日本地震学の父/ジョン・ミルン=01=

07-20-1

3月11日、東日本を襲った地震と大津波の
想像を絶する破壊力に、世界中の人々が言葉を失った。
研究により約千年に1度の割合で、三陸地方が同規模の被害に
見舞われていることも報告され、改めて『地震大国』日本の苛酷な宿命に
思いをめぐらせた人も多いことだろう。
ところが、この日本で「地震学」が確立されたのはそう昔のことではない。
しかも、その礎を築いたのはある英国人だった。
名をジョン・ミルン博士という。

 2013年は日本の地震学及び地震工学の基礎を築いたジョン・ミルンの没後100周年にあたり,国内外で様々な企画が予定されています。 そこでジョン・ミルンについてよく知ってもらおうと,ニュースレターでも特集を組むことにしました。

 
今回は日本地震工学会と一緒に企画して、ミルンに関する論説を柴田明徳氏と泊次郎氏に執筆頂きました。 この論説は日本地震工学会誌にも同時掲載されます。 また,ミルンの妻であるトネの生涯を描いた「女の海溝―トネ・ミルンの青春」が再刊行されるのに際し、書評を西澤あずさ氏にお願いして寄稿頂いております。

 =日本地震工学会・学会情報誌編集委員会 挨拶=

07-20-2

ジョン・ミルン(John Milne、1850年12月30日1913年7月31日)は、イギリスリバプール出身の鉱山技師地震学者人類学者考古学者東京帝国大学名誉教授。日本地震学の基礎をつくった。

略歴

その他

  • 大正8年(1919年)、トネ夫人が病気のため函館に帰る。
  • 大正14年(1925年)、トネ夫人が死去する。
  • 平成4年(1992年)、「THE GREAT EARTHQUAKE OF JAPAN」の復刻版が刊行される。
  • 北海道函館市船見町26番地に、ジョン・ミルン夫妻の墓がある

著書

  • 1886年『地震とその他の地球の運動』
  • 1892年『THE GREAT EARTHQUAKE OF JAPAN』(共著)
  • 1898年『地震学』

訳書・伝記

  • 『ミルンの日本人種論──アイヌとコロポクグル』 吉岡郁夫・長谷部学共訳、雄山閣出版、1993年
  • 『明治日本を支えた英国人──地震学者ミルン伝』 レスリー・ハーバート=ガスタ、パトリック・ノット宇佐美竜夫監訳、日本放送出版協会、1982年

ジョン・ミルンが登場するノンフィクション小説

『関東大震災を予知した二人の男──大森房吉と今村明恒』上山明博、産経新聞出版、2013年

07-20-3

❢❢❢ ランカシャー訛りで質問攻め ❢❢❢

1876年3月8日、ひとりの若き英国人科学者が明治政府の招聘で日本にやって来た。 政府の役人に迎えられ、これから3年間を過ごすことになる日本家屋に案内された。 その来日初日の夜、この英国人を突然襲ったのが「ぐらぐらっ」という不気味な揺れ。 床にへたり込み、しばらくは口もきけなかった。 この英国人こそが「日本地震学の父」にして「西欧地震学の祖」とも言われるジョン・ミルンだった。
やがて正気を取り戻した時ミルンの頭の中には様々な疑問が次々と浮かんできた。 あの不思議な現象は何なのか? あれだけの揺れがどこから来るのか? なぜ日本に起こって、英国には起こらないのか? 持ち前の探究心が刺激されたミルンは、この不思議な「揺れ」に大いに興味を覚えた。

ジョン・ミルンは1850年、スコットランド人の両親の間にリバプールで生まれ、ランカシャーロッチデールに育った。 生涯故郷を深く愛し誇りに思い、常にランカシャー訛りの英語を話したと言われている。 子供の頃から『知りたがり屋』で、いつも周りの大人を質問攻めにしていた。 小学校に上がった時に母親がホッとしたのも無理は無かった。

