騎馬遊牧民族の移動・匈奴 (4)

= 漢の劉邦が恐怖した匈奴の勃興と衰退 =

匈奴ー4-1-

前漢の武帝は、月氏と手を組んで匈奴を挟撃しようと考え、月氏への使者を募集した。

大月氏はかつては単に月氏と呼ばれ、匈奴と争っていたが冒頓単于に攻められて大敗し、冒頓の子の老上単于の軍に敗れて王が殺され、老上はその王の頭蓋骨をくりぬいて杯にしたと言う。

その後、月氏の一部は西へと逃れ、パニール高原を越え 大月氏とよばれるようになった。

漢はこのことから大月氏は匈奴のことを恨んでいるに違いないと考え、匈奴の挟撃作戦を武帝は狙った。 郎であった張騫が使者に選ばれた。

張騫を筆頭に100人余りの使節団が、漢の勢力圏である隴西(甘粛)から出た直後に 匈奴に捕らえられた。

匈奴の軍臣単于は 張騫の目的が大月氏への使者であると知ると「月氏へ。 漢が使者を送れる? もし吾が漢の南の越へ使者を出したら、漢はそれを許すか?」と言い、張騫をその後十余年間に渡って拘留した。

匈奴は張騫に妻を与え、その間に子供も出来たが、張騫は漢の使者の証である符節を手放さなかった。

ある時、監視が緩まったのを機に脱出し、西へ行くこと数十日、大宛に到着した。

大宛は 漢との通商を望んでいた。 王は事情を聞き、張騫たちを隣国の康居まで道案内をつけ。 その康居も、張騫たちを目的地である大月氏まで送ってやった。

大月氏に着いた張騫たちは、漢とともに匈奴を挟撃してもらう旨を伝えたが、すでに 大月氏には匈奴を討つ必要性がなくなっていたので、明晰な返答がもらえなかった。

1年後、張騫たちは西域南道を通って帰ったが、再び 匈奴に捕まり、1年あまり抑留された。

張騫たちは 匈奴の混乱に乗じて再び脱出し、13年ぶりに漢に帰国した。 出発時にいた100人余りの使者は、張騫と従者の甘父の二人だけとなった。 無論 匈奴の妻子を伴っての帰国であった。

やがて漢と大宛が国交を結び、武帝は大宛の汗血馬を愛好するようになった。

武帝はある時、汗血馬が大宛の弐師城にいることを知ると、千金と金製の馬を持たせた使者を大宛に送り、千金と金製の馬で汗血馬を買おうとした。

大宛は漢の足元を見て断ったため、 武帝は怒り、李広利(武帝寵愛の李夫人の兄)を弐師将軍に任命し、太初元年(前104年)、大宛討伐を行った。

しかし、蝗害と飢餓で一つの城も落とすことができず、李広利は敦煌まで撤退した。 武帝は李広利を玉門関から 一歩も中には入れさせなかった。

李広利は 弁明の書を送った。 兵力が不十分だった、もう一度遠征軍を出すことを請うたが、武帝は激怒し、李広利らの入国禁止を厳命した。

武帝は大宛討伐を諦めることができなかったので、太初3年(前102年)、一度目の遠征軍以上の軍備を整え、これ以上ないほどの大軍(援軍を含め15万以上)で、再び大宛討伐の遠征軍を編成し、李広利に託した。

大宛の軍は漢軍を迎え撃ったが、漢軍の方が優勢 大宛の軍は籠城することにした。

李広利は城の水源を絶ち、40日余りも包囲した末、外城を破壊し、大宛勇将の煎靡を捕虜とした。 大宛貴族たちは 汗血馬を差し出し拒否が事態の発生因だと 相談し 大宛王の毋寡を殺し、漢軍にその首と汗血馬を差し出し、停戦を申し込むことにした。

李広利らはこれを承諾し、軍を引いた。 大宛王が殺された故、漢は大宛貴族であった昧蔡という者を新たな王とした。

その後、大宛貴族たちは 昧蔡を売国奴として殺害し、毋寡の弟を大宛王に即位させ、その子を人質として漢に送っている。

張騫は 西域の知識や匈奴の知識を 若き将軍(霍去病や衛青など)に教え軍事的戦略 また 烏孫などへの外交的攻勢をかけています。 武帝は紀元前87年に崩御していますが。

