550年後、目覚めた英国王=18=

❢❢❢ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ❢❢❢

○◎ =“薔薇戦争”の最後を飾る英国王・ヨーク朝の終焉= ◎○

ダービー伯爵

リチャードはヨークシャーを出立する前に、エドワード5世一行に彼等の日程と進行しようとする道筋を尋ねる手紙を送っていた。 それというのも、彼はランカスター公ジョン・オヴ・ゴーントの3度目の妻とのあいだに生れた子の子孫で、王室の血をひいている。 じつはバッキンガム公は、以前から前王妃エリザベスとその親族を恨んでいた。 それ以上の正確な情報はつかんでいなかったが、かれは、盟友リチャードにそのことをいち早く知らせなければならないと考えていた。 彼は、国王が死んだことや前王妃一派が実権をにぎろうとして不穏な動きをしていることをすでに知らされていた。 そのころ、リチャードの親友だったバッキンガム公ヘンリー・スタフォードは、かれの領地のあったウェールズ南部にいた。 ところが、彼から見れば、貴族でもない身分の卑しいエリザベスの妹と、無理やり結婚させられていたからである。

彼らは、リチャードよりも早くロンドンへ入り、王母となったエリザベスらと共に、新体制を固めてしまおうとしていたのである。 しかしリヴァーズ伯らは、リチャードからの要請があったにもかかわらず、彼・リチャードを待つこともなく、先へ先へと急いでいた。 両者の道は、ノーサンプトンで出合う。 リチャードもロンドンへと向かっていた。 リヴァーズ伯とサー・リチャード・グレイにともなわれた幼少のエドワード5世の一行は、ロンドンへの道を急いでいた。

リヴァーズ伯とサー・アンソニー・グレイ、老騎士で新国王・エドワード5世の東宮侍従長だったサー・トマス・ヴォーガンらは、エドワード5世をそこに残し、リチャードにあいさつするためにノーサンプトンへと戻っていった。 新国王一行は、そこで「グロスター公がノーサンプトンに着いた」という知らせをうけた。 しかしエドワード5世の一行は、リチャードとの合流を避けるかのように、すでにそこを発ち、12マイル(約19キロメートル)南のストーニー・ストラットフォードまで進んでいた。 4月28日ないし29日、リチャードはノーサンプトンに着いた。
そしてリヴァーズ伯らは、その晩はそこに泊まることになった。 その日の夕方、リチャードとリヴァーズ伯らとの会見が、友好的な雰囲気のなかでおこなわれ、かれらは夕食をともにした。

ストラットフォード

◇◆ リチャードのクーデター / 敵役として稀代の奸物に描かれる遠因  ◆◇

 ノーサンプトンに到達したリチャード(後のリチャード3世)は翌日の早朝、エドワード5世一行はこの地で合流を約束していたにもかかわらず、この町を離れ12マイル先のストニー・ストラットフォードまで進んでいることを知る。 エドワード5世を取り巻く連中が約束を反古にしたことを知る。 事態の急変をリチャードは感じた。 リチャードは、ストーニー・ストラットフォードへ急いだ。 1483428日、グロスター公リチャードとバッキンガム公ヘンリー・スタフォードは、エドワード5世を警護しつつロンドンに向かっていたリヴァース伯をストニー・ストラットフォードで拘束した。 リチャードらはリヴァース伯に争う意図はないと伝えていたものの、 リヴァーズ伯ら3人を謀反の疑いで逮捕し、拘束してしまう。 そして、翌日にはリヴァース伯と王の異父兄のリチャード・グレイらはリチャードの囚人としてリチャードの領地ヨークシャーのボンテクラフト城に送り、投獄する事を命じた。 因みに、彼らは6月末に処刑される。

  その一方で、リチャードはエドワード5世のそばに摂政として仕え、エドワード5世には国王の身を害そうとするウッドヴィル家による陰謀を妨ぐためにリヴァース伯らを行かせたと告げた。 また、ほかの者がかってに新国王に近づくことを禁じた。 この428日から29日にかけてのできごとについては、二つの異なった記録がある。

 一つは1483年、当時、たまたまイングランドに滞在していたイタリア人僧侶のドミニク・マンチーニが残した記録である。 そこには、次のように記されている。

ジョン・ハワード

・・・・・「リチャードとリヴァーズ伯らの会見はなごやかに進み、その日は何事もなく過ぎた。 ところが翌朝になると、リチャードはリヴァーズ伯らを逮捕した。 そのあと、バッキンガム公とともに大軍をひきいて新国王のところに駆けつけると、かれを側近たちから隔離した。 そして、先王が健康を害して死亡したのはリヴァーズ伯らの責任で、かれらはリチャードの暗殺もくわだてて待ち伏せをしていた、と リヴァーズ伯らを非難した。 それで新国王は、いやおうなくリチャードの保護下に入らざるを得なかった」・・・・・

 リチャード3世にかかわる最大の謎の一つに、かれが王位簒奪を考えたとしたら、それはいつだったかということがある。 マンチーニの記録から読み取れることは、リチャードはこのころすでに王位簒奪をくわだてていて、その機会を狙っていた。 それでリヴァーズ伯らがあいさつにきたとき、油断させておいてかれらを逮捕した。 そして新国王には「リヴァーズ伯らが謀反をくわだてた」と吹き込んだ――ということになる。

 このときのようすを伝えるもう一つの記録は、『クロイランド年代記』という、リンカンシャーの修道院の記録である。
 これによると、ノーサンプトンのリチャードのところにリヴァーズ伯らがあいさつにきて、友好的な雰囲気で会見が進み、夕食をともにした――というところまでは一致している。  しかし『クロイランド年代記』では、バッキンガム公はこの席に遅れてやってきたことになっている。 そしてその後には、・・・・・。

鎧・騎士

 ===== 続く =====

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