探検家・冒険家 =15-⑧=

Tutankhamen King_TUT  /  Amazement_Genealogy

~ ツタンカーメン! その父親と母親は誰なのか? 驚愕の真実とは ~ 

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遺伝子で家系を探る

= ツタンカーメンの父と母は誰なのか =

 その答えを求めて、私たちザヒ・ハワス・ケネス・ギャレットは ツタンカーメン本人と、その直系の親族とおぼしき10体のミイラからDNAを採取し、解析を行うことにした。 DNAの抽出過程では現代人のDNAが混入するおそれがあり、解析可能なサンプルを取り出すのは至難の業だ。 死者の眠りを乱してまでDNA鑑定を行うことに、私は懐疑的だった。

しかし、2008年に専門家たちと話し合った結果、技術の進歩はめざましく、有用な成果が得られる可能性が十分にあると確信できた。

私たちはDNA鑑定のために、カイロのエジプト考古学博物館の地下とカイロ大学医学部の2カ所に最新の装置を備えた研究室を設けた。併せて、カイロ大学医学部のアシュラフ・セリムとサハル・サリームが中心となり、11体のミイラをCTで詳しく調べることになった。

11体のうち、4体の身元はわかっていた。 1体はツタンカーメン自身で、今も王家の谷に安置されている。あとの3体はアメンへテプ3世と、その妃(きさき)ティイの両親イウヤとトゥヤで、エジプト考古学博物館に展示されている。

身元不明のミイラのうち1体は男性で、王家の谷にある謎の墓KV55で発見されたものだ。 考古学的な証拠と文字の記録から、アクエンアテンかスメンクカーラーだとみられていた。

ツタンカーメンの母親と妃を特定するために目をつけたのは、身元のわからない4体の女性のミイラだった。 そのうち2体は、1898年にアメンへテプ2世の墓(KV35)内の小部屋で見つかったもので、それぞれ「年配の女性」、「年下の女性」と呼ばれていた。

発見時には2体とも遺体を包む布をはがされ、床に放置されていた。おそらく新王国時代が終わったあとの紀元前1000年前後、神官たちが遺体を盗掘から守るためにここに隠したのだろう。 あとの2体は、王家の谷の小さな墓(KV21)で見つかった名前のわからない女性のものだった。

さらに、ツタンカーメンの墓で見つかった2体の胎児からもDNAの採取を試みた。 この2体は保存状態がきわめて悪く、あまり期待はもてなかった。 だが、成功すれば、ジグソーパズルの欠けていた破片が埋まり、5世代にわたる王家の家系図が完成する可能性があった。

解析可能なサンプルを得るために、1体につき数カ所から組織を採取した。 採る場所は必ず骨の奥深くにする。 過去に遺体に触れた古代エジプトの神官や考古学者のDNAが混入しているおそれがないからだ。 研究者自身のDNAが混じらないよう、細心の注意を払った。

採取した組織から、ミイラ化の際に防腐用に使われた軟膏(なんこう)や樹脂を取り除いて、DNAを分離する。 防腐剤はミイラによって異なるので、不純物除去の手順もそのつど違ってくる。

ツタンカーメンー36-

 調査の中心となるのはツタンカーメンだ。 分離がうまくいけば、透明なDNA溶液ができるのだが、最初にできた溶液は黒く濁ってしまった。 防腐剤の正体を突き止めて取り除く方法を編み出すのに、6カ月を要した。 こうしてようやく試料を抽出でき、DNA断片を増幅して解析する段階にこぎつけた。

ツタンカーメンと他の3体の男性ミイラ(イウヤ、アメンヘテプ3世、KV55号墓で見つかった身元不明の男性)からDNAを抽出すると、父親を特定する作業に取りかかった。

いくつかの碑文で、ツタンカーメンはアメンヘテプ3世を「わが父」と呼んでいる。 だが、これは「祖父」または「祖先」とも解釈できる言葉なので、これだけでは父子関係を断定できない。 しかも、これまでの研究では、アメンへテプ3世はツタンカーメンが生まれる10年ほど前に死亡したという説が有力だ。

