不世出の旅行家/ バットゥータ =06=

= 14世紀中葉、三大陸周遊 / イブン・バットゥータ =

~ 19世紀までイスラーム圏以外で知られざる大旅行家・法学者 ~

《YouTubu動画;Following in the footsteps of Ibn Battuta – Episode 3 》

https://www.youtube.com/watch?v=Qp4xkQOpVDg

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▼トルコから黒海西岸を巡り、コンスタンティノープルへ▼ 

イブン・バットゥータは、ソマリアでは商人たちが歓待を受け、イエメンではビンロウジが使われココヤシが栽培されいるのに驚き、オマーン地方からホルムズ海峡を渡り、ホルムズ島に行き着く。 内陸を巡り8-10世紀インド洋交易の重要な中継港であったスィーラーフ(スーラーフ)から、真珠が採取されていることなどを驚異の視座で観察しつつペルシア湾を渡ってクサイフ(カティーフ)に上陸して、アラビア半島を横断する冒険旅行を終えてメッカに戻り、ほぼ1年の旅を終えたのだ。

それから,非常な大回りをしてインドを目指します事になる。 エジプト,シリア,アナトリア(トルコ)を通過し、黒海を横切り、カスピ海の北を周り,さらに今のカザフスタン,ウズベキスタン,アフガニスタン,パキスタンなどの地域へと南下する。 モンゴル族の草原・遊牧の世界だ。

彼の冒険旅行の目的地であるインド。 インドのデリー・トゥグルク朝においてアラブ人やイラン人などの外国人が「貴人」として優遇され、高給で仕官しているとの情報を確信する彼のインドへの情熱は高揚するばかりであった。

13・14世紀は、陸上におけるパクス・モンゴリカ(モンゴル帝国を中心とする平和)の世界と インド洋海域世界(ユーラシア大陸の東と南、アフリカ大陸の東を縁取るように広がる南シナ海・ベンガル湾・アラビア海・インド洋西海域にまたがる海域世界)の二つの世界が相互に交流を深めた「国際的交易ネットワークの時代」として捉えることが出来る。 イブン・バットゥータは、そうした時代背景を利用して、長期にわたって、しかも西ヨーロッパを除くユーラシアとアフリカの既知の世界のほぼ全域を踏破するである。 

1332年9/10月、メッカを発ってインドに行こうとするが、すでに季節をはずしており、またも陸路を取る。 まず、紅海を渡り、砂漠を横断し、ナイル河を下り、再び東地中海海岸を北上する。 シリアのラーズィキーヤ(ラタキヤ)まで来て乗船し、アナトリア半島に向かったのだ。

船は、ジェノヴァ人所有の大型クルクーラであった。 クルクーラは、ギリシア語のケルクロスからきた言葉で、小型船もあった。 ジェノヴァ人は、当時東地中海の北側の諸港、特にシリアとアナトリア半島の海岸から黒海沿岸の海域を広く勢力圏として、ヴェネツィア商人と争っていた。

「われわれは10日間、好風を受けてアナトリア半島南岸の海を進み、その間 同じ船に乗ったキリスト教徒たちはわれわれを丁重に扱い、われわれから船賃を取らなかった……ルーム(アナトリア半島)地方の最初の地、アラーヤー(アライヤ)の町に着いた」。(『大旅行記』)。

※; イブン・バットゥータは、常に数人の同行者とともに、何人かの男女奴隷たちを引き連れて旅をしていた。 したがって、その荷物はかなりの量になっていたことであろう。 この船賃については、貨物や乗員を輸送するための《船荷運賃》、《用船料・チャーター料》のことであろうが、乗客が一定の決められた重量の荷物を持参しているのに対し〈船荷運賃〉として一括徴収され、贈り物も請求されたはずだ。

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イブン・バットゥータが訪れた当時のアナトリア半島は、オスマン・トルコの支配がその全部に及んでおらず、多くの侯国に分かれていた。 彼は、半島の中央や西部を歴訪した後、その北部の黒海海岸のサヌーブ(シノプ)から船に乗って、黒海を縦断し、クルミア半島のカルシュ(現ケルチ)に上陸し、キプチャク大平原の旅をする。

当時、黒海の海運と貿易において、イタリアのジェノヴァとヴェネツィアの両勢力が競い合い、彼らの貿易船はトレブゾンド、ヴァルナ、カッファ、カルシュ、スルダークなどの諸港に進出していた。 彼らの目指す目標は、広大なユーラシア大陸に広がるパクス・モンゴリカの世界を通ってインド、中国やインド洋世界へ商圏を広げることにあった。

従って、恐らくイブン・バットゥータがこの時に利用した船もまた、ジェノヴァかヴェネツィアの船であったと考えられる。

その後、ビザンティン帝国の皇女の里帰り隊とともに、首都コンスタンティノープルに入る。 バットゥータが訪れた1332/3年頃、ビザンティン帝国の皇帝は、アンドロニコス三世(在位1328-41)であった。 コンスタンティノープルは金角湾をはさんで、2つの地区に分かれるが、ガラタ地区の様子をバットゥータは次のように語る。

バトゥーター31-

「この区域は、イフランジュ(フランク)のキリスト教徒たちのために特別に指定されており、彼らがそこに住む。 彼らは様々な集団から構成されており、そのなかにはジェノヴァ人たち、ヴェネツィア人たち、ローマ人、イフラーン(フランス)人が含まれる。

