第一次世界大戦の轍=02=

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 食事を終え、プリンツィプが店の外に立っていたそのとき、1台のオープンカーがゆっくりと近づき、停止したのだ。 車までの距離はおよそ3メートル。プリンツィプは体中の血が沸くのを感じた。 反射的にピストルへと手を伸ばし、狙いを車のシートでにこやかな表情を見せる『標的』に定めた。 そして2発。 銃口からの火花も煙も見られない、静かな銃撃だった。

なぜ大公は、ここに現れたのか―。

その理由は、『単に道を間違えた』というしかない。 大公を乗せた車は市庁舎での歓迎会を終えた後、予定を変更し、先の襲撃で負傷した随行員を見舞うべく病院へと向かう途中だった。 ところがどういうわけか運転手にはそのことが伝わっておらず、病院方面ではなく、本来予定していたルートに従ってラテン橋近くの角を右折。 間違いを指摘された運転手が車を一旦停止させ、後戻りしようとしたその場所にプリンツィプが居合わせたのだった。

それにしても、後に繰り広げられる歴史を知る私たちにとって、世界大戦へと発展するきっかけになるには『ささいな』事件だったとも感じられないだろうか。たとえば、植民地で宗主国の次期トップが殺害されたとて、それが世界規模の戦争につながるとは考えづらい。ところが、暗殺事件からおよそ1ヵ月のうちに事態は激変。ヨーロッパ全体を飲み込む奔流となって流れ始める。その間に何が起こったのかを探る前に、まずはここから40年ほど前にさかのぼってみたい。

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❢❢❢ 複雑に絡み、互いに冷や汗を流して睨み合う ❢❢❢

オーストリア=ハンガリー帝国と東方問題 = 1867年、アウスグライヒによりオーストリア=ハンガリー帝国が誕生した。 ハプスブルク家の長はオーストリア皇帝とハンガリー王を兼位し、ハンガリーは軍事・外交・財政を除く広範な自治権を得た。 しかしこの大規模な改革によってすら、帝国内の複雑な民族問題が解決されるには至らなかった。 当時の帝国内には9言語を話す16の主要な民族グループ、および5つの主な宗教が混在していた。

帝国の最大の関心は東方問題にあった。 台頭するスラヴ人の民族主義運動は、帝国政府を主導するドイツ人マジャール人にとって悩みの種だった。 1912年から1913年にかけて行われたバルカン戦争の結果、隣国のスラブ人国家であるセルビアの領土が約2倍に拡張され、帝国は国内のスラブ民族運動を警戒する必要に迫られた。

一方でセルビア人民族主義者は、帝国南部は南スラブ連合国家に吸収されるべきだと考えていた。 この冒険的民族主義に対して、自らスラブ人の守護者を任ずるロシアは一定の支持を与えていた。 さらに、1908年にオーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナを併合していたため、ボスニアヘルツェゴビナのセルビア人はオーストリアに不満を持っていた。 オーストリア政府は、スラブ人民族主義運動が他の民族グループへと伝播し、さらにロシアが介入する事態を危惧していた。

ドイツ帝国とシュリーフェン・プラン = ドイツ帝国は1871年に普仏戦争フランス第二帝政に勝利し成立した。 ドイツはフランスからアルザス・ロレーヌ地方を奪ったが、フランス国内には反独感情が残された。 ドイツ宰相オットー・フォン・ビスマルクは、フランスを国際的に孤立させてアルザス・ロレーヌ奪回の意図を挫き、ドイツの安全を図る目的から、1882年にオーストリア、イタリアと三国同盟を締結、1887年にはロシアのバルカン半島への進出を黙認する見返りに独露再保障条約を締結し、ビスマルク体制を構築した。

しかし1890年にビスマルクが失脚すると、独露再保障条約は延長されなかった。 さらに1894年、フランスとロシアは露仏同盟を締結し、ドイツが対フランス・対ロシアの二正面作戦に直面する可能性が高まった。 ドイツ参謀総長アルフレート・フォン・シュリーフェンは、二正面作戦に勝利するための手段としてシュリーフェン・プランを立案した。

この戦争計画は、広大なロシアが総動員完結までに要する時間差を利用するもので、ロシアが総動員を発令したならば、直ちに中立国ベルギーを侵略してフランス軍の背後に回りこみ、対仏戦争に早期に勝利し、その後反転してロシアを叩く計画だった。 しかしシュリーフェン・プランは、純軍事技術的側面を優先させて外交による戦争回避の努力を無視し、また中立国ベルギーを侵犯することによる国際的汚名やイギリスの参戦を招く危険性がありながら押し通すというものだった。 シュリーフェン・プランは、ドイツを世界規模の大戦争へと突き落とす可能性の高い、きわめて危険な戦争計画でもあった。