ツタンカーメンの父親だと多くの学者が考えているのは、アクエンアテンだ。

アマルナの近くで見つかった石灰岩の破片に、ツタンカーテン(後のツタンカーメン)とアンケセンパーテンを「王の最愛の子供たち」と呼んだ碑文が刻まれているからだ。

アンケセンパーテンがアクエンアテンの娘であることはわかっているので、ツタンカーテンはアクエンアテンの息子と考えるのが自然だろう。 しかし、この証拠だけでは不十分だとみる学者もいる。 父親は謎の人物スメンクカーラーだとの主張もあった。

ツタンカーメンー37-

※; アメンホテプ3(Amenhotep III、在位:紀元前1386年 – 1349年、あるいは紀元前1388年 – 1351年)は、古代エジプト第18王朝の第9代ファラオ(王)であった。

即位名はネブマアトラー。  「真実の主はラーなり」の意。 正妻はティイ。 子はアメンホテプ4世などで、 ツタンカーメンが生まれる10年ほど前にアメンへテプ3世は死亡したという説が有力なので謎が深まった。

ネブマアトラー(アメンへテプ3世)は、トトメス3世、トトメス4世の時代を経て絶頂に達した王国を継承した。 在位期間も長く、40年近くに及んでいる。

アメン神を崇敬すること篤く、テーベにカルナックのアメン神殿と直結する分神殿としてルクソール神殿を建設している。 このほか、同地に広大な自身の葬祭殿も建設している。 葬祭殿は後に後代の王たちによって破壊されたが、メムノンの巨像と呼ばれる彼の坐像は破壊されずに残り、現在でも形をとどめているのです。  ツタンカーメンが即位し その権勢の巨大さが偲ばれるのだが・・・・・・

ティイ(ヒエログリフ: Tiye,紀元前14世紀中葉)は、エジプト新王国時代の第18王朝のファラオであったアメンホテプ3世の正妃である。 母は、ともに神官のイウヤ(Yuya、イウイア)とチュウヤ(Tjuyu、チュイア、トゥイウ)。

エジプト人ではなくミタンニ王国の平民出身といわれ、本来ならファラオの正妃にはなれない血統のはずだが、アメンホテプ3世に大切にされたらしく他の妃とは一線を画した扱いを受けていた。 のちにファラオとなるアイの実妹にあたる。

アメンホテプ2世が埋葬されている王家の谷のKV35の副埋葬室から発見された、髪の毛が残ったミイラが彼女のものと考えられてきた。 その後、子のアメンホテプ4世、孫のツタンカーメンとDNAを比較した結果、正式にティイと確認されたことが2010年2月17日にザヒ・ハワスらにより発表された。

 アメンホテプ2(在位:紀元前1453-1419年、あるいは紀元前1427年-1400年)は、古代エジプト第18王朝の第7代ファラオ(王)。 即位名はアアケペルウラー。意味は「偉大なるかなラー神の出現」。

父トトメス3世同様に遠征を行い、内政でも見事な手腕を発揮して父が回復したエジプトの国威と広大な帝国を維持することに成功した。 陵墓は後に王家の谷と呼ばれる土地に築かれ、後代には王たちのミイラを墓荒らしから守るために安置する場所として使われた。 また彼のミイラはカイロのエジプト考古学博物館に所蔵されており、身長183センチと、現存するファラオのミイラの中では最も長身とされている。

ツタンカーメンー39-

=資料・スメンクカーラー

スメンクカーラー(SmenkhKaRa)は、古代エジプト第18王朝のファラオ(王)。名は「生あるものはラー神の出現」の意。 ツタンカーメンの実父説がある。

スメンクカーラーの謎; スメンクカーラーは新王国時代のファラオにしては珍しく、実像がほとんど明らかになっていない。  ツタンカーメンやアクエンアテン(アメンホテプ4世)と共に王名表から名が削除されたことや、ツタンカーメンよりも像やレリーフなどの遺物が残されていないためである(ツタンカーメンの場合も、墓から出土した物以外の遺物は極めて少ない)。

スメンクカーラー系譜; アメンホテプ3世の子でアクエンアテンの弟である、 アクエンアテンの息子である、など系譜上における位置が確定していないため、結論は未だに無い。 中には、王妃ネフェルティティがハトシェプストに肖って即位した際に使った偽名とする説も存在する。