学校では数々の賞を受賞する優秀な子供だった。 高校生の時に受賞した報奨金で湖水地方を旅したことがあったのだが、他の受賞者は旅が終わると満足して自分の町に帰って行ったのに対し、ミルンは海を渡ってアイルランドに向かった。 道中パブでピアノを弾いて小銭を稼ぎ、ダブリンとアイルランド南部を回るという、冒険心、探究心の強い少年であった。
やがて一家はロンドンに移り、17歳になったミルンはロンドン大学キングス・カレッジの応用科学部に入学し、数学、機械学、地質学、鉱山学等を学んだ。 卒業後、地質学と鉱山学を専門分野に王立鉱山学専門大学に進んだ。 積極的に実地調査を行い、ランカシャーやコーンウォール、さらに中央ヨーロッパ各地の鉱山を回った。23歳になる頃にはジョン・ミルンは、地質学と鉱山学の分野で頭角を現し始めていた。

 ロッチデール(Rochdale)は、イングランドグレーター・マンチェスターにあるタウンで、オールダムの北北西8.5km、マンチェスターの北北東15.8kmに位置している。 行政上は大都市ディストリクトのメトロポリタン・バラ・オブ・ロッチデールに属し、その中心エリアである。2001年の人口はタウンエリアが95,796人、周辺エリアを含んだメトロポリタン・バラ・オブ・ロッチデールが206,500人であった。

歴史的にはランカシャーの一部であったロッチデールが最初に文献に登場するのは、1086年の「ドゥームズデイ・ブック」である。 その後、ロッチデールは北イングランドの羊毛貿易の中心地として栄えるようになり、18世紀初頭までに、「多くの富裕な商人にとって注目すべき(場所)」と記述されるようになった。
19世紀、産業革命での工場や繊維産業の中心地としてロッチデールは繁栄した。 しかし、20世紀にロッチデールの紡績業は衰退した。 現在では工場地帯ではなく、居住エリアとなっている。

07-20-4

❢❢❢ 極東の地へのオファー ❢❢❢


 学位と現場経験の両方を持ち合わせたミルンは就職にも困らなかった。 1873年、王立鉱山学専門大学の推薦を受け、ミルンはサイラス・フィールド社に鉱山技師として2年契約で雇われる。 ニューファンドランド島(現在はカナダの一部)での石炭と鉱物資源の発掘調査が主な任務だった。 ミルンは島の岩石の種類や構造を論文2本にまとめ、地理学会誌に発表した。 また、氷河にも興味を持っていたミルンは、氷と岩石の相互作用についての調査も行っている。
地質学者・鉱山学者としてのミルンは引っ張りだこで、王立地理学会から北西アラブへの調査隊に同行して欲しいという依頼を受けた。 チャールズ・ビーク博士の調査はシナイ山の正確な位置を確定するのが目的で、地質学者が必要だった。 ビーク博士の研究は宗教色の強いものだったため、シナイ半島での研究結果は論議を巻き起こしたが、ミルン自身は宗教的なコメントは控えた。 この調査中も、ミルンはシナイ半島の地質調査の機会を逃さなかった。 帰国後、収集した化石の全てを大英博物館に寄付している。

1875年、ミルンが次に受けた職のオファーは、きわめて意外な雇い主からのものだった。 日本政府が新設した工部大学校の地質学・鉱山学教授職への招聘で、近代化を目指す明治政府のいわゆる「お雇い外国人」政策の一環である。 ミルンは、極東のミステリアスな島国日本で働けることを喜び、すぐに承諾した。この時からミルンと日本とのつながりが始まる。

日本までの旅路は容易ではなかった。 船酔いをするミルンは船旅を嫌い、周囲の猛反対を押し切って、ヨーロッパ、ロシア、シベリア、モンゴルそして中国へと至る陸路を選んだからだ。 しかしミルンにとってこの旅程は、足を踏み入れたことの無い地域で地質学の研究を深めることができる最高のチャンスだった。 壮大な旅は、全行程に11ヵ月を要した。
 

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===== 続く =====

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