紀行エピローグ・写真随筆 11

紀行エピローグ3=敦煌・哈密地区=

エピローグⅢー2-1

紀元前2世紀前半に匈奴に冒頓単于が立ち、月氏を攻めてこの地・敦煌地帯は匈奴の支配下に入る。 冒頓単于と王昭君のロマンスはご存知でしょう。

武帝の代になって西域に対して積極的に遠征を行い、この地に敦煌郡を設置しました。 武帝は衛青とその甥の霍去病の両将軍を登用して、匈奴に当たらせ、幾度と無く匈奴を打ち破り、西域を漢の影響下に入れたのです。

大月氏へ張騫を派遣・衛青とその甥の霍去病の両将軍の活躍・李広利の大宛(現/中央アジアのフェルガル地方)を征服 そして 李広利一家の謀殺 司馬遼の憤慨  これほどの独裁皇帝は空前絶後・・・・・

敦煌は 漢にとっての経済・軍事に於ける重要な拠点となり、厳しい政治を避けると言う事があり、税も物価も安く、住民は平和と豊かさを楽しんでいたようです。 近くにソグドのコロニーがあったと言うことですが詳細は不明です。

この頃の人口が3万8千ほどと言う記録があり、当時 敦煌には全漢国の20分の1が居住。  対現在中国の全人口比では 100分の1程度(現在の人口13万人、且 中華人民共和国の領土は前漢よりかなり広い)ですから この頃の敦煌がいかに栄えていたかがわかるでしょう。

ただしこの地区の住民は 漢政府により送り込まれた窮迫農民や犯罪者でした。 敦煌の住民が漢の中心地へと帰ることは禁じられていたのです。

五胡十六国時代には中央から自立した西涼がこの地に首都を置いている。 これ以後は沙州(現在の敦煌市)・瓜州(現在の瓜州県)と呼ばれました。

西涼は北魏によって滅ぼされ、北魏に於いても西域に対する拠点として重要さは変わらなかった。 魏晋南北朝時代は仏教が中国に布教した時代です。

また366年から僧楽僔によって莫高窟の掘削が始まっています。

エピローグⅢー2-2

しかし 安史の乱により唐政府の統制力が弱まり、この地は781年に吐蕃(チベット)の侵攻を受け、以後は 吐蕃の支配下に入っります。

100年間程 吐蕃の支配が続き、 唐と対立している吐蕃の支配下では交易が行われず 経済の動脈を絶たれた敦煌は一気に衰退しました。

北宋代に入り、タングート(チベット系民族)が河西回廊に西夏を建国、この地を占領します。

敦煌文書が莫高窟の耳窟の中に隠蔽されたのは この時代と考えられています。

その後に蒙古帝国が西夏を滅ぼし、引き続いて元の支配下に入りますが、この頃になると中国と西方を結ぶルートが南方の海の道へと移行し始め、この地の価値は下落し、寂れた町へとなって行ったのです。

その後、長らく忘れ去られた町となり、莫高窟も見向きもされませんでした。

1900年、この地にいた道士・王円籙が偶然に莫高窟中の第16窟の壁の中に隠されていた耳窟から大量の文献を発見しました。 王円籙も この地の地方官もこの文書の価値に無知で、この文書は放置されていたのです。

エピローグⅢー2-3

1907年にその噂を聞きつけてやって来た英国・オーレル・スタイン(前記載済み)が 王円籙を言い包めて 馬蹄銀4枚(約500ルピー、彼は印度在住)で、数千点余りの経典を英国・大英博物館に運び入れました。 この功績によりスタインはSirの称号を受けているのです。

翌年に仏国・ポール・ペリオが同じようにフランスへ持ち帰っています。

これを見聞きした清政府は ようやく敦煌文献の保護を命じ、大慌てで敦煌文書を北京へ移動しますが・・・・・・・

王円籙は 一部をまだ隠し持っており、その次にやってきた日本の大谷探検隊(1912年)やロシアのオルデンヴルグ探検隊(1914年)に数百点ほどを売り渡しているのです。

遅れてきた米国・ウォーナー探検隊(1924年)は壁画を薬品を使って剥ぎ 略奪して行きます。

このように持ち出され 剥奪された文献・資料・絵画が 東洋学の文献研究『敦煌学』の発足と成ったのです。

現在 莫高窟の城内は撮影禁止です。 ですが 暗闇の中から浮き上がる壁画の仏様の柔和な佇まいに 時を忘れさせてくれます。

多くの壁画は フランス・アメリカ・ロシアに持ち去られ、また 戦争当時には共産軍の宿舎に窟が使われた事で 破損は激しいく、残る仏画の部位が想像力を掻き立てます。

この地の仏師は 天山山麓の亀茲国(前記・クマラジュの生国)から回教勢力に追われて流入してきたのでしょう。 そして 日本の芸術に影響を与えて行ったのです。

では敦煌文献の価値 とは 何なのでしょうか、そして 敦煌学者の研究とは・・・

まず先に、どうしてこの文献が壁の中に封じ込まれることになったのかを考えてみましょう。 封じ込まれたのは11世紀前半 タングートの略奪を恐れて と推定されております。

経緯については2つの説があるのです。 「敦煌が西夏に占領された際 経典を焚書されることを恐れて隠したという説」 と 「不必要・価値のないものをとりあえず置いておいたという説」です。

井上靖さんの小説『敦煌』が採用している説は前説ですね。 他方 西夏朝は仏教を信仰しており経典を破壊すること自体がありえない との考え方。

この敦煌文献にはとうてい価値の無さそうなものが多数ある という疑問が指摘され、現在では二つ目の説がほぼ定説となっているのです。

ではなぜ当時価値がないと考えられたものが現代では大騒ぎされているのだろうか?

