不世出の旅行家/ バットゥータ =17=

= 14世紀中葉、三大陸周遊 / イブン・バットゥータ =

~ 19世紀までイスラーム圏以外で知られざる大旅行家・法学者 ~

《YouTubu動画;Ibn Battuta Documentary》

https://www.youtube.com/watch?v=EvYbXsMBJ5I

バトゥーター28-

▼帰路▼ 

イブン・バットゥータはザイトゥーン(広東)に出て、同じ海路をたどって、帰帆することとなる。

「南シナ海では順風に恵まれ、10日間でタワーリスィ一国に近づくが 風雲急を告げ、太陽を見ることなく10日間を過ごした後、見知らぬ海域に入り、42日間も漂う。 その翌日の夜明け、1つの岩礁が現れ、巨鳥のルフ鳥が飛翔していた。

その日から数えて2か月後、ジャーワ島に到着する。 この島に2か月滞在した後、ジュンク船団(スムトラ・パサイ王国の所有船)のなかの1艘に乗った。 40日後にはカウラムに到着する。 そして、カーリクートに向かう。」

彼は、デリーに戻りたいと思ってみたものの成り行きを恐れて、数日後、カーリクートで船に乗って航海し、インド・トゥグルク朝のスルタンに中国の報告をすることなく、アラビア海を横断して、南アラビア地方のザファーリに向かうのです。

「28夜の後、ザファーリに着く。 その日はヒジュラ歴748年ムハッラム月(1347年4月13日-5月12日)のことであった。 そこは、すでにみたように紛うことのない、心休まるイスラーム圏の中心であった。」と『大旅行記』にある。

ここで注目すべきことは、ザファーリ到着の日付を1347年7月13日-8月12日と記しているが、『大旅行記』に於いて、それ以前において年月日が明記されているのは、マルディヴ群島のムルーク島からスリランカ島に向かった1344年8月26日である。

因みに、『大旅行記』には、【第6巻】第18章デリーを出て陸路キンバーヤへ/ 第19章インドの南海岸を南に/ 第20章南海に浮かぶ・マルディブ群島/ 第21章スリランカを訪ねて/ 第22章南インド・マァバル地方/ 第23章ベンガル・アッサム地方の旅/ 第24章マラッカ海峡・南シナ海を行く【第7巻】第25章シナの旅/ 第26章故郷マグリブへの旅/ 第27章聖戦のためアンダルス地方へ=家島彦一訳平凡社版=

と編纂されており、前節 家島彦一氏が論「イブン・バットゥータの本来の旅程はインド南西海岸、マルディヴ群島、スリランカ、コロマンデル海岸を経て、 =それ以東には行かず= 再びカーリクートに戻り、そこからダウ船でアラビア海を渡って南アラビアのザファーリに引き返したことが推測されるので、・・・・・タワーリスィー国や中国に関わる記録のすべては、彼がインドのデリーに滞在中の8年間に集めた間接的な情報―特にデリーの宮廷に来朝していたシナの使節団による情報―である」が正鵠を得ているならば、バットゥータは この2年8か月間、どこにいたのであろうか・・・・・・?

バトゥーター25-

▼地中海の船旅、カタルーニヤ人の船に乗る▼

彼は、マスカト(マスキト)、カルハートなど、オマーンの東海岸を経て、イランのホルムズ島に上陸する。 そして、南イラン、イラク、シリア、エジプトなどを経巡り、1148年11月15日メッカに入り、メッカ大祭に参加する。 その後、帰郷の決意を固めたらしく、メディナを訪れた後、カイロに入る。

当時、シリアやエジプトでは、ペストが大流行していた。 そして、多分にアレクサンドリアから、「私はチュニジア人1人の所有する小型のクルクーラ船に乗った。 それはヒジュラ暦750年サファル月[1349年4月21日-5月19日]のことであった。 そして、ジェルバ島で下船するまで航海を続けた。

=ジェルバ島(Djerba, )は、チュニジアの島。チュニジア南部、ガベス湾内にある北アフリカでもっとも大きな島で、リビアとの国境に近くに浮かぶ。人口12万人。中心都市はフーム・スークである=

上述の船は、引き続きチュニスに向けて出帆したが、 途中で敵がその船を捕獲した。 その後、私は別の小舟に乗ってカービス(ガーベス)までいった。」 =『大旅行記』より、

因みに ジェルバ島(Djerba, )は、チュニジアの島。チュニジア南部、ガベス湾内にある北アフリカでもっとも大きな島で、リビアとの国境に近くに浮かぶ。人口12万人。中心都市はフーム・スークである。現在は陸続している=

その後、別の船でスファークスとブルヤーナに向かい、そこからアラブ人と一緒に陸路を進み、途中、幾つかの危難に遭いながら、チュニスの町に着く。 その時、スライム系アラブ族はその町を包囲して、マリーン朝に対して攻撃を加えていたという。

チュニスで仕方なく、バットゥータは「カタラーン人たちと一緒に船出し、ルーム人たちの島々の1つ、サルダーニヤ島に着く。 その島には立派な停泊港があって、その周囲を巨大な樹木がぐるっと取り囲み、1つの城門のような海の入口がある。 その入口は、彼らの許可がなければ決して開かれない。 島内には、幾つもの要塞があり、われわれがその1つに入ると、そこには数多くの市場があった。」=『大旅行記』より=