スメンクカーラーの別名「ネフェルネフェル・ウ・ラー」をネフェルティティが用いていたことに加え、スメンクカーラーがあたかも女性としての扱いを受けていたかのようなことを匂わせる遺品等も数多く発見されており、このことがよけいに研究者を混乱させている。

アクエンアテンの共同統治者とされ、メンフィスを本拠地にアメン神官団とアクエンアテンとの意見の調整を行っていたと考えられている。 王妃はアクエンアテンの王女メリトアテン。 子は確認されていない。

アクエンアテンとほぼ同時に亡くなっているが、在位期間の短さのため墓が用意されていなかったのか、それとも何らかの混乱があったためか、最初からスメンクカラーのために用意された墓は現在も確認されていない。

イギリスの歴史ミステリ作家であるグレアム・フィリップス(Graham Phillips)は王家の谷 KV55をスメンクカーラーの墓とし、アクエンアテンの妃の一人(ティイ)のものと思われる女性の棺、陵墓を再利用してスメンクカーラーの墓に充てたとしている。

棺は顔が判別できないほどに右目を残してことごとく破壊され、頭部のウアジェト女神と顎鬚は後から加えられ無理矢理男性の型に直されたことは一目瞭然である。 またその陵墓は文字の類ひとつない粗雑な未完成の墓であり、壁の加工も粗末で地下水の浸水により、発見当初棺は開いて防腐処理されたはずの遺体はすでに腐って白骨化していた。

しかし、ザヒ・ハワス等、KV55をアクエンアテンの王墓と位置づけている研究者もおり、混乱は未だに解決をみない。

KV55から発見されたミイラはエジプト考古学博物館で保管されているが、棺が破壊されていたため発見当時には既に白骨化していた。 このため、死因に関しても過労死説、殺害説などがあり不明。 発見された遺体は男性のものであるが、その腕はなぜか女性の形(片腕を胸に置き、もう片方の腕を身体に沿って下げる)で納棺されていた。

頭像とされるものが発見されており、容姿はある程度判明している。 =ただこれもまた奇妙なことに、男性なのに胸部が女性のように膨らんでいたり、と謎が多い=

また、ツタンカーメンの第二の棺とカノプス壷に収められたミニチュア棺型の臓物容器は、いずれも元来スメンクカーラーのために作成された副葬品であることが確認されている。  =X線などによる「潰された」カルトゥーシュの精査、およびハワード・カーターのツタンカーメン王墓発掘の際の手記などによる=

そのほかツタンカーメン王墓で出土した副葬品の内、かなりのものがスメンクカーラーの物であったことも判明している。 これらの証拠から、スメンクカーラーが実在した可能性は高いと見られているが・・・・・・。

ツタンカーメンー38-

・・・・・・続く・・・・・・

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探検家・冒険家 =15-⑦=

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~ ツタンカーメン! その父親と母親は誰なのか? 驚愕の真実とは ~

ツタンカーメンー32-

 尽きせぬ謎と魅力を秘めた古代エジプトのミイラは見る者の想像をかきたて、心をとらえる。 だが、かつては彼らも、私たち同様この世に生を受け、人を愛した生身の人間だった。

私たちは太古の死者の尊厳を重んじ、彼らの安らかな眠りをみだりに乱すような行為を厳に慎むべきだろう。

とはいえ、古代エジプト王であるファラオについては、そのミイラを調べなければ解き明かせない謎があるのです。

ツタンカーメンの呪い】から始まった“ツタンカーメン”への謎の解明に科学が迫る・・・・ザヒ・ハワス

ツタンカーメンー26-

 私たちは2005年にツタンカーメン王のミイラをCT(コンピューター断層撮影装置)で調べ、その死因がそれまで有力とされていた頭部の打撲ではないことを立証できた。 また、ツタンカーメンがわずか19歳で死亡したこと、それも左脚の骨折後まもなく息を引きとった可能性があることもわかった。

