不世出の旅行家/ バットゥータ =05=

= 14世紀中葉、三大陸周遊 / イブン・バットゥータ =

~ 19世紀までイスラーム圏以外で知られざる大旅行家・法学者 ~

《YouTubu動画;Footsteps of Ibn Battuta》

https://www.youtube.com/watch?v=JNY08Sx3cdw

バトゥーター6-7xx

▼縫合船ダウで、紅海・東アフリカに出る▼

イブン・バットゥータは、アラビア半島を縦断の冒険旅行を終えメッカに再び戻り メッカに2年ほど滞在した後、そこを離れて 1330年9/10月、イエメンに向かう。 メッカの外港ジェッダから、「ジャルバ」という平底の縫合船ダウに乗って、紅海に出る。 彼にとってはこの航海が初めての本格的な外洋航海となった。

その航海をバットゥータは綴っている。 「その船はエチオピア人の持ち船で、イエメン人の一団が食料や商品を積み込んでいた。 2日後、逆風、高波に襲ってきたので、アフリカ側に吹き寄せられる。 再び、イエメンの地に進もうとして、サワーキン島から船に乗った。この海は岩礁が多いので、夜間には航海出来ずに、ただ日の出から日没までの間だけ航行し、日没後は船を入江に泊めて、上陸する。 そして朝になると、また船に乗るのである。 彼ら 船乗りたちは船長のことをルッバーンと呼び、つねに船の舳先に立って、操舵長に岩礁のあるところを指示する。 彼らは、他でもない岩礁のことをナバート(草)と呼んでいる。」

「ハリーからハリーのスルタンの船に乗ってさらに紅海を南下して、アブワーブ(現在のホデイダ)に上陸、ラスール朝の首都ザビードに入り、陸路アデンに向かう。 そのアデンは、酷い暑さのところで……インド人たちの港であって、クンバーヤト(キンバーヤ)、ターナ=ボンベイ近郊、グジャラート地方の主要港、馬の集散港=、カウラム、カーリクート、ファンダラーヤナ、シャーリヤート、マンジャルール、ファーカヌール、ヒナウル、スィンダーブール(現在のゴア)などから大型船がそこにやって来る。

インド商人たちは、エジプト商人たちと同様にそこの居留民である。 アデンの住民の職業は、商人たち、荷担ぎ人たち、あるいは魚を捕る漁師たちのいずれかである。 彼らのなかには非常に富裕な商人たちがいて、時には彼らの所有している財産があまりに多いので、他人と共同契約することなく、単独で積荷を占有する大船を持っている商人もいる。 そうした点で、商人たちは互いに自負心が強く、しかも倣慢である」

バットゥータはアデンからモンスーンを利用してインドに渡ろうとしたが、その季節が終わっていたため、東アフリカ海岸を南下する。 アデンから4日間で東アフリカ海岸、紅海入口のザイラゥ、続けて15夜でマクダシャウ(ムガディッシュ)に着く。 このマクダシャウで彼はインドからの外来商人と地元商人とが結ぶ客人主人関係についても記述している。

バトゥーター37

 「外国の船がこの港に着くと、小型の艀舟であるスンブークが数艘、その船に近づく。各々のスンブークにはその町の若者たちの一団が乗り込み……船に乗った商人たちの1人にその皿を差し出して、『この御方は、私のお客様だ』と言い……この地をたびたび訪れる馴染みの人(商人)は別として、船に乗っていた商人たちは必ずこうした若者たちの接待する家に客として滞在することになる。

そうして一度、そこの家の人と知り合いになれば、その商人は好きなだけそこに滞在することが出来る。 人が接待された家に滞在している時、客をもてなす側の家の主人はその商人の持参したもの商品を売りさばいたり、また彼のために望むものを仕入れたりする。 もし、町の誰かが相場よりも安い値段でその商人から物を買うとか、接待側の家の主人が居ない間に、密かに別の商人が客人に物を売るようなことがあれば、彼らにとって、そうした取引は不正行為であると見倣された。

それは私的な交易関係であって、公的には次のような手続きが行われた。 外国の船が着くと、スルタン所属の1艘のスンブークがその船に横付けされて、何処から来た船か、その船主は誰か、ルッバーン―つまり船長のこと―は誰か、積荷は何か、その船に乗って来た商人たちやそれ以外の者たちは誰か等々について訊問する」

バトゥーター46-

 バットゥータは、その後 マンバサー(モンバサ)島を経て、クルワー(キルワ)まで航海することとなる。 このクルワーから、1331年3/4月、南西モンスーンに乗って一挙に北上して、南アラビアのザファーリ(ズファール)まで航海したのだ。 そこはイエメンのはずれにあって、インド航路の最寄り港である。 =彼は中国からの帰国の際、カーリクートから28夜で、再びここに到着している。=

ザファーリ港における外国船の扱いは、「インド地方あるいはそれ以外の地方から船が着くと、そこのスルタンの奴隷たちが海岸に出てスンブークに乗り、その船に上がる。 その際に、彼ら奴隷たちは船主あるいはその代理人(ワキール)のために、さらに船長であるルッバーンと船舶書記のカッラーニーのために、衣服1着分の布地を贈物として持参する。