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チュニス(Tunis)は、チュニジア共和国の首都であり、同国のチュニス県の県都でもある。 また同国の商業・工業の中心地。

909年、アグラブ朝を滅ぼしたファーティマ朝マフディーヤを中心にイスマーイール派の王国を築いたが、969年に首都をカイロに移した。チュニジアに残ったベルベル人のブルッキン・イブン・ズィールは、ズィール朝を築いて繁栄を見せるが、ファーティマ朝を裏切ってスンナ派に改宗したため、アラブ系スライム族ヒラール族の大軍に攻略された。 無政府状態に陥ったチュニジアは、一時期シチリア王国を築いたキリスト教徒のノルマン人に占領されるが、12世紀には西方から侵攻したモロッコムワッヒド朝が支配することになった。

1228年に、ムワッヒド朝のイフリーキーヤの総督であったアブー・ザカリーヤー1世が、ムワッヒド朝がキリスト教徒の傭兵に頼らざるを得なくなり、自らの宗教的権威を否定したことに対し同王朝の存立理念であったイスラム復興運動、タウヒード運動の真の教えと精神を守るという名目で、1229年にアミールの称号を名乗って独立した。 これがハフス朝である。 ハフス朝はチュニスを首都に定め、数々のモスクマドラサ(学校)を建設する。 また外国からも、巡礼者や商人が集まり、大都市として繁栄した。

16世紀に入るとハフス朝は衰退し、さらに東方から侵攻してきたオスマン帝国の脅威に晒されることとなった。 1534年にオスマン帝国軍がチュニスを攻略したため(チュニス占領 (1534年)、ハフス朝のスルターンはスペイン王神聖ローマ皇帝カルロス1世に援軍を要請し、翌1535年にスペイン軍がチュニスを占領し(チュニス占領 (1535年)、スペインの保護国としてハフス朝は復活した。

イブン・バットゥータが言うカタラーン人とは、現在のスペイン北東端のカタルーニヤ地方の人々、カタラン人を指す。 インド・ヨーロッパ語族に属する民族で、イベリア半島のカタルーニャ地方に分布する。 カタルーニヤ地方は、東から南にかけて地中海に面し、背後は険しい山岳地帯であるため、人々は生活を海に求め、地中海の航海と貿易に活躍した。

チュニスからサルディニア島まで乗った彼の船がカタラン船であったことは、西地中海におけるカタラン人の海運活動が盛んであったことを示しており、12世紀半ばにアラゴン王国に併合されるが、13・14世紀になると、彼らの交易船の活動は西地中海全域に及び、ジェノヴァ、ヴェネツィアやトスカナ海岸の諸港の船乗り・商人をしのぐほどであった。

また、彼のいうルーム人は ギリシャ人、ビザンティン帝国の人々、あるいは西ヨーロッパのキリスト教徒、イベリア半島のキリスト教徒軍、フランク人など、さまざまな意味に用いている。

サルダーニヤ島はサルディニア島であるが、「当時、ピサ、ジェノヴァ、カタランなどの商人や船乗りたちは、サルディニア島の諸港をめぐって争っていたが、概してアラゴン王国の勢力下に置かれていた。 イブン・バットウ一夕が到着した停泊港は、恐らく同島南部のカリヤリ湾内のカリヤリであったのだろう。

家島彦一氏は、彼が「陸路でファースに行くのではなく、キリスト教徒カタラーン人の船に便乗し、わざわざ遠回りしてサルダーニヤ島に向かったのか」という疑問を投げかける。 その理由として「アラブ遊牧民による襲撃の危険があって、チュニス―ファース間の交通が途絶していたことが考えられる。 しかし、当時の西地中海は……イベリア半島におけるキリスト教軍のイスラム教徒やユダヤ教徒に対する攻撃の影響で、異宗教間の対立・緊張が高まっていた」と推論されている。

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バトゥーター52-

そうした情勢のもとで、バットゥータはサルダーニヤ島で監禁状態に置かれるが、それはどちらにしても 当然の成り行きだったのか? その後、バットゥータ一行は その島を無事に出て、10日後にタナスの町に上陸している。 この離船で地中海の船旅は終わるが、それとともに遠距離の旅も終わりを迎えることとなる。

この復路はもとより、往路においても、地中海が「われらが海」であるせいか、バットゥータは港における交易についてはまったくといっていいほど語っていない。 また、サルダーニヤ島での監禁状態についても詳細を記していない。

イブン・バットゥータの『大旅行記』は、約30年をかけて旅の記録を当時のマリーン朝の君主の命令を受けて、イブン・ジュザイイのもとで口述を行い、1355年に完成したものです。 マグリブ人としての視点 また イスラム教のイスラム法学者からさまざまな事物について語っているが、マリーン朝の君主に開示出来ない政治的な事象もあったと想像できる。

なお、タナスは現在のアルジェリア西部、地中海に面した港テネス。 アルジェとムスクガーニムのほぼ中間、ミルヤーナの近くに位置する……アンダルス地方から来た海上民たちが建設したという。 13・14世紀のタナスは、南アンダルス・ムルシア地方との海上交通の要地として栄え、人々の交流やオリーブ、小麦などの農産物の交易が盛んに行われた。

バトゥーター53-

《YouTubu動画;JOURNEY TO MECCA HD – Story of a traveller Ibn Batutta》

https://www.youtube.com/watch?v=c7b9TLuWNW4

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行。

・・・・・・続く・・・・・・

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