匈奴ー4-2-

壺衍鞮単于(ゴエンタイゼンウ)は即位(在位;紀元前85年ー前68年)すると、漢と和親を求めることにした。

一方、左賢王と右谷蠡王は単于に即位できなかったことを妬み、衆を率いて南の漢に帰順したいと考えたが、自ら実行できないので、盧屠王を脅して共に西の烏孫に降り、匈奴を撃つことを謀った。

しかし、盧屠王はこれを単于に報告した。 壺衍鞮単于は人を使ってこれを尋問し、右谷蠡王は不服とし、その罪を盧屠王になすりつけ、国人も皆これを冤罪とした。 それ以降 左賢王と右谷蠡王は 龍城の会議に出席しなくなった。

壺衍鞮単于は年少で即位したため、母閼氏が不正な統治を行い、国内は乖離し、常に漢の襲来を恐れていた。 そこで 重鎮の衛律は単于に19年間匈奴に抑留させていた不降者の蘇武や馬宏等を漢に帰国させ、漢と和親を謀った。

始元5年(前82年)、匈奴は左右部の2万騎を発し、漢の辺境を侵した。 漢軍はこれを追撃し、9千人を斬首獲虜し、甌脱王を生け捕った。

匈奴は甌脱王が漢に捕われたのを知ると、恐れて西北に遠く去り去っている。

重鎮・衛律は 常に漢との和親を説いていたが、匈奴が信用しなかったために、衛律の死後、匈奴は兵数に困り国益は 増々 貧しくなった。

壺衍鞮単于の弟の左谷蠡王は 衛律の言葉を信じ、漢と和親を謀り辺境を侵さなかった。 が、 始元6年(前81年)、単于は9千騎を遣わし受降城に駐屯させ 漢に備えた。

この時には 平和外交はの衛律は 既に他界し、左谷蠡王は この事件後に 死んでいる。

始元7年(前80年)、壺衍鞮単于は犁汚王に辺境を偵察させ、酒泉,張掖の警備が弱いと知ると、出兵して ふたたびその地を得ようと 右賢王,犁汚王の4千騎は3隊に分かれ、日勒,屋蘭,番和に侵入し 旧知を回復した。

占有した酒泉・張掖は属国の諸侯に分け与え、これより後、匈奴は張掖に侵入しなくなった。

匈奴ー4-3-

元鳳2年(前79年)、匈奴の3千余騎は五原郡に侵入し、数千人を殺害した。

この年、東胡の生き残りで 匈奴に臣従していた烏桓族が、歴代単于の墓をあばいて冒頓単于に破られた時の恥に報復した。 壺衍鞮単于は激怒し翌年 2万騎を発して烏桓を撃った。

漢の大将軍の霍光は、この情報を得ると、3万の騎兵を范明友に率いさせ、遼東郡から出陣させた。

范明友は匈奴の後を追って攻撃をかけたが、匈奴はもう引き揚げた後だった。

匈奴の兵から手痛い目を受けたばかりの烏桓は、范明友軍に再び 攻撃され、6千余りの首級を取られ 3人の王の首ははねられている。

匈奴は この期間 漢の勢力への出兵は できなくなった。 そこで烏孫を攻撃し、車延,悪師の地を取った。 烏孫公主は上書し、漢に救援を要請した。

漢では昭帝が崩御し、宣帝が即位していた。 烏孫の昆弥(コンビ:烏孫の君主号)はふたたび上書して救援を要請した。

本始2年(前72年)、漢は烏孫の要請を受け、五将軍率いる16万の軍団を進軍させた。

五将軍率いる兵10数万騎が塞(長城)を出て2千余里、校尉の常恵は烏孫西域の兵を指揮し、烏孫の昆弥は 自らの諸侯 以下5万余騎を率いて西方から入り、総勢20数万の将兵が匈奴を攻撃した。