さらに、船の人たちが上陸した時乗るための馬3頭が用意されて、海岸からスルタンの館までの間、行列の前方で太鼓を打ち、喇叭が鳴らされて迎えられる。 そしてスルタンの館に到着すると、彼らは宰相に、次にアミール・ジャンダール(警備隊長)に挨拶する。 船に乗っていた人たちの各自には、3日間にわたって歓迎の食事がもたらされる。 3日後に、彼らはスルタンの館で食事をする。 彼ら(ザファーリの人たち)は、このようにして外国の船の仲間たちを呼び込もうと努めているのである。・・・・・・」(『大旅行記』)。

バトゥーター44-

▼イスラーム教徒の海上信仰▼ 

バットゥータの航海は続く。 「ザファーリ(ズファール)、マスィーラ島人が持つ小船に、インド人巡礼者やオマーン人商人たちと同乗して、オマーンに向け南アラビア海岸を航海する。 その船で航海中の日々の私の食事は、ナツメ椰子の実と魚であった。 船の人たちは、朝に夕にペルシャ語で《シール・マーヒー》と呼ばれる魚を捕った。

鱗の白い美味な魚……彼らは、その魚を切り身にして焼き、船に乗っている人たちの各自にそれを一切れずつ分配する。たとえ船主であっても、それ以外の人であっても、その大きさは均等である。 彼らは、その魚をナツメ椰子の実と一緒に食べる。私にはザファーリから特別に用意して持参してきたパンとビスケットがあったが、その2つが無くなってからは、彼ら皆と同じようにその魚を食べた」

=船の上では、社会的・経済的な身分の上下はなく、すべての乗員と船客は平等に同じ釜の飯を食べることが、海の慣習であった考えられる=

バットゥータの観察は尽きる事が無い。 「彼らは、海上で犠牲祭を祝ったが、その日の夜明け過ぎになると、強風のために海が大時化になり、そのまま日の出の時刻までずっと続いて、船はまさに沈没寸前の状態になった。 が、ヒズルの同船で助かった。 そして、同船のヒズル(ヒドル)というインド人がただものの巡礼者ではなかった事を知った。

彼はコーランを暗唱し、文筆にも優れていたので、《マウラーナー“われらが主”》と呼ばれる人々で、彼は海が荒れてきたのを知ると、持っていた外套を自分の頭に被り、眠った振りをしていた。 神がわれわれに振りかかったこと(危難)からお救いになられた時、私が『やあ、われらが主ヒズルよ! 何を御覧になられたのですか』と彼に尋ねた。

すると『嵐の時、私は眼を見開き、霊魂を奪いにくる天使たちがいつ現れるかとじっと監視していました。しかし私は、奴らの姿を見掛けませんでしたので、《ありがたや!》と申したのです。 もし船が沈んだら、きっと奴らは霊魂を奪いに来たことでしょう。……』と答えたのだ。 実のところ、ある商人所有の1艘の船がわれわれより先に進んでいたが、その船は沈没し、ただ1人だけが助かり、大変な苦労の末にやっと泳いで脱出したと後で聞いた。」

バトゥーター45-

=ヒズルは「〈緑の人〉と呼ばれて、古代アラビアの民間伝承の立役者。神の特別の恩寵を受けて、不死の水を飲んだ聖人として知られた。 現在でもヒズルは船乗りや漁民たちの間で、航海の安全や豊漁をもたらす聖人として崇敬されている。 イブン・バットゥータは、紀行文に ヒズルが実在の人物として登場しており、ヒズルが乗り込んでいたことによって、船は嵐による沈没から逃れたとの不思議な話を語っているのだ。

さらに、霊魂を奪いにくる天使について、「インド洋を航行する船の船倉には、天使たちを祀る一種の祭壇が設けられ、毎日水夫たちがそこに御飯と柄杓に容れた水を供えた。 これは、嵐が襲ってきた時、天使たちが人間の魂を奪いに来ることを防ぐための一種の〈船霊信仰〉である。」と観察し注釈している。=

 

バットゥータは、オマーン地方からホルムズ海峡を渡り、ホルムズ島に着く。

「美しく大きな町で、町には賑やかないくつもの市場がある。 そこは、インドとスィンドの商品の集荷の港であり、そこからインドの商品が両イラク、ファールスとホラーサーンに運ばれる。・・・・・・・」とホルムズ島の印象を記す。

※; この島は新ホルムズと呼ばれ、14世紀の初め、内陸部で盗賊の被害が激しくなったとして、町が移されたところであった。 1320年海上交易の敵対国であったキーシュ島を攻略した後急速に発達し、イブン・バットゥータが訪れた頃には、ペルシア湾における最大の交易都市となっていた。 当時は、その支配をめぐりスルタン兄弟が相争っていた。 なお、1507年には、アルプケルケの率いるポルトガル艦隊が、この新ホルムズを占拠して要塞を建設する。

 

その後、イブン・バットゥータは内陸を巡り、8-10世紀インド洋交易の重要な中継港であったスィーラーフ(スーラーフ)から、再びペルシア湾を渡ってクサイフ(カティーフ)に上陸して、アラビア半島を横断してメッカに戻り、ほぼ1年の旅を終えたのだ。

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《YouTubu動画;Ibn Battuta Earthwork by Stan Herd 》

https://www.youtube.com/watch?v=MhIpx8JXhwo

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行。

・・・・・・続く・・・・・・

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