葉が刻まれている。

とはいえ、アクエンアテンでないことを示唆する証拠もあった。 それまでの調査では、KV55号墓のミイラは25歳より前に死んだと推定されていたのだ。

アクエンアテンは王位に就く前にすでに二人の娘をもうけ、17年間統治を行っている。 その遺体にしては若すぎるため、“影”のファラオ、スメンクカーラーの遺体ではないかと、大半の学者が考えた。

この謎を解くため、新たな“証人”として、「年配の女性」と呼ばれるミイラ(KV35EL)に目を向けた。 赤みを帯びた長い髪を肩まで垂らし、死してなお美しい。

このミイラの頭髪と、ツタンカーメンの墓で見つかった入れ子式の小さな棺に入っていた髪の毛の束が、その形態から同一人物のものであることがわかっていた。

この小さな棺には、アクエンアテンの母であるティイ王妃の名が刻まれている。 ティイの両親であるイウヤとトゥヤのミイラとDNAを比べた結果、「年配の女性」がティイであると確認できた。 あとは、KV55号墓の男性が、彼女の息子かどうかを調べればいい。

※;スメンクカーラーは新王国時代のファラオにしては珍しく、実像がほとんど明らかになっていない。ツタンカーメンやアクエンアテン(アメンホテプ4世)と共に王名表から名が削除されたことや、ツタンカーメンよりも像やレリーフなどの遺物が残されていないためである(ツタンカーメンの場合も、墓から出土した物以外の遺物は極めて少ない)。

ツタンカーメンー41-

 KV55号墓の男性と「年配の女性」のDNAを比べたところ、血縁関係があることが確認できた。

KV55号墓のミイラを改めてCTスキャンで調べると、背骨に老化による衰えが見られ、膝と脚の骨関節炎を患っていたことがわかった。 これで死亡時の年齢は25歳ではなく、40歳前後だったという線が濃厚になり、年齢の問題は解決した。

アメンへテプ3世とティイの息子で、ツタンカーメンの父親であるKV55号墓のミイラは、ほぼ確実にアクエンアテンだと結論づけられる(ただし、スメンクカーラーである可能性が完全になくなったわけではない)。

これまで、この一族はマルファン症候群(骨が長くなるなどの症状が出る遺伝性疾患)のような先天性の病気を抱えており、アクエンアテンが顔の長い女性的な姿に描かれているのも病気のせいだと言われてきた。

だが、今回のCTスキャンではそうした病気の痕跡は全く認められなかった。 アクエンアテンの像が両性具有のような印象を与えるのは、男性でも女性でもあり、全生命の源とされるアテン神とファラオを同一視した当時の美術様式によるものだろう。

では、母親は誰だろうか。

驚いたことに、KV35号墓で見つかった「年下の女性」(KV 35YL)とツタンカーメンのDNAが一致した。 それ以上に驚いたのは、この女性がアクエンアテンと同様、アメンへテプ3世とティイの娘だとわかったことだ。

つまり、ツタンカーメンの両親は実のきょうだいだったことになる。

これまでに知られているアクエンアテンの妃たち、つまりネフェルトイティと第2王妃のキヤは、ツタンカーメンの母親ではない。 歴史的な記録から、この二人はアクエンアテンの実の姉妹ではないことが知られているからだ。

アメンへテプ3世とティイの間に生まれた5人の娘の名前はわかっている。 しかし、そのうちの誰がツタンカーメンの母親かは、おそらく永久にわからないだろう。 古代エジプトの王家では、近親婚は珍しくなかった。 だが、アクエンアテンと「年下の女性」の近親婚は、息子であるツタンカーメンの早すぎる死を招くことになったと、私は確信している。

ツタンカーメンー42-

=資料・アメンホテプ4世・アンケセナーメン

アメンホテプ4; 後に改名してEigennameをイクナートン(Echnaton)と名乗った。 父はアメンホテプ3世、母は正妃ティイといわれる。

アメンホテプ4世の像は指が異常に長い、顎が尖る、脂肪の付き方が不自然であるなどマルファン症候群の特徴的な症状を持つように受けられ、生前から奇形だったという説もあるが、王家の血筋ではない王妃ネフェルティティや家臣たちも同様の形式で描かれることから、これはアマルナ美術特有の高貴な人々の表現形態であったと見るのが妥当である。