そして今回、この若き王のミイラにさらに深く探査のメスを入れ、その誕生と死にまつわる驚くべき事実を明らかにすることができた。 私にとって、ツタンカーメンの生と死は、結末が書かれていない壮大なドラマのようだ。

“第1幕”が始まるのは、ツタンカーメンが生まれる数十年前の紀元前1390年ごろ。 偉大なるファラオ、アメンへテプ3世が第18王朝の王になったときである。

ユーフラテス川流域からナイル川の第4急湍(ナイル川で流れが急な難所の一つ)まで、南北1900キロにわたる一大帝国を支配し、想像を絶する富を手にした。

強大な権力をもつ王妃ティイとともに、37年間エジプトを治め、アメン神をはじめとする祖先の神々を祭った。 その治世には、平民たちも繁栄を享受し、エジプトの支配下に置かれた外国からの莫大な貢租や献上物で国庫は大いに潤った。

第1幕のテーマが伝統と安定だとすれば、“第2幕”のそれは反逆だ。

アメンへテプ3世の死後、王位を継いだのは、次男のアメンへテプ4世だった。 この新王は奇妙な夢想家で、アメン神など国家の神殿に祭られた神々への信仰に背を向け、日輪をかたどった太陽神アテンを唯一の神として崇拝するようになった。

王位に就いて5年目、「アテンに仕える者」という意味のアクエンアテンと改名し、自らを神格化した。 さらに、長く都が置かれていた宗教の中心地テーベを捨てて、約300キロ北にある現在のアマルナに都を移し、美しく偉大なる王妃ネフェルトイティとともに、アテン神に仕える高位の神官として国を治めた。

この時代には、美術作品にも革命の影響が及んだ。 アクエンアテンの彫像やレリーフ(浮き彫り)は、歴代のファラオのような理想化された姿ではなく、顔が長く、唇がぶ厚く、下腹が出た、妙に女性的な姿に描かれている。

アクエンアテン時代の末期には、統治が混乱し、謎に包まれた空白の期間がある。 ごく短い期間に、一人、もしかしたら二人の王が、アクエンアテンの共同統治者か後継者、あるいはその両方として国を治めていたようだ。

多くのエジプト学者と同様、私も、これらの「王たち」の一人は王妃ネフェルトイティだったと考えている。 もう一人は、スメンクカーラーと呼ばれる謎めいた人物で、その素性についてはほとんど何もわかっていない。

確かなのは、“第3幕”が始まったときには、9歳の少年が王位に就いていたことだ。 その名は「アテン神の生き写し」を意味するツタンカーテン。

ツタンカーメンー20-

 王位を継いで2年もしないうちに、王妃のアンケセンパーテン(アクエンアテンとネフェルトイティの娘)とともにアマルナの都を捨ててテーベに戻り、旧都の繁栄と栄光をよみがえらせた。

王と王妃は、それぞれツタンカーメン、アンケセナーメンと改名し、再びアメン神を奉じる決意をエジプト中に知らしめた。

ドラマの幕はここで下りる。

王位に就いて10年で、ツタンカーメンは跡継ぎを残すことなくこの世を去り、遺体は急きょ、ある個人の墓としてつくられた小さな墓に埋葬された。

アクエンアテンの異端信仰に対する反動で、その後のファラオは、ツタンカーメンも含めアマルナの王たちの事跡をほぼすべて歴史から消し去った。

皮肉にも、そのおかげでツタンカーメンの遺体は現代まで保存されたのだ。 死後100年とたたないうちに墓の位置は忘れ去られ、その上に建物ができた。

イギリス貴族を中心に遺跡発掘の資金援助を受け、1916年からカーナヴォン卿の援助を受けるハワード・カーター(Howard Carter)がエジプトの王家の谷発掘を開始。≪前節参照≫

そして、援助の契約が切れる1922年、「世紀の発見」と言われるツタンカーメン王の墓を発見した。 1922年に発見されたときには、ほぼ手つかずの状態で、5000点以上の副葬品が残っていた。

それでも、これまでの調査では、この若き王の家系をたどることはできていなかった。

ツタンカーメンー33-

  =資料・アンケセナーメ・ホルエムヘブ

アンケセナーメン(Ankhesenamen,紀元前1344年頃-不明)は、エジプト新王国時代の第18王朝のファラオ・アクエンアテンと正妃ネフェルティティの三女であり、ファラオ・ツタンカーメンの妻である。

