不世出の旅行家/ バットゥータ =03=

= 14世紀中葉、三大陸周遊 / イブン・バットゥータ =

~ 19世紀までイスラーム圏以外で知られざる大旅行家・法学者 ~

バトゥーター10-

《YouTubu動画;JOURNEY TO MECCA [HD] : Story of a traveller Ibn Batutta 》

https://www.youtube.com/watch?v=LtE8KnpaWhk

▼長い回り道▼

メディナとメッカに行こうと心に決めていたイブン・バットゥータは、紅海の横断が不可能となり カイロに戻り 北のガザとヘブロンに行き,次いでアブラハム,イサク,ヤコブの埋葬地とされる場所であるエルサレムに向かうべく陸路を北上する。エルサレムからダマスクスに抜け幹線道を南下しようと図った。

現代レバノンのスールは、いうまでもなく古代フェニキアにおいて、もっとも栄えたテュロス(ティール)である。またカルタゴの母市でもある。 このテュロスは、前4世紀アレクサンドロスに攻略されて崩壊し、ローマが町を再建する。 その後、7世紀イスラーム圏となるが、11世紀には十字軍国家が築かれる。 13世紀末マムルーク朝によって解放される。 その約20数年後に、イブン・バットゥータが訪れたことになる。

イブン・バットゥータがスールの町を訪れ、「そのスールの町こそ、守りの堅固さと近付き難いことにかけては、諺にも喩えられたほどの“要害の地”である。 つまり海がその町の周囲三面を取り囲んで、2つの城門があり、その1つの城門は陸地のために、もうlつの城門は海のためにあるからである。

しかも陸地から接近できる町の城門には、4つの胸牆(土などを胸の高さに積み上げた壁)があり、それぞれにその城門を守る幾つもの防御柵が備えられている。 また海に向かった城門については、2つの巨大な塔に挟まれている。 世界中に、その建築ほど驚嘆し、しかも奇異なるものは他に無い。

つまり、海が町の3つの側面を取り囲み、第4の側面には城壁があって、船はその城壁の下を通ってなかに入り、そこに錨を下ろすようになっているからである。

昔は、この2つの塔の間に、障害物として鉄の鎖が張り巡らされてあったために、それが海底深く引き下ろされない限り、そのところに人が“船”で出入りすることは絶対に出来なかった。 また、そこは数人の守備兵と検閲官たちの監視下に置かれていて、彼らの了解を得なければ、誰も出たり入ったり出来ないようになっていた」 と『大旅行記』に記しているが、他書の盗用らしい。

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※; マムルーク朝دولة المماليك Dawla al-Mamālīk)は、エジプトを中心に、シリアヒジャーズまでを支配したスンナ派イスラム王朝1250年 – 1517年)。首都はカイロ。そのスルターンが、マムルーク奴隷身分の騎兵)を出自とする軍人と、その子孫から出たためマムルーク朝と呼ばれる。

一貫した王朝ではあるが、いくつかの例外を除き王位の世襲は行われず、マムルーク軍人中の有力者がスルターンに就いた。13世紀半ばにフランス国王ルイ9世率いる十字軍第7回)がエジプトに侵攻してきた際、アイユーブ朝のスルタン、サーリフが急死した。サーリフ子飼いのマムルーク軍団バフリーヤは、サーリフの夫人であった奴隷身分出身の女性シャジャル・アッ=ドゥッルを指導者とし、1250年マンスーラの戦いでルイ9世を捕虜として捕らえ十字軍を撃退すると、サーリフの遺児であるがシャジャル・アッ=ドゥッルの子ではないトゥーラーン・シャーをクーデターによって殺害し、シャジャル・アッ=ドゥッルを女性スルターンに立てて新政権を樹立した。

1260年モンゴルフレグの軍がシリアに迫ると(モンゴルのシリア侵攻英語版))、クトゥズはバフリーヤの指導者バイバルスと和解し、アイン・ジャールートの戦いでフレグの将軍キト・ブカ率いるモンゴル軍を破った。この戦いの帰路でクトゥズと再び対立したバイバルスはクトゥズを陣中で殺害し、自らスルターンとなった。

マムルーク朝の事実上の建設者となったバイバルスは、フレグの開いたイルハン朝や、シリアに残存する十字軍国家の残滓と戦い、死去する1277年までにマムルーク朝の支配領域をエジプトからシリアまで広げた。

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Abbasid_C.

