第一次世界大戦の轍=10=

09-19-1

❢❢❢ ドイツ軍によるベルギー侵攻 ❢❢❢

ドイツは8月2日にベルギーに対し、軍の通行権を要求した。 しかし、ベルギー国王アルベール1は中立国としてこれを拒絶した。ベルギーの中立自体は1893年のロンドン条約によってイギリス・フランス・プロイセン・オーストリア・ロシアから保証されていた。 古証文ではあるが、アルベール国王は局外中立が可能と信じていた。

中立の実質はイギリスの国益から生じたもので、ベルギーを含むフランダース地方とオランダのいわゆる低地諸国(ローカントリーズ)を一強国の支配に任せたくないという意図からである。 アルベールはしかし中立自体に価値を置き、どの他国の侵犯に対しても徹底的に抗戦するつもりだった。 アルベールは閣議で、「結果はどうであろうと、拒絶する。我々の義務は国土を守りぬくことだ。この点で間違えてはいけない」と述べた。

しかしながら、国王の勇ましい発言とは裏腹に当時のベルギー軍は長期間の中立と勢力を増した社会主義政党の軍事軽視ないし無関心により、とても整備されていたとは言えない状況であった。 参謀本部の将校は主としてフランスで教育を受けてており、攻撃精神ばかり身につけ、ベルギーの実状とはかけ離れた攻勢作戦計画ばかりを練っていた。

当時の西欧諸国で経済力に見合った形での軍事能力としてはおそらく最悪であり、開戦時、現役兵4万8000人と予備役10万人でスタートしたがこれでは6個師団と要塞守備隊は充足できない。 装備も旧式で、軍服に至ってはナポレオン時代の物を使いまわしている有様であった。 ドイツ軍の第1軍司令官アレクサンダー・フォン・クルックと第2軍司令官カール・フォン・ビューロウは1914年8月4日にベルギーに侵攻した。

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 ルクセンブルクについては抵抗なく8月2日に占領されていた。 ベルギーにおける最初の戦闘はリエージュ包囲戦である。 リエージュ要塞の周囲には複数の堡塁が構築されており、これによってドイツ軍の進撃が2日間食い止められた。 予想しなかった抵抗に遭遇したドイツ軍は後の参謀次長エーリッヒ・ルーデンドルフによる独断専行によってリエージュ陥落に成功し、ベルギー軍はアントウェルペンおよびナミュールへと後退した。ドイツ軍はアントウェルペンを回避して進撃したが、これにより後背に危険が残される事になった。 ナミュールは23日に陥落した。

ベルギー軍の抵抗自体は軽微な物であったが、ドイツ軍にとっては想定外でありこの遅延はシュリーフェン・プランに大きな狂いを生じさせ始めていた。 シュリーフェン・プランはロシア軍の動員力の遅れを前提に作られており、ロシア軍が動員を完了させる前に迅速に西部戦線の英仏軍を撃破しなければならなかった。そのため、連日の強行軍により兵士たちは憔悴しきっており、更にベルギーの軍民が国内の鉄道網を破壊したため、シュリーフェン・プランに基づいた左翼から右翼への輸送が困難となった。

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 ❝ オーストリア軍の緒戦での混乱 ❞ 

中央同盟国では緒戦の戦略に関する齟齬が発生していた。 ドイツはオーストリアのセルビア進攻を支援すると確約していたが、ロシアとフランスの参戦が明らかになると、シュリーフェン・プランに基づく対フランス戦を優先させ、オーストリア軍にはロシア軍に対する防御体勢を取ることを求めた。 対セルビア戦を準備していたオーストリア軍は、既に動員が完結していた軍を北方のロシア軍と対峙させるために大規模に再移動させざるを得なくなり、各地で鉄道輸送に混乱が生じていた。