彼らの統治権は、コンスタンティノープルの王(皇帝)にあるが、彼らの間から彼らが合意して選んだ者が統治者として推挙される。 彼らは、そうした推挙された人物のことを〈クムス〉と呼ぶ。

彼らには、毎年、コンスタンティノープルの王に対して課せられた義務があるが、時には彼らは王に反抗することもあり、教皇(パーパ)が両者の間に入って和平の仲裁を行うまで戦闘が続く。 彼らの全員が商業の民であり、彼らの港はまさに[世界]最大規模の港の1つであって、私は実際にそこでクルクーラ船などを含む大型の戦艦100隻ほどを目撃し、小型船に至っては余りに多く数えきれぬほどであった。

この地区にある市場は繁盛しているが、汚物に覆い尽くされており、しかも不潔な汚物の小川(海の入江)が市場のところを横切って流れる。彼らの教会も また、気分が悪いほど不潔である」

バットゥータは、その後 1332年8月の巡礼大祭に参加したあと、前回と同じようにイエメン経由インドに行く予定でジッダに向かったが、またもインドへの航海シーズンが終わっていた。 そのまま無駄な1年を過ごすよりも、エジプト、シリア、アナトリア、中央アジアを経由してインドに至る壮大なユーラシア大陸横断の旅を思いついた。

こうして、イブン・バットゥータによる旅は、インドに8年の滞在後、今度はトゥグルク朝のスルタンの要請によって答礼使節団の一員として、中国に向かうことになるのであるが・・・・・・。

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※; 彼が旅した14世紀のインド洋海域世界では、人の移動、モノや情報の交流関係が緊密化するなかで、交易ネットワーク・センターとしての大港市(エンポリウム)が成立し、港市には各地から集まった人びとによるコスモポリタンな多民族共生社会、イスラーム、交易活動、リンガ・フランカ(地域共通言語)などを特質とした地域文化・社会圏が各地で誕生していた。

たとえば、東アフリカのスワヒリ社会、南アラビアのザファーリやペルシア湾岸のホルムズに見られた港市国家、インド南西海岸のカリカットを中心とするマーピッラ社会やカンバーヤ(キャンベイ)のシーア・イスマーイール派ボーホラー(ボフラ)社会、東南アジアの河川分岐点(クアラ)やマラッカ海峡周辺部に生まれたマレー港市社会などに代表される。

イブン・バットゥータは、前回の東アフリカ海岸の船旅で、「マクダシャウ(モガディシオ)の町から船に乗り、サワーヒル地方に向かった。ザンジュ人たちの地方にあるクルワー(キルワ)王国の町をめざしていた」と述べている。

すなわち、彼は東アフリカ海岸のモンバサ周辺をさして、従来の呼称のザンジュ(黒人)地方の代わりに、サワーヒル地方という新しい言葉を用いている。 ここでのサワーヒルは、単にアラビア語の一般名詞としてのサーヒル(海岸、水辺、河畔、縁ふち)の複数形サワーヒルではなく、固有の地域名称の「サワーヒル(スワヒリ)地方」をさしている。

周知のとおり、スワヒリ語は現在、東アフリカ海岸のソマリア南部からケニア、タンザニア、ザンジバル島、モザンビーク北部までの地域、そして内陸部のウガンダやコンゴ(ザイール)などで、リンガ・フランカとして広く使用されており、スワヒリ文化とかスワヒリ文化圏といった場合、それは言語だけの問題でなく、アフロ・アジアの混血、多民族共生社会、イスラーム、インド洋の海上交易などの共通要素を包摂した一つの文化複合体のこと と通念化している。

更には 当時、インド洋に突き出たインド亜大陸の南西部に位置するマラバール(ムライバール)海岸のカリカット、カウラム(クーラム)、ヒーリー、ファンダライナーなどの港は、南中国の泉州や広州から来航した中国のジャンク船が頻繁に出入りする交易港として繁栄をきわめていた。

イブン・バットゥータがカリカットについて、「そこは大港バンダル市の一つで、中国、ジャーワ、スィーラーン(スリランカ)とマハル(モルディヴ諸島)の人びと、イエメンとファールス(イラン)の人びとがめざし、町には遠方の各地から来た商人たちが集まるので、その寄港地は世界のなかでも最大の港の一つである」と述べ、

さらに港内には13艘の中国のジャンク船団が停泊していたこと、ベンガル湾や南シナ海では、中国の船団によらなければ、けっして航海できないこと、さらに中国の船団には3種類あって、そのなかの大型船はジュンク(ジャンク、戎克)、中型船はザウウ(艚、船、艟)、小型船はカカム(舸舩)と呼ばれ、ジャンクは3枚から12枚の帆を装備していたことなどの具体的情報を伝えている。

これらのことから、アラビア海・印度洋・ベンガル湾を航海して中国に赴くのは困難な旅では無く、人間社会での冒険的な旅であったろう。 尚、これらの中国船については、マルコ・ポーロの伝えるところとほぼ一致し、当時の中国船の構造、航海と交易の活動にかんする具体的な資料を『大旅行記』は提供している。

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バトゥーター42- 《YouTubu動画;Ibn battuta mall, Most beautiful mall of dubai 》

https://www.youtube.com/watch?v=Nw2qV1oEZpA

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・・・・・・続く・・・・・・

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