一番目がその量です。 総数で3万とも4万とも言われるその数は各分野にわたって資料を提供しているのです。

二番目がその年代です。 中国に於ける印刷術は五代十国時代から北宋代に飛躍的に進歩しました。 また、印刷時代に入った後も、正倉院の写経に代表されるような古い時代の文物を保存する意識を持ち続ける日本とは異なり、中国では刊本が普及すると、旧来の写本を保存しようという意識は生まれず、やがて忘れられてしまいます。

それゆえに唐代以前の写本は版本に取って代わられ、清代になるとほとんど存在しなくなっています。 敦煌文献の中には遺失した書物・文書が大量に存在しており、敦煌の中から復活した書物は少なくないのです。

三番目がそのバラエティです。 文献の大半は漢語で書かれており、内容は仏典です。 しかし他にチベット・サンスクリット・コータン・クチャ・ソグド・西夏・ウイグル・蒙古語など数種言語。

内容もゾロアスター教・マニ教・景教(ネトリウス派)などの経典、唐代の講唱の実態を示す変文、あるいは売買契約書や寺子屋の教科書などの日常的な文書も残っており、失われた言語・宗教をこの文献より一部復活させたり、当時の民俗・政治の実態を知る上で非常に貴重なのです。

四番目にその無価値さゆえです。 無価値と判断したものを苦労して保存しようとする者はまずいないでしょう。 物が現存する可能性はそれこそ奇跡に近いことです。 その奇跡の成果である唐代の土地台帳などから均田制など唐代に行われていたとされる諸制度が実際にどのように運営されていたかの研究が進められているのです。

《 「無価値さゆえに 価値がある」正に“パラドックス”ですね、学者の考えは面白い。             私は やはり 井上靖流解釈が いいですね・・・・》

エピローグⅢー2-4

ペリオはパリに生まれ、仏領インドネシアのハノイにあるフランス極東学院に就職、学院の図書館のために漢籍を購入するため1900年に北京へ派遣されました。

そこで義和団の乱に巻き込まれ、包囲された北京の外国公館地域に止まっていたのです。

包囲戦の中でペリオは2度敵地に潜入います。 冒険心から。 1度は敵の軍旗を奪うため、2度目は包囲された人々のために新鮮な果物を得るためだった と 自伝しています。

その勇敢さによってレジオンドヌール勲章を授与され、ハノイに戻り、22歳で極東学院の中国語教授となっいました。

1906年6月17日、ペリオは 軍医のルイ・ヴェランと写真家のシャルル・ヌエットとともにパリを出発して中央アジア探検に向かったのです。

3人は鉄道でモスクワからタシケントに赴き、そこから中国領トルキスタンに入っています。 探検隊は8月末にカシュガルに到着し、ロシア総領事館(前記・橘瑞超も関係した色満ホテル )に滞在しています。

中国の官憲はペリオの流暢な中国語に驚き、初めは密偵かと付け回りますが 探検準備のためにさまざまな便宜を図ってくれたようすです。 探検隊はトゥムチュクを経てクチャに入ります。

そこで失われたクチャ語で書かれた文書を発見し、探検隊はさらにウルムチ滞在中、敦煌出土の法華経古写本を見て、敦煌に赴いたのです。

敦煌の莫高窟はイギリスの探検家スタインが前年の1907年に訪れ、1万点の古文書を持ち去っていたが、まだ残された文書も多かったのです。

ペリオは莫高窟を守っていた王道士と交渉して、蔵経洞に入ることを許され、ペリオの流暢な中国語が役立ったのです。 3週間にわたって蔵経洞の文書を調べたペリオは、最も価値のある文書数千点を選び出し、王道士に売却を交渉しました。

莫高窟の再建を計画していた王道士は500両(約90ポンド)で売ることを承諾したのです。 スタインは中国語を知らなかったので、彼が持ち帰った文書は価値のないものも多かったが、中国語を含め13ヶ国語に通じるペリオが選んだ文書はいずれも逸品ぞろいだった。 そのなかには新発見の新羅僧・慧超の『往五天竺国伝』も含まれて 国宝級です。

一行は1909年10月24日にパリに帰着したが、意外にも 極東学院の同僚たちから、公金を浪費して偽造文書を持ち帰ったと ペリオは激しい非難を浴びせられます。

彼らは既にスタインが敦煌文書を持ち去った後には何も残されていなかったと考えていたからです。 しかし1912年にスタインが探検旅行記を出版し、敦煌にはまだ大量の文書が残されていたと公表したため、ペリオの疑惑は晴れたという話ですが・・・・

その後、ペリオは 『敦煌千仏洞』など多くの研究書を発表して東洋学に大きな影響を与え、第一次世界大戦中はフランス武官として北京に滞在し、1945年にパリでガンのため死去しました。

「ペリオがいなければ、中国学は孤児のままだっただろう」とさえ、評価されています。  彼が稀集した仏画・壁画はギメ美術館に、文書の多くはフランス国立図書館に保存されています。

エピローグⅢー2-5

1949年代 ペリオ論文・写真集をパリの書店で見た 中国人留学生が専門の研究を打ち捨て帰国、上海財閥の令嬢と敦煌再興に訪れます。 が、令嬢は窟の生活に耐えきれずに 模写学生と駆け落ちします。 が、この留学生の熱意が 政府を動かし 現在の“敦煌・莫高窟”を世界遺産 に押し上げたのです

《 残念ですが この留学生のドキメントを翻訳本で 読んだのですが、                     今 手元に資料がありません 因って 著者・書名は不詳 》

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