また、遺伝子調査による王族のミイラ特定に伴い、この表現は、王家の人々の容姿の特徴をかなり誇張したものであることも分かってきている。  病弱であったとする証拠は特に無く、かつては憶測のままだったが、2010年の本人のミイラ特定により、今後の研究が待たれる状態となっている。

彼の行った改革は、アマルナ改革として有名である。 アテン(太陽)神を崇拝し、治世4年目(前1368年ごろ)にアテン神に捧げる新都アケトアテン(現アマルナ)を建設。 王朝発祥の地テーベを放棄し、遷都した。

アメン(アモン、テーベの町の守護神)を祭る神官勢力が王を抑えるほどの強い勢力になったことをアメンホテプ4世が嫌い、宗教的権力を王権と一本化することを狙った宗教的改革と考えられる。

前者の理由が一般的だが、アメンホテプ4世自身がアテンを称える詩を執筆している等、単なる政治的理由だけでは説明のつかない事も多く、後者(遷都)の理由も大きかった事がうかがえる。 多神教であった従来のエジプトの宗教を廃し、唯一神アテンのみを祭る世界初の一神教を始めた事が挙げられる。

ただし、著名な宗教学者のエリアーデは、アメンホテプ4世の宗教を評し、「実際には二神教であった」としている。  というのも彼の宗教ではアテンのみならず、伝統的なエジプト宗教と同じく王たるアメンホテプ4世自身も神であるとされたからである。

アテンは太陽円盤の形で数多くの手を持っており、通常のエジプト宗教においてこれは多くの民を救う為のものであると解釈されていたにも関わらず、アメンホテプ4世の宗教では、アテンはアメンホテプ4世だけの為の神であった。

そしてその他の一般の民に対しては、アメンホテプ4世自身を神として崇拝するよう説いたのである。

ツタンカーメンー43-

アンケセナーメン;(Ankhesenamen,紀元前1344年頃-不明)は、エジプト新王国時代の第18王朝のファラオ・アクエンアテンと正妃ネフェルティティの三女であり、ファラオ・ツタンカーメンの妻である。

当初の名をアンケセンパーテン(Ankhesenpaaten)といい、実父アクエンアテンの妻だった時期もあるが、アクエンアテンの死後、異母兄弟ツタンカーメンの妻となったさいにアテン神からアメン神に信仰を変えアンケセナーメンと改名した。

ツタンカーメンとは幼なじみだったといわれ、若くして亡くなったツタンカーメンの棺の上に(発掘時)置かれていた、ヤグルマギクの古く乾燥した花束は王妃アンケセナーメンの贈り物との説もテレビで流されている。

ツタンカーメンの早世後は、ファラオを継いだアイの妻となるが、アイは、祖母ティイの兄弟にあたるといわれ、実際に祖父アメンホテプ3世の時代から名を馳せていた神官であるので、年齢差が相当大きかったのではないかと思われる。

この新しい夫には前夫ツタンカーメン暗殺説もあり、それらを踏まえたうえで、アンケセナーメンは、小説や漫画では運命に翻弄される悲劇の王妃として描かれることが多い。

また、アンケセナーメンはアイとの結婚を嫌い、ヒッタイトの王、シュッピルリウマ1世にその王子を婿に迎えて国王としたいとの手紙を送った。 シュッピルリウマ1世は、王子ザンナンザをエジプトに送ったが、途中で暗殺された。

この暗殺首謀者はアイだという説がある。  一方で、アンケセナーメン自身がアイと共謀しツタンカーメンを暗殺したという説もある。

なお、王家の谷で2005年に発見された墓であるKV63は、ツタンカーメンの墓に近く、内容物も同時代のものであったことから発見当初はアンケセナーメンのものとも推測されたが、その後の調査により、墓ではなく、埋葬時に使われた道具(ミイラ作り用のベッドやナトロンを含む)を収めた場所と判明した。  尚、室内からツタンカーメンやアンケセナーメンの名が刻まれた品は発見されていない。

2010年に行われたDNA解析により、王家の谷の墓KV21で発見された2体のミイラのうちKV21Aがアンケセナーメンのものであるという説が提唱されているが、確証は得られていない。 また、遺体の損傷がひどくいかなる姿だったかすらわからない有様となっている。

ツタンカーメンー20-

・・・・・・続く・・・・・・

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