匈奴は漢が大軍を発したのを聞くと、老弱は奔走し、畜産を駆って遠く逃げ去った。

一方、常恵が指揮する烏孫軍は戦功が多大で、常恵は長羅侯に封じられた。 しかし、匈奴被害は甚大で、烏孫を深く怨むこととなった。

その冬、壺衍鞮単于は烏孫を報復攻撃した。 しかし、その帰りに大雪にあって多くの人民と畜産が凍死した。

更に この衰退に乗じて 北の丁令、東の烏桓、西の烏孫に匈奴陣営は攻撃され、多くの死傷者が出て、多くの畜産を失った。

この敗北で 匈奴に従っていた周辺諸国も離反し、匈奴は大虚弱となった。

その後も漢の攻撃に遭い、辺境を侵す(財貨の略奪)などが出来なくなり、地節2年(前68年)に壺衍鞮単于は 失意の中で死去し、子の左賢王が虚閭権渠単于として即位した。

虚閭権渠単于(ゴロゴンゴゼンウ;在位紀元前68年- 紀元前60年)が 地節2年(前68年)に即位すると、右大将の娘を大閼氏(ダイエンシ:皇后)とし、先代の顓渠閼氏を退けた。

顓渠閼氏の父・左大且渠はこのことを怨んだ。 この時の匈奴は 辺寇ができないほど衰弱していた。 漢は外城を廃止し、民百姓を休めた。

虚閭権渠単于はこれを喜んで聞き、貴人を招いて漢との和親を求めた。 左大且渠はその事を心害し、呼盧訾王とともに各万騎を率いて南の長城付近で猟をすることを請願した。

地節4年(前66年)猟の当日 虚閭権渠単于一行がまだ到着しないうちに、左大且渠と呼盧訾王は単騎にて 漢に亡命し、匈奴に寇略したいと皇帝・宣帝に訴えた。

宣帝は 辺境の騎兵を発し 要害処に駐屯させ、大将軍,軍監,治衆ら4人に5千騎を率いさせ、長城の防御を固めた。

猟をする目的の侵略は 時の匈奴の有力者二名の亡命で 侵入叶わず兵を引いた。 か、この年、匈奴は大飢饉となり、人民,畜産16~7万が死んだ。

地節3年(前67年)、西域の城郭諸国(オアシス都市)が匈奴を挟撃して、車師国を奪取し、その王及び民衆を捕えて去った。 虚閭権渠単于は車師王昆の弟の兜莫を車師王とし、その余民を収めて東に移住させ、あえて故地に住まわせなかった。

匈奴には 車師国を統治・維持するゆとりすらなくなっていた。 この間隙を縫って 漢が屯士を派遣し 車師の地を開墾した。

クリム盆地(タクラマカン砂漠)で匈奴と漢の勢力が 激突し 城郭諸国の争奪戦が始まって行く。

これらの城郭諸国には シルクロードの富が充満しているのです。

匈奴ー1-3-

江都公主(コウトコウシュ)は 江都王劉建(武帝の甥)の娘。 名は細君。 烏孫公主(ウソンコウシュ)とも呼ばれている。

江都公主の父の劉建は、淫乱で残虐、しかも武帝に対して謀反を起こしたという罪で自害させられた。

その後、元封年間に 江都公主は漢と烏孫との友好の印として、はるか遠くの烏孫の地に嫁ぎ、烏孫王猟驕靡の夫人になった。

その後、猟驕靡が老いたため、遊牧民族である烏孫の習慣(レビラト婚)に従い、彼の孫の岑陬軍須靡に嫁ぐよう命令された。

この習慣には未亡人を保護する目的があったと思われるが、夫の孫の妻に、しかも夫が存命の内からその孫の妻になるという事は、彼女ら漢の人間の通念からすれば、受け入れがたい事であり、この事を江都公主は武帝に訴えた。

武帝は当時、烏孫と同盟して匈奴を攻めていたため、烏孫の習慣に従うようにと彼女に伝えた。

その後、江都公主は岑陬軍須靡の妻になった。 江都公主はそのまま烏孫の地で病死した。彼女の作とされる望郷の漢詩が現代までも愛唱されています。 天山山中の景勝地“天池”に烏孫公主の御廟があり、近くまでは行きますが 未だに訪れてはいません。

匈奴ー1-2-

_______ 続く _______

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騎馬遊牧民族の移動・匈奴 (3)