❝ シュリーフェン・プランの頓挫 ❞ 

上記のようにベルギーおよびルクセンブルグに侵攻したドイツ軍に対して、ベルギー軍はリエージュの戦い(8月5日- 8月16日)で防戦を試みたものの、質・量ともに勝るドイツ軍に圧倒された。 だがベルギーは、軍民共に鉄道トンネルや橋梁を爆破するなどしてドイツ軍の進撃を遅らせ、またドイツによる中立侵犯はイギリスに連合国側に立った参戦を決断させた。

イギリス政府はキッチナーを陸軍大臣に任命し、ジョン・フレンチ指揮下のイギリス海外派遣軍(BEF)をフランスへ派遣した。 フランドルにおいてドイツ軍と英仏軍との最初の戦闘が行われ、このフロンティアの戦い(8月14日- 8月24日)でドイツ軍は英仏軍を圧倒した。 しかし英仏軍の抵抗による遅延と、予想外に迅速だったロシア軍の動員により、シュリーフェン・プランは現実との間に差を生じつつあった。

ロシア軍はまず動員の完結した第1軍と第2軍をもって東プロイセンを攻撃した。 ドイツ軍は一部を割いてパウル・フォン・ヒンデンブルクエーリヒ・ルーデンドルフの指揮下に第8軍を編成し、タンネンベルクの戦い(8月17日- 9月2日)においてロシア軍を各個撃破した。 だがこの戦闘は、ドイツ軍に対しても、西部戦線における戦力不足という影響を与える。

9月、ドイツ軍はパリ東方のマルヌ川まで迫ったものの、マルヌ会戦(9月5日- 9月10日)において、フランス陸軍パリ防衛司令官のジョゼフ・ガリエニルノータクシーを使った史上空前のピストン輸送を実施し、防衛線を構築してドイツ軍の侵攻を阻止した。 ドイツ軍は後退を余儀なくされ、シュリーフェン・プランは頓挫した。 そして、戦いは“塹壕戦の始まりと変質し、長期化する。

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 ☛ ☞  今も残る大戦の遺産 “ 金 ”

第1次世界大戦は、金市場の歴史で重要な転換点となった。 戦争の脅威で、金本位制は事実上脱線した。多くの国が金を退蔵していた。 終戦を迎えると、イングランド銀行(英中央銀行)はロンドンをあらためて金市場の中心に据えようとした。国際的な指標の役割を担いうる、ロンドンでの毎日の値決め(フィキシング)に焦点を置いた。

金の値決めが初めて行われたのは1919年9月12日。投資銀行NMロスチャイルド・アンド・サンズのロンドンの質素な木製パネルで壁がおおわれたオフィスでのことだった。

当初値決めに参加していたのは、NMロスチャイルド、モカッタ・アンド・ゴールドスミド、サミュエル・モンタギュー、ピクスリー・アンド・アベル、シャープス・アンド・ウィルキンズの5社。金の注文のビッドとオファーの情報を交換し、需給に基づいて価格を調整した。 買い呼び値と売り呼び値が均衡した価格で、その日の指標となる「フィックス(建値)」が設定された。

100年近く続いているこの制度がほとんど変わっていないのは意外ともいえる。 フィックスは依然として金価格の国際的指標であり、宝石商や中央銀行が取引の価格を決めたり、金に関連した証券(上場投資信託《ETF》など)の価値を算定するのに使う。 状況は変わりつつあるのかもしれない。

金利操作が絡んだ世界的なスキャンダルを受け、世界の金融監督当局は、金のフィックスなど金融市場のさまざまな指標を見直している。業界団体ワールド・ゴールド・カウンシル(WGC)は6月、ロンドンの金の値決めを抜本改革する可能性について、業界会合を主催する計画を明らかにした。

一つ考えられる結論は、値決めが電子処理されることだ。 閉ざされた扉の向こうにある紫煙くゆるオフィスで英国の銀行家たちが国際価格を決めていた時代とは、隔世の感がある。

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===== 続く =====
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