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イギリスの対ドイツ政策 = イギリスは自国の安全保障の観点から、伝統的にグレートブリテン島対岸の低地諸国を中立化させる政策を実行してきた。 1839年のロンドン条約において、イギリスはベルギーを独立させ、その中立を保証した。 イギリスは、フランスとドイツの間で戦争が発生した場合に、もしベルギーの中立が侵犯されれば、先に侵犯した側の相手側に立って参戦すると表明していた。

だが19世紀末になると、ドイツの国力の伸張により、次第にイギリスとドイツとの対立関係が深まっていった。イギリスとドイツは海上における覇権を競って建艦競争を繰り広げた。 イギリスは覇権維持のため、1904年にフランスとの長年の対立関係を解消して英仏協商を締結し、他にも1902年に日英同盟を、1907年に英露協商を締結した。 こうしてヨーロッパ列強は、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と、イギリス・フランス・ロシアの三国協商との対立を軸とし、さらに多数の地域的な対立を抱えるという複雑な国際関係を形成する。

ヨーロッパでは、プロイセン王国が普仏戦争(1870~71年)でフランスを倒してドイツ帝国の建国に成功し、強国としての地位を固めていた。当時の宰相ビスマルクは、復讐に出ることが予想されるフランスを孤立させるため、ロシア、オーストリアなど列強と同盟関係を締結。その一環で1882年にドイツ、オーストリア、イタリアによる軍事同盟が結ばれていた(独墺伊三国同盟)。これと並行し、ビスマルクの政策により、経済力そして工業力を高めると、ドイツはフランスを抜いて、英国に次ぐ世界2位の経済大国へとのし上がるまでになっていた。

勢いづくドイツだったが、1890年に転換期を迎える。 前々年、ドイツ皇帝に即位したヴィルヘルム2世との意見の対立からビスマルクがその座を引退。 同皇帝は植民地獲得へ向けて動き出し、帝国主義全盛の舞台に遅ればせながら参入した。 これにより、バルカン半島をめぐってロシアとの関係にひびが入ることとなる。

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 その頃のロシアは、現在のウクライナ、ポーランドなどの一部を含む、ユーラシア大陸の北部を広域にわたって支配していた強国。 この広い国土で交通網を充実させるための外資を必要としており、またドイツをけん制する目的からも、新たな同盟先としてフランスに接近した。 ヨーロッパでの孤立から脱したいフランスにとっても好都合であることは明白だった。 そして1894年に独墺伊三国同盟で結ばれた国々を仮想敵国とした軍事同盟が誕生した(露仏同盟)。

一方、産業革命を一番乗りで果たし、積極的な植民地政策の結果、多くの領土を従えて繁栄を享受していたのは英国である。その外交スタイルは、『栄光ある孤立』と称され、非同盟主義を貫いていたが、変更を余儀なくされる。 北アフリカ、中央アジアをめぐりフランス、ロシアとの対立が起こり始め、さらに皇帝ヴィルヘルム2世率いるドイツも植民地獲得に乗り出したからである。

まずは東アジアに手を広げていたロシアをけん制する目的で日本と軍事同盟(1902年、日英同盟)を結ぶかたわら、北アフリカをめぐって確執を深めていたフランスとは協調の道を選び、英仏協商(1904年)を結んだ。また対外進出を活発化させたドイツとの対立が深まると、日露戦争の敗北によって東アジアから後退していたロシアと、中央アジアをめぐる問題で妥協し、協商関係(1907年、英露協商)が結ばれた。

こうしてドイツ、オーストリア、イタリアの同盟国に対抗して、ロシア、フランス、英国という協商条約でつながった勢力が地図上に浮かび上がり、ヨーロッパは大まかに2色に色分けされることになった。

1870年の普仏戦争以降、バルカン戦争(1912~13年)などを除いては、ヨーロッパは比較的平穏な年が続いていた。 もはや国と国とが武器を取り合って戦うなどありえないと豪語するジャーナリストや有識者なども見られた。 列強は、同盟、協商関係を結んでいたし、財政、経済の面でも互いに依存し合っていたからである。万が一、戦争となった場合の互いの不利益を考えれば、『国力の消費戦』など避けたいものだった。 もちろん列強が植民地をめぐって互いに睨みをきかせ、警戒し合っている状況下で、軍事専門家の中には大戦を予想する者がいたのも事実だ。 それでもヨーロッパはしばらく戦争から遠ざかっていた。

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