 = 漢の劉邦が恐怖した匈奴の勃興と衰退 =

匈奴ー3-1-

烏維単于(ウイゼンウ)は、伊稚斜単于が元鼎3年に崩御すると、単于の位(紀元前114年-紀元前105年)に就いた。

漢の武帝は南方の越族の反乱(越族はベトナムに逃れる)を鎮めることで、匈奴には攻撃しなかった。 匈奴の方も、漢の国境地帯に侵入することはなかった。

元鼎6年(前111年)、南方の反乱を鎮めた漢は、公孫賀(妻は武帝の寵姫・衛子夫の姉)に1万5千の騎兵をつけて、九原から出撃させた。 また、趙破奴にも1万余騎をつけて令居から出撃させた。

公孫賀は2千余里進み、趙破奴は 数千里進んで匈奴河水まで行かせたが、1人の匈奴人も発見できなかった。

漢は郭吉を匈奴に送り、匈奴に漢の臣下となるよう交渉させている。

単于烏維は怒って郭吉を留置し、北海(バイカル湖)のほとりまで流刑としたが、漢の国境地帯に侵入する勇気がなく、たびたび使者を漢に送っては講和を申し込んだ。

漢は陽信を送り、講和する条件として、単于の太子を人質として漢に差し出すように要請した。 しかし、漢側が公主と絹・綿・食物などの品々を匈奴に送ってから講和する従来の立場と違うとし、使者を送り返し、 再び 漢は使者を匈奴に送ったが、単于が漢の高官とでないと交渉はできないとし、匈奴の貴族を使者として武帝の下に送った。

しかし、その使者が漢に到着すると病気で死んでしまい、漢は高官として路充国を使者として送ったが、

烏維単于は 匈奴の貴族が漢によって殺されたと思いこみ、路充国を留置してしまった。

この結果 交渉は決裂し、匈奴はたびたび漢の国境地帯に侵入するようになった。 元封6年(前105年)に、単于烏維は亡くなり、 子の烏師廬(児単于)が後を継いだ。

児が単于となった(姓は攣鞮氏、名は烏師廬と言う)児単于(ジゼンウ)は西北に移動し、左方(東方)は雲中郡、右方(西方)は 酒泉郡・敦煌郡と境を接した。

漢の朝廷は 匈奴を分裂させるため、2人の使者を単于と右賢王に送った。 しかし匈奴領内に入ると2人とも児単于の所へ連れて行かれ、児単于は怒り 2人の使者を留置した。

漢は 二人の使者を再び寄越したので、その都度留置し、留置された使者は合わせて十組余りにもなったと言う。

冬、匈奴では大雪が降り、飢えと寒さで死ぬ家畜が続出する。 更に 児単于は年が若く、戦争や虐殺を好んだ。 民は落ち着きを無くし 匈奴の内部は不安定な状況に陥った。

匈奴の左大都尉は児単于を殺そうと考え、漢と密通し 謀を企てた。

太初2年(前103年)春、漢は2万騎を謀略に、朔方から進軍させた。 しかし、謀議が発覚し、左大都尉は単于に処刑されていた。 児単于は左方の兵をくり出して その軍をすべて降伏さている。

翌年の太初3年、児単于は受降城を攻撃する途中で病死してしまった。 児単于の子はまだ幼く、父・烏維単于の弟の右賢王呴犁湖が単于に選ばれた。

匈奴ー3-3-

呴犁湖単于(コウリコゼンウ 在位;前105年-前102年)は 元封6年の児単于が即位で 呴犁湖は右賢王となっていた。

呴犁湖単于が即位すると、漢は 五原塞から数百里、遠い場合では千里余りの地点に、城壁や物見櫓を築かせ、防御を固めた。

元封6年の秋、匈奴は大挙して定襄郡と雲中郡に侵入し、数千人の住民を殺害したり、連れ去ったりし 高官数十名を撃殺した。

さらに、漢が築いた砦や物見櫓を破壊した。 また、単于は右賢王に命じて酒泉・張掖に侵入させ、数千人の住民を連れ去ろうとしたが、漢の援軍に住民を取り戻されている。

呴犁湖単于は漢の弐師将軍李広利が大宛(中央アジア・フェルガナ地方)遠征から帰る途上を遮断しようとしたが間に合わなかった。 その冬、呴犁湖単于は病死した。 弟の左大都尉の且鞮侯が立った。