当初の名をアンケセンパーテン(Ankhesenpaaten)といい、実父アクエンアテンの妻だった時期もあるが、アクエンアテンの死後、異母兄弟ツタンカーメンの妻となったさいにアテン神からアメン神に信仰を変えアンケセナーメンと改名した。

ツタンカーメンとは幼なじみだったといわれ、若くして亡くなったツタンカーメンの棺の上に(発掘時)置かれていた、ヤグルマギクの古く乾燥した花束は王妃アンケセナーメンの贈り物との説もテレビで流されている。

ツタンカーメンの早世後は、ファラオを継いだアイの妻となるが、アイは、祖母ティイの兄弟にあたるといわれ、実際に祖父アメンホテプ3世の時代から名を馳せていた神官であるので、年齢差が相当大きかったのではないかと思われる。

この新しい夫には前夫ツタンカーメン暗殺説もあり、それらを踏まえたうえで、アンケセナーメンは、小説や漫画では運命に翻弄される悲劇の王妃として描かれることが多い。 また、アンケセナーメンはアイとの結婚を嫌い、ヒッタイトの王、シュッピルリウマ1世にその王子を婿に迎えて国王としたいとの手紙を送った。

シュッピルリウマ1世は、王子ザンナンザをエジプトに送ったが、途中で暗殺された。 暗殺したのはアイだという説がある。 一方で、アンケセナーメン自身がアイと共謀しツタンカーメンを暗殺したという説もある。

なお、王家の谷で2005年に発見された墓であるKV63は、ツタンカーメンの墓に近く、内容物も同時代のものであったことから発見当初はアンケセナーメンのものとも推測されたが、その後の調査により、墓ではなく、埋葬時に使われた道具(ミイラ作り用のベッドやナトロンを含む)を収めた場所と判明した。

2010年に行われたDNA解析により、王家の谷の墓KV21で発見された2体のミイラのうちKV21Aがアンケセナーメンのものであるという説が提唱されているが、確証は得られていない。 また、遺体の損傷がひどくいかなる姿だったかすらわからない有様となっている。

ホルエムヘブ(Horemheb、在位:紀元前1323年 – 紀元前1295年)は古代エジプト第18王朝最後のファラオ。 名は「ホルス神は歓喜する」の意。 アメンホテプ3世の時代から王家に仕えた軍人であり、ツタンカーメンの時代には将軍の地位にあった。

紀元前1323年、高齢だったアイの死後、アイが後継者に指名していた軍司令長官のナクトミン(Nakhtmin)を打倒し、彼が即位した。王女ムトノメジットを娶っていたため、王朝の継続性は維持された。

即位後は軍人出身者を神官に任命し、王朝中期以来ファラオの権力を脅かしていたアメン神官団を統制下に置くことでファラオの権力を回復した。

自らをアメンホテプ3世の後継者として位置づけ、アクエンアテン以降四代の王の存在を抹殺、これら諸王の業績を自らのものとしているが、アマルナ諸王特にアクエンアテンの評判が悪かったためか、当時は特に非難を受けることもなかった。

関係が良好であったアイの事跡をも抹消している理由は不明であるが、ナクトミンを重用したことに対する反感と、簒奪者としての汚名から友人であった彼を守るためと二つの理由が考えられる(彼はナクトミンの記念碑及び彫像も破壊している)。

アマルナ時代以前の旧制への復帰を図り、優秀な腹心であり親友でもある軍司令官パ・ラメス(ラムセス1世)の補佐を受け腐敗しきっていた政界、官界及び軍隊を改革、大きな成果を挙げた。 統治は悪徳に厳罰をもって臨む厳格なものであったが、民衆からは支持された。

即位した時すでに高齢で、子には恵まれなかったため、遺言によりパ・ラメスがファラオとして即位した。ホムエルヘブの死を持って、第18王朝は終焉したとみなされる。 尚、ホムエルヘブは王家の谷のKV57に埋葬されている。

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・・・・・・続く・・・・・・

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