バットゥータは、ダマスカスに足を踏み入れた。 故郷・タンジェを出立して、ほぼ一ヶ年が過ぎようとしていた。彼は、この地で 著名なイスラム学者たちと共に学び、教師としての資格証書を取得している。 また、この地で結婚している。 22歳の時であり、その花嫁については,他の大勢の妻やめかけと同様,回想録の中で手短に言及されているに過ぎない。

そのダマスカス城市のウマイヤ・モスクについては,世界で「最も壮麗」であると述べている。 更に 「地元のバザールでは宝飾品、布地、文具、書物、ガラス製品が売られ、 公証人たちの区画では、《立ち会いを行なう五,六人の証人と、カーディーから結婚式を執り行なう権限を与えられた人》が控えていた。」と記し、自分の結婚が正式な手順を踏んだものだと臭わせている。

この地でバットゥータは,メッカへの巡礼者の一行に再び加わりシリア巡礼道を南下した。 道中、一行は泉のそばで野営する。そこでは水を運ぶ人が,水牛の皮で大きな水溜めを作っていた。 旅人は砂漠を横断する前に,その水溜めの水をラクダに飲ませ、皮袋に水を満たしていたのだ。

幾夜も砂漠で過ごし、幾度も皮袋に水を満たし ついに彼はメッカに到達した。 多くのメッカ巡礼者たちは、念願の聖地巡礼を果たしたあと、帰路にメディナの聖モスク内の預ラウダ言者廟を参拝することもあったが、一般にはほぼ同じルートを通って故郷に向かった。

だが、イブン・バットゥータは違った。 まず、これは7回に及ぶ巡礼(ハッジ)のうち最初のものであった。 ほとんどの巡礼者は,儀式を終えると故郷に戻る。 彼は、「純然たる冒険旅行のため」バグダッドに向かうのです。

バットゥータにとっての旅は単に出発地と目的地を結ぶ最短距離の移動ではなく、そのときどきの交通条件、政治・経済・社会の状況、さらには彼の抱いていた旅の哲学、時として思い浮かぶ目的や興味などによっても、大きく変化させて 知識を吸収すべき行為であった。 彼は、巡礼キャラバン隊と一緒にアラビア半島を越えてイラクとイランに旅し、再びメッカに戻ると、まる3年間を寄ムジャーウィル留者として過ごす事に成る。

アラビア語のムジャーウィル、あるいは複数形のムジャーウィルーンとは「ジワール(相隣関係と相互保護)のもとにある人」の意味であって、一時的な被保護者、寄留者、居いそうろう候を意味する言葉だ。 この言葉は、アラブの遊牧社会の間では古くから使われた社会的慣行の一つであって、道に迷った旅の者、政治的亡命者、あるいはたとえ盗人であっても、一時的に自分のテント内に迎え入れて、食事と宿泊場所を提供し、滞在中はその部族の者と同じ条件のもとに身の安全を保障するものである。

メッカには、イスラーム世界の各地から巡礼・学問修得・商売など、さまざまな目的をもって集まった多くの旅の人びと(ムジャーウィルーン)が滞在していた。したがって、そこは巡礼の聖地であるばかりでなく、学問と情報交換の一大センターであって、メッカを軸心として、ひと・モノ・情報のネットワークがイスラーム世界の四方に広がっていたのだ。

バトゥーター12-

《YouTubu動画;Moroccan scholar Ibn Battutah visit Crimean Tatars (Golden Horde p》

https://www.youtube.com/watch?v=4cR8gwu37bQ

 

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・・・・・・続く・・・・・・

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