匈奴ー3-2-

且鞮侯(シャテイコウ)は、太初3年(前102年)、兄・呴犁湖単于の即位で、且鞮侯は左大都尉となったが、その年の冬に呴犁湖単于が病死し、単于に即位(在位:紀元前102年-紀元前96年)した。

太初4年(前101年)、漢は大宛の討伐(広利の遠征、大宛の汗血馬を求める)で その威勢は諸外国を震撼させた。 単于且鞮侯は 漢を恐れて、今まで留置していた漢の使者たちを全員帰国させ、敵意がないことを伝えている。

漢は 中郎将の蘇武を派遣して、単于に返礼として多額の贈物を送った。 単于は次第につけあがって、傲慢な態度をとるようになっていった。

天漢元年(前100年)、匈奴に捕まっていた趙破奴が脱走して漢に帰国した。

翌年の天漢2年、漢の武帝は 弐師将軍の李広利率いる3万の騎兵を酒泉から出撃させた。 李広利は 右賢王を天山で撃ち、首虜万余級を得て帰還している。

漢の武帝は 再び 因杅将軍の公孫敖を西河から出撃させ、強弩都尉の路博徳と涿邪山で合流させ、騎都尉の李陵率いる歩兵5千人を居延の北千余里から出撃させた。 武帝は匈奴を追い詰めて行った。

紀元前99年(天漢2年)、匈奴討伐に向かった李広利の支援として李陵が5千の兵を与えられた。だが、李陵は李広利と合流前に匈奴3万の軍勢と遭遇 李陵は包囲され 混戦状況になった。

李陵は戦い、兵力の差と支援が無かったために 矢尽き 降伏してしまう。 李陵の敗戦と降伏に激怒した武帝は 李陵一族を処刑する。 李陵を弁護した親友・司馬遷は宮刑に処され、その鬱憤が【史記】を司馬遷に書かしめるのです。

匈奴ー3-4-

天漢4年(前97年)、漢の武帝は 弐師将軍・李広利率いる6万の騎兵と10万の歩兵を朔方から出撃させ、強弩都尉の路博徳率いる1万、遊撃将軍の韓説率いる3万を五原から出撃させ、因杅将軍の公孫敖の4万を雁門から出撃させた。

この情報に匈奴は、遠く余吾水の北までの 足手の牧民を撤退させ、呴犁湖単于は10万の騎兵を率いて李広利と河南で戦闘となった。

李広利軍は匈奴10万の軍団と激戦 一進一退の攻防、韓説軍は何の成果もなく、因杅将軍の公孫敖は左賢王と戦ったが敗北して引き揚げている。

激突が続く中 太始元年(前96年)、単于且鞮侯は死に、長子の左賢王狐鹿姑が単于となった。

狐鹿姑単于(ゴロクコゼンウ)単于且鞮侯の長男として生まれる。 単于且鞮侯には、2人の子がおり、長男は左賢王となり、次男が左大将となっていた。

単于が臨終の際、長男の左賢王(狐鹿姑単于)を太子に立てた。 しかし、貴人は左賢王が任地からまだ到着しないうちに、左賢王には病があるとし、弟の左大将を立てて単于にしょうとした。

左賢王はこれを聞くと、敢えて王庭に進まなかった。 弟の左大将は人を使って左賢王を召して譲位しようとした。 左賢王は病と言って辞すが、左大将は兄を説得し 遂に左賢王は単于になることを決めた。

太始元年(前96年)、且鞮侯単于が死ぬと、長子の左賢王が立ち狐鹿姑単于(在位;前96年-前85年)となる。 狐鹿姑単于は弟の左大将を左賢王としたが、数年で病死したので、その子の先賢撣を日逐王とし、狐鹿姑単于の子を左賢王としている。

征和3年(紀元前90年)、匈奴は上谷・五原に侵入し、吏民を殺略した。その年、匈奴はふたたび五原・酒泉に侵入し、両部都尉を殺害。

征和3年の秋、武帝は 弐師将軍の李広利に三度 兵7万を率いさせ五原に、商丘成率いる3万余の兵を西河に、莽通率いる4万騎を酒泉の千余里に派兵した。

匈奴軍団と李陵(匈奴に投降舌別人)率いる3万余騎に 商丘成軍は追撃され、浚稽山で合戦となった。 転戦すること9日、商丘成の兵は善戦し、匈奴軍は蒲奴水に至ると不利とみて撤退した。

莽通の軍が天山に至ると、匈奴は大将の偃渠と左右呼知王率いる2万余騎に漢兵を要撃させるが、漢兵の強さをみると 匈奴軍は撤退した。

李広利は 五原に出兵するその前夜、澎侯・劉屈氂(彼の縁戚で丞相 武帝の甥・劉勝の子)と、昌邑王・劉髆(彼の妹・武帝の寵妃の李夫人の子)を皇太子に推してもらえるよう密談をした。

翌日 見送りに来た劉屈氂に 李広利は「貴公が昌邑王を皇太子に立てるよう陛下に請願されることを切望します。 もし、昌邑王が帝に即位されるならば、貴公は以後も憂いること無いでしょう」と言って別れていた。

後に、内者令の郭穰が、「劉屈氂夫人は、夫が武帝の叱責を受けたため呪詛し、李広利と共に昌邑王を帝位につけるための祈祷を行なっている」と 武帝に報告した。

そのため、武帝は劉屈氂を逮捕して、引き回しの末に腰斬の刑に処し、妻子も斬罪となった。 またこれに連座して、李広利の妻子も処刑されていた。

李広利が塞(長城)を出た情報に、匈奴は右大都尉と衛律率いる5千騎に夫羊句山狹において李広利軍を要撃させた。

李広利軍は 匈奴の胡騎2千と戦闘になり、敵兵死傷者を数百人出す緒戦の勝利を納め 勝ちに乗って北へ追撃した。 范夫人城に至ると匈奴は奔走した。

李広利は護軍の将2万騎を先行させ 郅居之水を渡った。 1日して左賢王と左大将に遭遇、匈奴と漢軍が合戦すること1日、漢軍は左大将を殺した。 李広利軍7万が集結し 匈奴軍10万が翌日から対決した。 激戦が終日続いた。

狐鹿姑単于は漢軍が疲れているのを知ると、自らの将5万騎で李広利を遮撃した。さらに夜、漢軍が塹壕を掘っていたところを襲撃すると、漢軍は大いに混乱し敗れた。

遂に 弐師将軍・李広利が降った。

李広利は 戦いの中で「妻子が武帝に処刑された」この報を聞き、失意ののち 匈奴に投降した。

匈奴ー3-5-

匈奴で軍臣単于が即位し、漢で景帝が即位。 互いに友好条約を結んでは破ることを繰り返し、外交関係は不安定な状況であったが、景帝は軍事行動を起こすことに抑制的であった。

しかし、武帝が即位すると攻勢に転じ、元朔2年(前127年)になって漢は将軍の衛青に楼煩と白羊王を撃退させ、河南の地を奪取することに成功した。

元狩2年(前121年)、漢は驃騎将軍の霍去病に1万騎をつけて匈奴を攻撃させ、匈奴の休屠王を撃退。つづいて合騎侯の公孫敖とともに匈奴が割拠する祁連山を攻撃した。

匈奴は重要拠点である河西回廊を失い、渾邪王を漢に寝返らせてしまった。

さらに元狩4年(前119年)、伊稚斜単于は衛青と霍去病の遠征に遭って大敗し、漠南の地(内モンゴル)が漢に奪われるなど 形勢は完全に逆転、烏維単于の代には漢から人質を要求されるようになった。

また 漢が匈奴に代わって西域を支配すると、匈奴の収入が途絶えた。 国力は衰退した。

狐鹿姑単于は李広利の貴臣ぶりを知ると、娘を嫁がせ、先に降った衛律よりも尊寵した。

李広利は匈奴の王である狐鹿姑単于に重用されたが、同じく漢の降人であった衛律の上位として扱われたため、衛律に妬まれ、のちに彼の讒言によって処刑されています。

後年、狐鹿姑単于は漢と和親を求めるようになったが 病にかかってしまう。

始元2年(前85年)、狐鹿姑単于が死ぬと、世継ぎ問題で揉めた末、子の左谷蠡王が壺衍鞮単于となった。

トルイー10-4

_______ 続く _______

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